十七 姚家 壱

 雨でも降りそうな灰色雲が空一面を覆っていた。流麗は城門から出たばかりで、まだ皇宮から数歩程度の距離しか動いていない。しかしそのたった数歩で、家に帰ると決意した筈の意思がもう揺らぎそうになっている。視界に映る市井の景色に何処か安堵しながらも、自分の心情を映し出したような空模様に眉を顰めては二の足を踏んでいた。

 陰鬱な空に向かって、「帰りたくないな……」などと一人ごつ。はあ、と嫌気ばかりが先行きした心持ちをなんとか押し込めて、流麗は歩を進めた。



 貴族の、と言うには憚られる古びた家。四方は塀で囲まれて、それなりの風格ある佇まいには見えるのだが、塀の中を覗けば、壁も屋根も、ところどころ崩れかけて、そのうち潰れるんじゃないだろうかとすら思わせる。他人の家にも似た感覚で跨いだ敷居に対して流麗が考える事は、いつも同じだった。


 今日に限っては、曇天の空模様が陰鬱さも醸し出しているものだから、余計に気が滅入るのだろう。それでも姿勢を正して玄関口へと向かう頃には、心情の全てを白い仮面の奥底に隠して、ただ無心だった。

 戸口の前で門環もんかんを鳴らすと、扉の隙間から老齢の家令が顔を出す。しかし、扉の中へと案内する事はなく、細めた目線を向かうであろう方角へと向ける。その先にあるのは、内廊下だ。さらにその先にあるのは離れへと続く歩廊。言葉はないが、家令は先導するように前へと歩いていく。流麗も特に何か返すこともなく、家令に従い後ろに続いた。


 そう大きくはない。と言っても、貴族としてみればの話である。母屋と離れがいくつか連なる程度には大きな家には、多くの親族が寄り添うようにひっそりと暮らしている。今も、静かだが四方からの視線だけは向けられていた。しかし、家族なるものからの温かい出迎えのなかった流麗へ向けられるものは冷たい。それこそ、敵地にでも迷い込んだかのような蔑むような、気味が悪いとでも言いたげな視線が、そこかしこから流麗へと降り注いでいた。

 皇宮でも好奇な目線に晒されたが、陰湿さで言えばこちらの方が何倍も上だろう。そこへ、殊更に強い視線。殺意にも等しいそれが流麗の行く手を阻んでいた。


 歩廊が終わり、呼び出した当人がいるであろう離れの前に、流麗の面差しによく似た中性的な顔が佇む。背丈も流麗よりも僅かばかりに高いだろうか。男とも女とも判然としない姿が構えるように腕を組み、顔を歪ませるほどに睨め付ける。薄紅がかった唇が動いて、一言口を開くと女にしてはやや低い声が憎しみでも吐き出すかのように一言つぶやく。そこで漸く男である事が判じられた。


「よく此処へ来れるな」


 男の感情に反して、流麗は無だった。

 

「呼び出されたのよ。私が気に食わないなら、いつも通り部屋に籠っていれば良いじゃない。それとも、何か気に食わないことでもあった?」


 流麗の指摘通り、気に食わない何かがあったのだろう。ぎりりと女顔が歯を食いしばり、瞳には憎悪にも等しいあからさまな拒絶を宿す。今にも一歩踏み出して流麗に殴りかかりそうだった。が、流麗は無感情のまま、寧ろ殴りかかってくるのを待っているかの様に泰然と構えている。互いが互いに悪意ある心持ちな事だけは確かだ。

 そんな様子に、流麗を先導していた家令が冷めた調子で「ふう」と息づく。


犀苓さいれい様、流麗様を家に呼んだのは御当主様です。今はお引き取り下さい」

「こいつに敷居を跨がせるのが間違いだ」

「では、機会ある時に御当主に進言を」


 嫌味たらしい言い口にも聞こえたのか、犀苓と呼ばれた男は舌打ちをすると、流麗が来た道へと向かって行く。横を通り過ぎるその時も犀苓の目の奥から滲み出るそれにすら、流麗は無感情のままに見送る事もなかった。


「御当主様をお待たせしてはいけません」


 厳しい物言いと、細めた目は、ただ仕事をこなしているだけの家令だ。

 そうだった、この男はこういう男だった。流麗は家令の特性思い出して、途端に肩の力が抜ける。

「いちいち感情的になっていては仕事が疎かになる」という言葉が、何か起きそうになる度に家令が如何にも面倒臭いと主張する口振で、口癖の様に溢す愚痴だ。流麗と犀苓に割って入ることも口出しもしないが、当主以外には誰に対しても態度を変えない。流麗は今も背後から感じる殺意がどうでも良くなって、ふっと口元が緩んだ。


「そうですね、行きましょうか」


 流麗も、家令と同じく仕事をこなすだけだ。流麗は促された小さな平房へいぼう(平屋)の中へと向けて足を動かした。


 ◇


 流麗は幼い頃に見た姚家当主という人物が巌窟の様に固く、真っ暗な人物だと思っていた。決して笑わない表情と、どんよりとした目が見えない巌窟の奥底のようで、見上げた姿が大きく屈強に思える。それが、幼い頃の幻影だったと気づいたのは、ごく最近だった。

 覇気のない目と、そこらの男性よりも高い身長。見た目、体躯は良いが、鍛えていると言う程ではない。ただ普通よりも――女よりも一回り大きな身体が屈強に見えて、生気のない目が仄暗く映っただけなのだ。


 幽鬼のような重暗さを放つ、四十も半ばの年の頃の顔が影を落として対面に座る。その人物が放つ言葉は、見た目印象のままに酷く重く、鬱屈としていた。


「陛下のお加減は」


 単調な声が、永世の繋がりある主人に向けているとは思えない。しかし姚家当主――姚湧青ゆうせいは、隋徳医師の言葉でいの一番で流麗へと皇帝の下へと赴く様に命じた張本人である。どうにも暗い印象と感情の乗らない話し方で、胸中が測り難いと言うだけ、の人物だ。

  

「現状は問題なく。ただ、禍は抜けてもまた戻るかと」


 そんな姚家当主に合わせたように、流麗も抑揚の無い声で話す。態度も会話も、上官と下僚のような距離のまま二人は続けた。

 

「浄化の儀に関しては道士から詳細の報告を受けている。彼女の話では、陛下の他にも問題があるとか。そちらはどうする」

「そちらに詳細は不確かな事が多く。ですが、どちらも私に任せて頂ければと」


 流麗の声音に抑揚は無いが、惑いも無い。確固たる信念が紡ぐ言葉の数々に、当主は静かに頷いた。それが、了承の合図だったのだろう。鬱屈とした印象とは違い、さあ次といった具合に早々と違う事案を口にしていた。

 

「姫家との信頼は取り戻せそうか」

「……解りかねます。ですが、手応えはあります」

「これからの事もある。手応えでは足らん。陛下が視鬼なのだとすれば尚更に強い信頼が必要となるだろう。姚家の忠義を示し、陛下との確固たる繋がりを取り戻したい」


 当主も過去の信頼を重ねた熱望が剋帝陛下へ向いているようで、読み取り難い声音でも軒並み並べた言葉が全てを物語る。流麗は小慣れているようで、当主の言葉に理解を示したように「はい」と返事をした。


「剋帝陛下の件に関しては引き続きお前に任せる。傅道士から見ても、より良い関係が築けそうだと喜んでいた。問題があるとすれば、先帝まで繋がりのあった仙朴せんぱく道観だろう。そちらが何か言ってくるようであればこちらで対処する。お前は皇宮の問題にだけ集中するように」

 

 これにも、流麗は頷くだけだった。当主は見た目と話し方の印象で損をしていると思うよりない。流麗は慣れているからこそ、当主の言葉一つ一つに信頼を置いて頷くだけで済ましているが、これが初見であればきっとどんな言葉を並べられていても疑ってかかっただろう。

 決してつまびらかに出来ない事柄が多く、流麗は簡潔にしか語っていない。けれども当主は流麗への信頼だけで納得して任せると言っている。流麗にとってこれ以上の上役はいないと言っても過言ではなかった。

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