二十二 真実 弐

 ◆◇◆◇◆


 八年前――儒帝の死から二日と経っていないその日、後宮は混乱の渦中にあった。

 女達は涙に暮れる。しかし、皇帝の死を偲んで哀しむ者がどれだけ存在したであろうか。

 病に伏したままの者、折角手に入れた地位が掻き消えて自身のその後に嘆き怯える者、家に帰れる事を願う者と、様々。しかしその中でも格式高い皇后、ひいては位の高い妃嬪達が儒帝を悼み沈黙していた。その心中は果たして安堵か、それとも死者への冒涜か。

 

 舜の中には、そのどちらも無かった。父へと祈りを捧げる為とうそぶき後宮を抜け出して、往来をひたひたといつも以上に目を凝らして歩く。

 いつもは女達の賑やかしい高い声が響く後宮も、この日ばかりは弔いのためか、呻くような鳴き声や、咽び泣く声に、祈る声ばかりで埋め尽くされている。舜の目に映る黒い靄も相まって、黄泉の世界にでも迷い込んだようだった。

 そうして後宮を抜け出た先。皇宮もまた、混乱の最中にあった。

 皇帝の死により、皇太子殿下の即位が確実のものになったのだろう。即位に葬儀に、しかし後宮では先帝達の多くの妻達が病に伏したままであったりと。

  

 皇宮中を駆け回る官吏達の忙しい姿を横目に、舜は皇宮の一角にある霊廟を訪れた。祖霊を弔う霊廟は豪奢だが静かなもので、物言わぬ神の偶像だけが舜を見下ろす。そこに祀られたるは、冥界を統べる泰山府君たいざんふくん。吊るし行燈に灯された蝋燭が揺れる度、泰山府君が眼光炯々がんこうけいけいとこちらを睨む。冥界で、人を裁くその様を思い起こさせる眼光は、舜の罪も見透かしているようにも感じた。

 全て、知っているぞと言われているようで。

 

 ――もし、儒帝――父が無事に泰山夫君の身元へと辿り着けたなら、誰にその命を奪われたかを……死の瞬間に何があったかを暴かれているのだろうか

  

 舜は父へと祈りを捧げる事もなく、かといって冥界の王へと許しを乞う事もなく。泰山府君を見上げるばかりの時を過ごした。


 そうして、どれくらいか経った頃。背後に開け放たれたままだった霊廟の硬い床を踏む音が鳴った。


『殿下』

 

 同時に、深い男の声に舜は振り返る。霊廟の外から差し込む光を背中から受けた男――ふう左丞相さじょうしょうの顔は、背後の光の所為で影になっているのか、それともいつも通り靄に埋もれているのかよくは分からなかった。

 

 舜の側からは何も見えなくとも、入り口からは霊廟の中は良く見えた事だろう。もちろん、舜の顔も。今、自分がどうな顔をしているのか、その顔を左丞相がどのように思っているのか。今の舜には、計り知れないものとなっていた。

  

 冷静沈着な足取りがゆっくりと舜へと近づいて、けれどもその近づく一歩一歩からも怒りが滲んでいるような怪訝な足音が舜の隣で止まる。

 本来であれば風左丞相という立場とて、第二皇子には平伏さねばならぬ。が、怒り故なのか。本当は冷静さを失っているからなのか。隣に並び立った男が、ゆるりと頭を垂れる気配どころか、今しばらく言葉が発せられる気配がないと悟って、舜は再び泰山府君へと目線を戻した。


 左丞相もまた顔がゆっくりと上へと向いて、舜と同じく泰山府君を見上げる。しかしというべきか、その口からは死者への祈りも弔いも、何一つとしてない。腹積りを泰山府君にでも打ち明けているかのような厳しい目つきを向けたまま時間が過ぎて、漸く開かれた口からは、舜へと向けた怒りが零れ落ちていた。


『御自身が何をされたか、理解されていますか』


 静寂の中に、怒りを滲ませた声が嫌に耳に響いた。それだけで、この男は全て悟ったが故に此処に来たのだろうと知れる。


『私は懺悔をするべきか』

『意味が無い。そもそも誰に対して許しを乞うつもりですか』

『許しなら、異母兄上あにうえだろうか。異母兄上あにうえが即位され、もしもの時は朱家と母上の助命をせねばならないだろうから』


 そこに、自分の命は含まれていない。簒奪を企んではいない、ただ異母兄上あにうえを即位させた先にある平和を願った上での行動だったと自供したも同然。舜の思惑も悟った左丞相は、深く、遺憾のままに息を吐いた。


『実に浅慮。圭第一皇子殿下が何を考えているかまでを掴みきれずに、そのようになさるとは……』

『何が言いたい』

『今までに、殿下と同じ思想を誰も抱かなかったと思いか』

『障害は、趙皇后陛下であろう。私が異母兄上あにうえに服従の意を示せば趙皇后とて……』

『だが、圭第一皇子殿下がまた床に伏す事態になったらどうされる。病になり、起き上がれなくなったら。その時に、誰が国の権威を手にする。一番の邪魔立てになるものは誰か。その邪魔立てになる存在を立てようといさかいに巻き込まれた者達の命はどうなるか。果ては、その先がどうなるか――。一度、非道な行いに手を染めた者が最高位の権力を手にした時、私には最悪の先行きが浮かびます』


 左丞相が口にした先行きは、舜の脳裏にもしかと映った。それこそ、黒い靄に覆われた世界などよりも、余程悲惨な。

 舜の目線が泰山府君の眼光から外れて、左丞相へと向かう。では、どうするのが正しかったのだと、言葉が口から飛び出しそうにはなったが、舜の口は上手く動かない。


 舜は、皇宮の外が今どうなっているかを知っている。民は飢え喘ぎ苦しみ、死を待つばかり。命は軽く、存在している筈のものが無いものとされる。

 誰かが行動せねば――何か変化がなければ、民は救えない。舜は、壁の向こうに手を伸ばせぬもどかしさから解放された筈であったのに、またも胸中は暗い靄が覆って、何かが胸の中を這いずっているような気分の悪い感覚に襲われていた。


 十四歳の少年が、惑い、苦しむ。その様を前にして、左丞相もまた目線を下ろした。舜と視線を重ねて、何か口にしようとした、その時だった。


『風左丞相! 第一皇子殿下が皇子宮で自害をっ……!』


 入り口から血相を変えた声が廟の中に響き渡った。舜の存在に気づきもせず、天変地異が如く慌てた官吏が告げた言葉は、十四歳の少年が自分の行いを顧みる事すら許さず、奈落の底へと突き落とすには十分だった。

  


 ◆



 後宮の区画から少し外れたそこに、皇子宮の一つがあった。成人した皇子は後宮から出て行かねばならない。舜も十六歳になれば同区画に第二皇子の宮が並び立つ筈だった場所だ。

 何度と、異母兄を慕って訪れた宮には、見知らぬ官吏や女官達が大勢いる筈なのに、嫌に静まり返っていた。

 


 皇子宮の簡素な私室――その寝台の上には一つの亡骸が横たわっていた。二十二歳という働き盛りとは思えぬ身体は痩せ細って、色白な肌が青く染まっている。口元は幾度と吐血したであろう鮮血により血に塗れて、最後まで苦しんだであろうその表情は決して安らかとは言えなかった。

 舜は、自身の衣に血で染まる事も厭わずに、兄の隣へと座り込み、その手を握る。せめてものと、苦しみ悶えたであろう瞼を閉じて、口周りの血を拭う。


 なぜ、こうなってしまったのか。


 舜の望んでいなかった結末が、望んでいなかった権威が、舜の手の内に転がり込んだ瞬間でもあった。後悔ばかりが心を埋めて思考は働かない。背後には左丞相が控えたままだったが、そんな事すら忘れて、心の内でひたすらに何故、と兄に問い続ける。兄の手を掴んだまま舜は、ただ茫然と兄を死を眺めるだけで時間が過ぎていった。

 


 そこへ、皇子宮へと来訪者があったのか騒がしくなった。甲高い女の叫び声が離れた位置からでも耳を突き刺すように響く。その声が誰のものであるかなど、想像に難く無かった。


「圭!!」


 後宮に居るはずの人物が突如現れたにも関わらず、左丞相は冷静だった。横目でその姿を捉えて、警戒の色だけは見せる。


 舜の背を見つけたであろう目は怒り狂い、淑やかさを忘れた足取りは威嚇でもしているかのように次第に大きくなる。

 もうあと一歩で、部屋へと踏み込もうと言うその時、趙皇后は一瞬動きが止まり目を見開く。寝台の上に横たえるそれが何かを悟ったであろう。報せだけでは、夢か何かと取り違えたような思想であったはずの息子の死が、現実となったのだ。

 

 現実となったが故に趙皇后の目は悲哀が宿る。しかしそれも、瞬き一つで掻き消えて、次に現れたのは憎悪だった。兄に寄り添い、死を悼む少年の姿。

 皇后にとって、憎い男と別の女の間に生まれた子でしかない。既に憎しみしか残っていなかった男は息絶えた。その男への憎しみまでもが少年へと注がれたように、舜への憎悪がずんずんと大きく膨れ上がった。


『お前が殺したのか!!!』


 この世の全ての罪が舜にでもあるかのような叫びが、皇子宮全体にこだました。

 しかし、舜の思考には趙皇后の一切が認知されていないようで、僅かな機微も見せずただ兄だけを見つめ続ける。それが、なお腹立たしいと感じたのだろう。

 趙皇后の殺意を込めた一歩が前に出ようとした、が。


『それ以上、貴女が近づく事は許されぬ』


 左丞相の手が、趙皇后を遮っていた。皇后たる立場にあって、人に道を防がれるなど無かっただろう。それが故に、趙皇后は新たな憤慨により怒りは頂点へと達する勢い。美しかった顔は見る影も無く、憎悪で醜く歪んでいた。


『何をっ!!』

『圭第一皇子殿下が亡くなられた今、皇位継承権は舜第二皇子殿下へと継承された。貴女はを幾度となく殺害しようとした嫌疑がある。の正妻であろうと、近づく事は許されない』


 冷然とした左丞相の口振に、僅かながらに冷静さを取り戻した趙皇后は自身の手から全ての権威が消えた事を思い知ったのだろう。それ以上強く前に出る事もなく、徐々に顔は青褪めていく。


『残念ながら、第一皇子殿下を推していた者達も、もう手を貸す事もないでしょうな』

 

 今度は自身の立場が窮地に立たされている事を思い出したかのように、目には動揺が生まれる。今にも気狂いして発狂しそうなまでの隠しきれない恐怖が、淑やかさが消えた指の先にまで現れていた。

 

 そこへ追い打ちをかけるように――――趙皇后に背を向けたままの舜は、『左丞相、私は大丈夫だ』と淡々と発した。

 重たげに身体を動かして、ゆっくりとだが趙皇后へと振り返り視線を送る。決意を固めた強い眼差しを携えて、今度は舜の足自らが趙皇后へと近づいた。

 その足は趙皇后の眼前へと辿り着くも、そのまま横を通り過ぎる。


『趙、私はもう去ります。どうぞ、兄上と最後の時間をお過ごし下さい』


 舜は左丞相と共に、第一皇子宮を去っていった。

 

 舜の言葉をどう受け取ったか。趙皇后が自害したのは、それから間も無くの事だった。



 ◆◇◆◇◆

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