十六 憶測 弍
自分の息遣いが耳に響くほどに、部屋は静寂に飲まれていた。
窓の外には風もないため、箸の先が銀製の食器へと当たるたびに静寂の中に音が生まれる。
皇帝と妖しい道士の密会とも、皇帝の日常的な夕餉に客人が招かれているだけとも言える、この状況。それでも、女官達はいつも通りに動くだけだった。
此処は皇帝の住まいとあって、女官の一人一人が、それなりの家柄の出である。並び控える姿の存在感は薄い。流石は日々皇帝に仕える女官達。傍で控えながらも背筋をまっすぐに伸ばして揺らがない為、控えている間の彼女達の姿は人形も同然だ。
しかしその姿が、堅苦しい空気を生み出しているのも事実だった。人形の視線は揚げ足取りでもしようと言わんばかりに虎視眈々と、件の間女――基、客人の抜け目を狙っているのだ。
流麗の状況は傍目間女も同然だろうか。勿論、それを理解して剋帝陛下の思惑のまま動いているのだが、人形の視線は手厳しく、おちおち気も抜いていられない。
流麗もそれを判じているのだろう。指の先まで神経を研ぎ澄ましたように、箸の先が豆を摘む時ですら動きは滑らかだった。
そうして気の抜けない食事は着々と進み、盛り付けられていた皿の上が目減りした頃だった。
突如、部屋の中に白い鳥が現れた。木窓は閉め切られて、鳥が入り込むような隙間は無い。中空を旋回して羽ばたく姿に気がついたのか、舜は顔を動かさず目線だけが自由に飛び回る白を追っていた。羽ばたいているはずなのに羽音が無い。下手な事も口に出来ず、怪しまれぬ程度に眼球を動かす。
現世の存在とは思えぬほどに眩しい白。
嘴どころか瞳まで白く染まったそれに興味津々と言った具合で観察は続いた。勿論、周りに気取られぬように。
そうやって舜が鳥を見つめたままでいると、その白は一点――流麗の肩へと狙いを定めてゆっくりとだが舞い降りた。
ふと、嘴が動く。
白い鳥が一頻り話し終えたのか、嘴の動きも止まる。すると、ふっと煙の如く消えてしまった。まるで夢幻の一時でも見ていたかのようで、己が目を疑うかのように瞬きをする。しかし、もう一度開いた先に、やはり鳥はもういない。代わりに、同じく鳥の存在に気がついたであろう人物へと視線がずれた。流麗の肩から、流麗の顔へ。
すると、流麗の顔色が僅かに曇っているようにも見えた。僅か。そう僅かに、流麗の眉根が嫌悪を示すかのように寄る。ほんの一瞬の事だったが、流麗が舜の視線に気がつくと、またいつもの柔和な面差しへと戻っていた。
その眼差しがまた、舜の胸を打つ。舜は頬が緩みそうになったのを必死に抑えて、唇を引き結ぶ。流麗に間女の役を買ってもらったが、微笑み一つで皇帝が落とされたとなれば流麗は間女では済まない。
舜はこれ以上の失態を女官達に晒すわけにもいかず、下がるようにと女官達に向けて手を払う。言葉はなくとも女官達が察するのは早く、颯爽と扉の向こうへと姿を消した。気配が消えて漸く、固く閉じていた舜の口が開く。
「すまんな、こんな事に付き合わせて」
「いえ、陛下とご一緒できて嬉しく存じます」
そういって、また微笑む。言葉も仕草もごくごく自然で、一体今まで何人の男を惑わしてきたのか、などと夢想して悶々とする。ああ、これでは自分もその一人になる。と、舜は思考を振り払うように目を閉じて、誤魔化すように咳払いをした。
「そういえば、先程の白い鳥は何だ?」
「あれは道術の一種で、道士が言葉を乗せて飛ばしたものなのですが……まあ、喋る手紙ですね」
「ああ、それで何か話しているように見えたのか」
「ええ、飛ばした主人の声で話すので……と言っても、聞こえるのは届いた者だけですが」
道士が使う不可思議な術なのだろう。舜は流麗の簡単な説明で納得するも、ふと先程見た流麗の表情が蘇る。白い鳥が話した後に見せた、顰めた顔。
――何か、良くない話だったのだろうか
どこまで流麗の懐へと立ち入って良いものか。逡巡する舜を尻目にして、先に口を開いたのは流麗だった。
「陛下、本日は資料の閲覧を許可して下さり、誠に感謝致します」
舜は切り替わった話題を前に、一瞬遅れて「ああ」と返事する。無理矢理話題を挿げ替えられたような気もしたが、だとしたら尚更に踏み込めない。
「いや、探していたものは見つかったか?」
「ええ、大凡は。ただ、陛下にお伺いしたい事が幾つか」
話の流れに乗せられて、舜の口が軽く「なんだ?」と返した。
その軽さに反して、流麗の口は重たげだった。一呼吸置いた口が、慎重に。かつ言葉を選んでゆっくりと口を開く。
「先帝陛下の最後は、覚えておいでですか?」
それまでの温和な空気が一気に冷えた瞬間だった。舜の目つきも流麗を射るような――それこそ政敵でも相手取っているような眼差しへと変貌する。しかし、流麗は目を逸らさなかった。舜の反応など事前に判じていた事とでも言っているのか、ただ返答を待つと言わんばかりに指の先にまで緊張はなく、舜の目線を恐れてもいない。
「覚えている。資料を読んだのだろう。それが真実だ。世間で暗君、色狂いとされた父が、最後に強壮剤の副作用で死ぬなど醜聞も良いところだ」
先帝――儒帝の死は、強壮剤の過剰摂取による心停止だった。強壮剤自体は、後宮医官または、朱貴嬪付きの隋徳、どちらもが処方している。残された包み紙からして、儒帝は通常の二倍を摂取したと推察された。
「だから、病死と?」
「ああ、都合が悪い時に重宝される言葉だ。あの時、多くの者が原因不明の病と言われていた。何の違和感も無かった――それこそ、誰も気にも留めない死だ」
とても、先帝――ましてや父親の死を語るそれではなく、吐き捨てるような口振で舜はすらすらと答える。まるで忌々しいものを主題とした会話など早く終わらせてしまいとでも言っているような。そんな様子が、舜の父に対しての評価そのもののようだ。気分が悪いと言わんばかりに視線が下がる。頭が重く垂れ下がり俯いたそこへ、追い打ちをかけるように更なる流麗は澄んだ声音のまま言葉を投げかけた。
「では、
俯き加減だった舜の顔が、一層濃く翳った。
同じ、の意味。舜は、これが「圭殿下の死は、恥ずべきものだったのか」と瞬時に捉えた。
「圭殿下並びに、圭殿下の御母堂であらせられる先の趙皇后陛下のどちらもが自死されていました。圭殿下が先に、その翌日に趙皇后陛下。趙皇后が圭殿下の後を追われた、のでしょうか」
舜は黙ったまま。肘を突き顔の前で指を交互に組んだ手の上に額を乗せて頭を支える。おかげで、はっきりとした表情は翳り見えない。だが手の隙間。視線だけが眼球の上をぎょろりと動いて流麗を見やっていた。
「お二人の死に、心当たりは?」
「資料からでは見えなかったか? それともまだ情報が必要か?」
「どれだけ探ろうとも、あくまで憶測の域は出ません」
「では、これ以上何を知る必要がある。知ったところで、余の身体とどう繋がる」
言葉が重い。舜の心情のままに垂れ流されたようで、怒りを滲ませたずんと重暗い声が腹にまで響く。父を語る時とは正反対。それこそ激情にも似た怒りが、ひしひしと空気まで歪ませてしまいそうだった
「あります。陛下の心の根底にあるものが、重要でございますから」
流麗の声は澄んだままだ。浄化の儀式で舜を慮っていた清廉な声音が、心情の底根を隠しているようでもあり、ただひたすらに揺らがない精神がそうさせているようでもある。
流麗の態度は変わらない。ただ舜を想い、言葉を述べているだけ。その、濁りのない流麗の眼差しが、舜の感情を悟ったように目を伏せた。
「陛下の御心を乱した事、此処に謝罪致します。決して、圭殿下の死を穢したかった訳では御座いません」
流麗は立ち上がり、静かに
舜は静かにその姿を見届けていたが、そう間を置かずして、冷えた声音が「今日は下がれ」とだけ告げた。
流麗は静かに扉の前へと歩く。しかし、一度振り返り舜へと再び礼をする。
「明日、一度外に出ます。ですが、夕刻に再度お時間を頂けますればと」
舜は俯き虚無を見つめたまま。舜は静かに「良いだろう」とだけ溢した。
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