二十一 真実 壱

 空が闇色に染まる頃、流麗は耀光宮へと戻った。二日前に訪れたばかりの人払いされた露台に一人立ち、白い仮面の奥底から覗く視線は遥か上空で夜を照らす月へと注がれていた。満月に近づきつつある姿は眩くも、流れる雲によって時折隠れてしまう。されど、また強い風に吹かれて雲はゆるりと流れ月は顔を出す。

 そうやって暫く眺めていると、背後から足音が近づいた。邪魔しないようにとでも考えているのか、こちらの様子を伺う様な静かな足取りに、流麗はゆっくりと振り返る。

 

 月夜に現れた、この国の頂点たる男。舜の双眸からは昨晩の怒りは感じられないが、濁った墨色のようにどんよりと重い視線が流麗を見つめていた。

 流麗は舜の澱みを受け止める為に、ゆっくりとした手つきで素顔を晒す。微笑むでもなく静かに舜へと視線を返すと、柔らかい物腰で揖礼ゆうれいをして見せた。


「いい、顔を上げてくれ」


 誠実な舜の声に、流麗は揖礼の姿を解きながらも忠義を宿したままの瞳を携えて、真っ直ぐに舜を見やる。

 堅い……玉座にある姿のように強張った顔付きと風格がゆらりと動いて、「して、どうであった」と呟く言葉すら重苦しい。重厚なそれが真綿で首を絞められているようで、流麗は一瞬口を開くのを躊躇しながらも、喉を絞るように声を押し出した。


「……陛下の奥底にあるものは、見えたかと」


 舜は別段に興味も無さそうに「そうか」と返すと、そのまま昨日と同じ向かい合った長椅子の一つに腰掛ける。舜の手は当然のように、卓の上に用意されていた酒に手を伸ばした。手酌で杯へと注いで、一口。真っ当と言える肉体となり、味覚が酒を美味いと言ってもう一杯注ぐ。


「座らないのか」


 舜の目線は向かいの椅子を指す。重く紡がれたそれは、座れと命じられたも同義。流麗に選択肢など無い。

 

「……では、」


 流麗は静かに着席すると同時に、己に向かう双眸に向き合う。舜がこくりと酒を呑んで楽しむ姿を見ても、今日ばかりは流麗の手は膝に置かれたままだった。


「酒も呑まずに話をするつもりか?」

「お話の後にでも頂きます」


 どんよりと重かった瞳が、鋭利な刃へと変わる。 

  

「何がわかった」

「あくまでも仮定として聞いて頂けると。実地調査をしたわけでもないので、憶測で話をします」


 舜は、「ああ」とそっけなく返しては、またも酒を喉へと流し込む。何かを忘れようとして。何かに追い詰められて。何かに向き合おうとして。様々な思い巡らす胸の内に苦しめられているような姿。

 流麗は舜の姿に向き合いながら、一つ息を吸い込むと、言葉を紡ぎ始めた。


「陛下の御心を仄暗い闇へと引き摺り込むものは何なのかを、ずっと探っておりました。しかしそれは、一つではなく。様々な死が……」

「前置きは良い」


 舜を慮り、できる限りゆっくりと話を進めようした流麗の言葉を、舜は冷たく遮る。酷い言い草にも思えたが、流麗の中で躊躇いが消える瞬間でもあった。

 

「陛下は幾度となく、趙皇后により毒を盛られておりますね」

「ああ、何度か死にかけた」

 

 舜の返答は慎重に言葉を選んだ流麗とは対照的に、己の死を語る口とは思えぬほどに軽いものだった。舜が即位する以前の診療記録は毒に犯され続けても尚、生き残った結果と言える。

 ただ血を吐くだけ、熱にうなされるだけの時もあれば、死の縁を彷徨う事もあった。その度に、隋徳は毒を見極め、舜の命を救い続けたのだ。


「陛下の兄君……圭殿下の記録も拝見させていただきました。けい殿下は、優秀ではあらせられたそうですが、随分と虚弱だったそうですね。趙皇后の子であり、第一皇子。ひいては皇太子であったそうですが……資料では、よく床に臥していたとか」

「……起き上がっていた時間の方が少なかった頃もある。異母兄上あにうえではあったがな」


 兄の死を口にした側から、舜の悲愴なまでに声は沈んでいく。

  

「しかし、陛下は健康体。圭殿下と同程度に優秀……陛下は、剣術指南等も受けていたのでは?」

「何故、そう思う」

「初めてお会いした日に、私の手を見て触れて、剣の嗜んでいるのかと尋ねられました。剣を握る手を見慣れている証拠です」


 そんな事を覚えていたのか、と舜は自嘲気味に笑いながら、またも酒を口へと流し込んだ。溜飲が下がる事を期待してか、更にもう一杯と酒を注ぐ。


「陛下は、趙皇后陛下の敵意の対象になっていてもおかしくはない。十分に毒を盛られる対象になるでしょう」


 第一皇子よりも、長く生きる可能性がある第二皇子。

 共に優秀で、より健康的であるとすれば。優秀な官吏がどちらを選ぶか、常にその恐怖に苛まれているとしたら。聡い皇后が我が子可愛さに第二皇子を手にかける事を厭わない人物であったとしたら――


「趙皇后陛下は、圭殿下が皇帝位に着く障害となるものを取り除く程度には非道になれる方。ですが、残虐では無かったかと」

「だが、余の弟妹達は皆死んだ。当時は禍蟲とやらもいなかった。他に何が原因となる」

「いえ、恐らくですが。禍蟲は存在したかと」

「恐らくという割には、確信めいているな」

「ええ、あくまで仮説ですが……当時、陛下は禍蟲がだったのかと」


 舜の目が見開く。ある意味で、見える者の盲点とも言えるだろう。舜は幼い頃から見える事が当たり前であったが、誰かとその世界を共有した試しが無かった。その結果、見える全てが真実と思い込んでいたのだとしたら。

 舜の中でも、流麗の言葉がしっくりと解として当てはまった瞬間だったのか、あまりの衝撃に何も言い返せずに口を手で覆って閉口してしまった。


「子供は弱い。幼ければ、幼い程に。禍蟲が湧く程の穢れた土地でなど、まず育たないでしょう。身籠っている女も同じ。腹の中の子が弱れば、そのまま母胎も……それに、精神が弱っている者に対しても、禍蟲は害悪にしかなり得ません。中には陛下と同じく、禍蟲が入り込んだものすらもいたかも知れない。肉体、精神が共に弱り、何の手立ても無いままに死んでいく。道士も巫覡もそれがわかっていた。見えていたが故に後宮の危険性に気付いて、先帝陛下へと進言した。しかし結果は、虚偽を述べていると斬られてしまった……のではないのかと」

 

 見えない者に、事は難しい。

 先帝をよく知る舜の脳裏が、当て嵌まった解を前にして顔は苦々しくなるばかりだった。そんな舜を尻目に、流麗は更に続ける。

 

「年齢が上がるにつれて、または、で力が強くなる事はあります。気を澱ませる程の事象……例えば、とか」 


 流麗の言葉に、口元を掌で覆ったままの舜の顔が、濁る。それでも、流麗の口は止まらなかった。


「陛下の御子息、しょう殿下も衰弱死、ですね」


 ぴくりと舜の肩が動いた。濁る顔は思い詰めたように、目線を流麗へと流して睨め付ける。


「二歳になる前に、亡くなられていますね。陛下のご兄弟と同じ症状で、段々と弱っていく様を陛下は目にしたのでは」


 舜は、言葉を返さなかった。ただ、睨む目だけが変わらず流麗を突き刺すも、流麗は意に介さずに言葉を紡ぎ続けた。


「それと、趙皇后陛下は自害だそうですね。圭殿下も。更には先帝陛下は、薬を使って殺害された――のではないかと。日付を辿る限り、先帝陛下が亡くなり、その後、圭殿下が自害。その後を趙皇后が追った……のでしょうか。それから半年ほどして、陛下の母君が病で亡くなられ、そこで死の連鎖は一度は止まった」


 ザアザアと流れる木々の葉が擦れ合う音が、煩く響く。二人を隔てるように、煩わしい耳鳴りの如く、騒めきは不気味に続いた。

 舜は、流麗の言葉を否定しない。遮りもしない。まるで、流麗が口にする言葉を待っているようだった。


「此処からが、また憶測なのですが――先帝陛下は薬を飲まれていたそうですね。その処方は、隋徳様の時もあったとか。隋徳様は、丹州の薬学を学ばれている。先帝陛下の信頼を得るには十分だったのではないでしょうか。ですから、例えばですが――陛下が隋徳様にようにと、命じる事は可能だった、のではないでしょうか」


 そこまで言い終えて、流麗は漸く酒器を手に取り、杯を満たした。

 ごくりと、一気に酒で喉を潤した流麗は、再び杯を満たすが為に酒器を傾けた。並々と注がれる透明のそれ。躊躇いも無く酒精を楽しむその姿を見た舜の目には、鋭さは消えていた。


「それが、そなたが調べた全てか?」

「陛下は三つの死に心を絡め取られておられます。儒帝陛下の死、圭殿下の死、そして――尚殿下の死。所詮は憶測なのですが、陛下の内にある後悔が気を濁らせて禍蟲を呼び続けております。それだけは、真実です」


 舜は、流麗に初めて会った日を思い起こした。その口から出た言葉は、「言葉にして吐き出せ」だった。本当にそれが、意味のある事かどうかは判然としない。

 舜は顔を俯けて額を抑えながら、悩みに悩んだ末……引き結んだ口をゆっくりと動かし始めた。


「話す相手は、そなたでも良いのか」

「ええ。私で良ければ、ですが」

「そなたは口は硬い方だろう?」

「陛下との間にあった事を私が口外することは御座いません」


 流麗がふわりと微笑む。その姿に、舜は再び月精を思い浮べるも、流麗はどこか遠い存在のようで、物悲しくもなった。


二つ。それぞれに共有している秘密がある」


 砕けた話口はなしぐちに、流麗は杯を卓の上へと戻した。


「その一人が隋徳だ。そなたの言う通り、先帝の死に関しては俺が隋徳に命じた事だ。もし、強壮剤の量を増やしたらどうなる、とな。しばらくして、父は死亡した」


 当日夜伽の相手をしていたのは末端の妃嬪だった。彼女もまた同じ薬を持っており、享楽にふけこんだ先帝は通常の二倍以上の量を服用したと診断されている。妃嬪は暗殺を企てたとまでいかないものの、皇帝の死に関わったとして取り調べもなく処刑された。儒帝陛下は年齢も六十歳近くだったのもあり薬の副作用による心臓発作と診断され、あっさりと儒帝の時代は幕を降りたのだった。

 そう、全てが一人の妃嬪の責任とされただけで、これと言った調査もなく全てが終わったのだ。妃嬪がどうやって薬を手に入れたかどうかの調査もされる事も無く。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る