二十 優雅なお茶会 弐

 午後の日差しは暖かく春を思わせるが、空気は冷え切っている。いつまでも互いの目すら合わせない状況が不毛と感じたのか、主催である範宮人が怒りを鎮めるように一呼吸息置く。恐らく、彼女は最後の最後まで招待したもう一人を待っていたのだろう。しかし、また雲が出てきて、少しづつ日差しが弱まる兆しを見せた頃合いで、諦めたように口を開いた。


「本日は皆様にお話をお伺いしたいと思いまして、お集まり頂きました。本当は皇后陛下のお心を懸念していたのですが……」

「あら、ご自身の下へと陛下のお渡りが無い事で、てっきり今日という日を警戒しているのかと」


 蒼貴嬪は扇子で口元を隠したまま、くすくすと笑う。いかにもな言葉を選んで、わざと相手を煽っている。されとて、範宮人もそういった言葉が出る事は事前から推察はしていたのだろう。みしりと軋みそうなほどに、口の中を噛み締めて怒りを堪えている。今にも歪みそうになる顔が、また蒼貴嬪を楽しませているだけなのだが、それを完璧に隠す術を範宮人は持ち合わせていない。 


「そういう蒼貴嬪は本日の心配をしなくて宜しいのですか? ご自身だけは特別とでも思っておいでなのでは?」


 憤り、上気した呼吸が隠しきれない口調は、苛立ちがありありと浮き彫りになっている。これでは、蒼貴嬪に隙だらけだ。が、直様、範宮人へと嘲笑うように反論するだろうだろうと思われていた蒼貴嬪の目からは表情が消えていた。扇子で覆っていた口元が晒されて、鮮やかな一文字を描いた紅色の唇が陽光に艶めきだつ様が、生々しく。ゆっくりと動きだしたそれがまた、範宮人の不安を煽った。

  

「……残念ながら、陛下が我々の誰にも愛を向けて下さらない事は、未だ誰の下へと赴かれていない事で判じたと言えるでしょう。先の事までは知れませんが、あの女道士――姚流麗と言いましたか。彼女に肩入れしているのは間違いないと考えた方が良い」


 感情の消えた目が、これが事実だと語る。

 今までは、皇帝陛下のご不調で済ませてきた。妃嬪達が不満に思わぬように、突き放しはせずに定期的に食事の時間を共にして、できる限り後宮に混乱を招かぬようにと配慮もされる。

 そう考える事で、全てがしっくりと治ってきたのだ。いつか――ご不調が改善された頃には、もっと親身に……それこそ妻として、女としてその腕に抱いてくださるのあと期待をしていた。だが、しかし。蒼貴嬪は僅かな希望を現実という狂気であっさりと打ち砕いてしまった。


 範宮人は黙こくる。本来であれば、今日のお渡りの相手は蒼貴嬪だ。範宮人とて、今日も道士の女を選ぶであろう可能性は予測していた。その揺さぶりを蒼貴嬪に与える事が目的の半分であったわけだが、蒼貴嬪が真実を口にした事で、今日どころか、これからの先の事までもが見えなくなってしまったのだ。


 そこに、雪解け水の如く透き通る声が静かに鳴り響く。


「現状はあくまでも一時的と考えるべきでは? 陛下にはお世継ぎの問題が残っておられます。あのようなただの道士を後宮に迎え入れるとは到底思えませんが」


 蕭貴人の顔つきは、冬の女神と称される落ち着いたそれであったが、その瞳は真冬の凍てつく大地そのものだ。

 冷静でいて、しかしおごりがない。皇帝の親族だけでない位の姿のままその場に鎮座していた。


「陛下が女一人にうつつを抜かすなどあってはならない……言いたいのはそう言うことでしょうか?」

「事実かと。陛下だけが正統なる姫家の最後の血。これが絶えるなどあってはならないでしょう。それに、道士一人でこれまでの積み上げてきた臣への信頼を無為にするなど有り得ない」


 澄まし顔で、再び茶器へと口をつける。優雅な居住いと所作からは、高潔な姿だけが映った。


「まあ、陛下はお優しい方ですから、もしかしたら蕭貴人を慮っていつもの来訪はあるやもしれない。ですが、そこで終わることだとてあり得るのだと覚悟は必要ですよ。陛下の従兄妹だからと言って、袖にされないとは限らない」


 澄まし顔の眉が、ピクリと動く。

 

「何を根拠に」

「さあ、女の勘でしょうか」

「……くだらない言い分です」

「あら、が閨に招き入れたとまで噂が立っているのですよ?」


 噂は噂だ。蕭貴人はたったその一言を返せなかった。無理も無い。その噂が広まっても尚、それを否定する噂は一つとして流れないのだ。

 姚流麗が皇宮に姿を現してからと言うもの、剋帝陛下は政務以外の時間の殆どを、共に過ごしている。それまで、種無しだの堅物だの……他にも様々な噂はあったが、途端に毒婦に唆されたと皆が口々に語るのだ。

 そのような話は、後宮に入ってから今の一度も耳にした事が無いのに、だ。


 蕭貴人は口を閉ざしてしまった。それぞれが思案するべく静寂が訪れて、水の上を滑る風の音が、この空気をさらに凍えさせるが為のように冷気を運んでくる。


 もう終わりか。そんな言葉が蒼貴嬪の脳裏に浮かんだ頃、今日まだ聴く事の無かった声が静寂を遮った。


「蒼貴嬪は随分と余裕の様子ですが、何か手を打とうとは考えないのですか?」


 女にしては、妙に深みのあるよく通る声。独特の声色は心地良く、しょう(竹製の笛)の調べにでも聞こえているように蒼貴嬪はうっとりと頬を緩ませた。


「蒼尚書令しょうしょれいの立場は今や不動なもの。しかし、それだけでご自分の地位が揺らがないとでも?」


 頬に手を添えて『この声に歌わせたら一体どんな夢心地を味わえるのか』、そんな夢想から溢れる熱い息を吐く。しかしそれも瞬き一つに間に、今の今まで緩んでいた唇がゆっくりと形を変え、「私は何も変わりませんわ」と、口角を上げた艶のある笑みを浮かべた。細い指先を既に冷め切ってしまった茶器へと伸ばし、指先を淵を摘んでそっと持ち上げる。


「陛下の御心など、この場にいる誰も掴めないのですよ。陛下が我々をお求めにならない限りは、望むなど烏滸がましい。女としての矜持が、女を求められない事を虚しく思うなら、お家に帰りなさいな。陛下に一言二言離縁をお求めになれば、陛下は二つ返事で書簡を認めて下さるでしょう。まあ、皆様のお家がそれを易々と許してはくれないでしょうが」


 細い指が持ち上げた茶器がゆっくりと虚空で傾けられ、一口も飲まれる事のなかった中身は卓へと溢れ行く。

 この場の誰もが、求められていない。諦めろ。そう告げているようで、蕭貴人と範宮人の瞳は仄暗く、無言で蒼貴嬪を見つめた。しかし、意に介さないといった様子で呂美人だけは、本来は皇后陛下が座る筈であった席へと目を向けていた。


 ――この場にいる、か


 呂美人の瞳は、皇后陛下の席から池へと移る。先帝が妃嬪達を喜ばせるためだけに作ったと言われる人工池。水面は美しく、季節になれば睡蓮の葉で埋め尽くされ、薄桃の花が咲き乱れる時季ともなれば、それはそれは見事なものだ。

 睡蓮は、剋帝陛下が皇后陛下へと贈ったものだ。皇后陛下が好きな花が、それだったのだと。爽涼な風と共に味わう景色を、尚殿下と三人で共に眺めていた頃もあったのだとか。

 節制に厳しい剋帝が皇后陛下の為に今も維持して、補修も抜かりなく行われている。


 武官の道に生きた呂美人にとって、後宮へと押し込まれた事自体が人生で最悪の出来事だった。軍に所属したままであったなら、昇進の道もあった。それなのに、ある日突然全てを奪われたのだ。

 そのような境遇で、皇帝の愛が欲しいとも思えず、無為な時間ばかりが過ぎていく。それでも、ただ一人へと向けられた愛情に居心地悪さを感じて、僅かばかりに虚しさを感じていた。

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