二十三 真実 参
「これが真実だ」
全てを語り終えた舜は、苦しみから逃れるように瞼を閉じる。
「……愚かだ。あまりにも。儒帝を殺す事など、誰でも出来たのだ。それをしない、決断しない理由まで、俺は考えていなかった。結局俺は
舜は重い息を吐く。深く、腹に溜まったままだったものを少しづつ、少しづつ巻き込んで。
「その後、俺が即位して、母上はいつ俺が殺されるかという悩みから解放された筈だった。だが、其れ迄の心労が祟ったのか、風邪を拗らせてそのまま亡くなった」
舜は自分が吐いた言葉から逃げるように項垂れて、顔を覆った。
「俺だけが、生き残った――」
懺悔の如く、舜は重々しく言葉を吐く。己がしでかした事を、誰かに罰せられる事もなく、吐き出す術もなく、ただ後悔だけを腹の中に溜め込み続けた。
だが、自責の念に潰されている隙は無い。後宮に巣食う死者達が己の死を待つように、呻いて縋りつく姿すら見ぬふりして、己の父の罪と己の罪のどちらをも背負って、国に身を捧げなければならなかった。
「皆死んでいく中で、俺だけが屍を踏みつけて生き残っているようでならなかった。俺が安易に父の殺害など企てなければ……異母兄上は自害などする事もなかった。母も生きていたやもしれない。周皇后が入宮する事もなかった。そうすれば
ずぶずぶと自ら沼へと溺れていく。舜は頭を抱えたまま、身体は震えていた。
そうしていると、舜の身体から黒い靄――邪気がぞわりと現れた。舜を包み込み、更なる沼にでも赴かせる様に。
「趙皇后の言葉が今でも耳に残っている……『お前が殺したのか』、と。事実、俺が儒帝を弑する事が無ければ兄上が自害などに手を染める必要はなかった」
ずんと、空気が濃く、重くなる。一等重い心の底から、己への憎しみを絞り出すかのように、舜のその身が
「……俺が……俺が死ぬべきだったんだ……」
喉の奥を震わせたような声色は
言葉は穢れと成りて、禍を呼ぶ。蟲が、甘い蜜でも見つけたかのように。人の心を喰い漁るのだ。
生ぬるい風が頬をなでた。生々しい、嫌な空気が立ち込めて――禍々しいもの達が集まり始める。
舜が吐き出した邪気へ、どこからともなく現れた蟲達。空からは、
「己に
清廉とした声が、重々しく轟いた。黒い蟲達がピタリと止まり、それ以上舜へ近づこうとはしない。
身を固くしていた舜も、重たい頭を持ち上げて重暗い色で染まった顔を見せる。が、顔は邪気に包まれ表情は消えていた。
「
流麗は立ち上がり舜に近づくと、迷いなく舜の目の前に膝を突く。頭を抱え込んだままの舜の手に触れて、そっと自身へと引き寄せた。
「貴方が皇帝位を即位して、どれ程に国が変わったか知っていますか? 重税に喘ぎ、飢えて死に行く子供がどれ程にいた事か。口減しに殺される子供がどれ程にいた事か。生きていく手段を選べない者がどれ程にいた事か」
当時、
流麗は己が目に映った過去の現実を思い起こし、舜の手を更に強く握った。
「確かに皇族の方々の尊い命が損なわれました。けれども、陛下の御判断で救われた命がある事も事実です。消えた命は戻りません。忘れろとも言いません。ですが、今は亡き命に縛り付けられてはなりません。どうか今一度、圭第一皇子殿下に託されたものを思い出し、生きている事が間違いなどと、言わないで下さい」
流麗は言葉を終えると額を舜の手に当て、誰よりも、必死に
舜は呆然と自らの膝に縋り付く女を見下ろした。
余裕で澄ました顔を見せていた流麗は何処にもいない。
ただただ、死に向かおうとしている舜を引き止めるばかりの姿は弱々しい。小刻みに肩を振るわせ、心の底から舜の生を願っているようにも見える。
まだ出会って、たった数日。
「……流麗、」
舜は握られた手を労るように優しく握り返し、空いていたもう一方の手を隠れていた流麗の頬に添えた。掌とはまた違った、凍える冬を思わせる肌の冷たさ。
その冷たさに紛れて、別の感触が舜の指に伝る。驚きのあまり流麗の頬に添えていた手に力を入れて、顔を上に向かせれば、流麗の頬には幾重にも涙が伝い流れていた。
「何故だ。何故、そなたは俺にそこまでする必要がある。姫家に仕えているだけだろう。亡き
舜はそっと袖で流麗の涙を拭いながらも、これまでの疑問をぶつけた。
現状、皇宮と道士や巫覡、寺院や道院は決裂している。先帝の行いとはいえ、当時皇宮に勤めていた道士と巫覡は理由もなく殺された。
だのに、これまで殆ど関係が切れていたのにも関わらず、姚家は隋徳が送った手紙に颯爽と返事をした。
いくら過去に繋がりがあったといっても、顓頊帝の時代から二百年。時の隔たりを忘れさせる程、流麗は舜の為にと、あっさりと道士や巫覡を呼び問題を解決した。
その理由が、舜には判然としなかった。
「流麗」
舜は囁くように呼びかける。
一度は口籠るも、流麗は舜の柔らかい声に促され口を開く。ただ、己の事を話すのが得意ではないのか自然と目線が落ちた。
「私もこれまで、生涯姫家にお仕えすると教えられてきました。それが、我らが姚家の勤めであると。例え、お呼びがかからなくとも、この
流麗は
姚家として扱われるが、女に生まれると力の扱いを学ぶ為、道士として生きるのだと。親と呼べるのは、流麗と同じ
皇帝陛下の為にと教えられるが、道士や巫覡を意味もなく殺し、色欲に溺れた男だ。思慕の情には程遠い。それでも叔母は、いつかは皇帝陛下からお呼びがかかるかもしれないと、流麗に厳しくあった。
『なんて、馬鹿げているのだろうか』
聞けば、噂では皇帝の子は次々に病で倒れているという。いっそ、滅んで仕舞えば良いのに。修行を受ける傍で、流麗は姚家という存在を忘れていてくれとすら願っていた。
だが、ある時。突如、儒帝が崩御したという報せが国中に広まった。
「先帝陛下が身罷られた頃、私は道院を出て、地方を巡っていました。禍祓士は数が少ないので、あちこちを旅して――なので、崩御も風の噂で知ったぐらいです。それから暫くは、皇都に戻る機会もなかったのですが――先帝陛下の崩御から四年経って、漸く皇都に戻って驚きました」
貧しい物乞いで溢れて、荒れ果てていた皇都の姿が、少しづつではあったが様子が変わっていた。道ゆく人々の顔には笑みが溢れ、酒房に出向けば、剋帝陛下を讃える声がある。
剋帝陛下が、貧しさに喘ぐ者たちの為に私財を投げ打ったという。それだけでなく税も軽くなり、街並みも明るくなった。たった数年で皇都は流麗にとっての見知らぬ地となったのだ。
流麗はあまりの様変わりに言葉を失って、帰る場所を間違えたのかとすら思ったのだと、静かに笑った。
「それから、皇都が華やかな街並みへと代わり行くのに、そう時間はかかりませんでした。勿論、全ての人が貧しさから抜け出せたわけではないでしょう。でも、私は確かに陛下の功績を目にしたのです」
流麗は目を輝かせ、当時を語る。まるで幼い子供が夢を抱くかのように。
「私よりもお若い方と聞いて、心を弾ませました。聡明でいて、慈悲深いお方。それが、私がお仕えする方なんだと。例え、お目見えする機会が無くとも、私は陛下の為に生きようと決めました」
流麗の瞳は、再び舜を見つめた。
「私にとって、陛下は光です。陛下が私に生きる目的を与えて下さったのです」
勘違いしそうなまでの熱い眼差し。握られた手はいつの間にか移動した熱で、温もりに包まれる。
「私の言葉など、妄言にも近い戯言でしょう。ですが、どうか。死ねば良かったなどと言わないで下さい」
流麗は再び包み込んだ舜の手に願いをかける。
どうか。どうか、と。
「流麗、立ってくれないか。顔を見せてくれ」
流麗は零れる涙を拭い、ゆるりと立ち上がった。月光に照らされた表情は、昂った感情故か赤く染まって艶めかしい。
己の為に涙を流した女。舜は流麗の手を取ると、
あまりにも突然で、流麗は均衡を崩して舜の膝の上に乗り上げる。瞬間、流麗は何が起こったかを理解して顔面蒼白になり慌てて降りようとするも、腕は背に回され、頭は舜の肩へと押さえつけられる。舜に抱きしめられ身動きが取れなくなっていた。
温もりに包まれて、流麗の心臓は今にも口から飛び出しそうなまでに、高鳴り悲鳴をあげる。
「へい……か……」
ただ温もりを享受出来たなら、どれだけ良かったか。ぎこちなく、身体を完全に預ける事もできず、流麗の手は宙に浮いたままだった。
それでも、舜の手が緩む様子はない。
緊張でどうにかなってしまいそう。流麗は、舜の顔を覗く事すらもままならなかった。
そんな状況だったが、舜の口から囀るよりもか細い声が流麗の耳にも届いた。
「……名を呼んではくれないか」
切実な声は今にも事切れてしまうのではないかと思わせる。
十四歳で即位し、その後八年を駆け抜けて政策に生きていた人物とは思えないほどに弱々しい。
家族を失い、がむしゃらに生きるしかなかった。孤独の中で、必死に生きようとしている。そう感じた時に、流麗は漸く己を締め付ける腕の温もりを受け入れてそっと背中に腕を回した。
「舜……」
流麗もまた、囁くように返した。
意味もなく名を呼ぶその行為を、その温もりの意味するものを今は考えない。
流麗は、ただの姫舜となった男にそっと寄り添う。
静まり返った夜がゆっくりと過ぎてゆく。舜纏わりついていた蟲達は暗闇の中へ、穢れは霞の彼方へと消えていった。
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