十 何も知らない

 日も沈んだ頃、はん宮人きゅうじんが暮らす白虎宮びゃっこぐうでは、金切り声が混じる荒れた声が轟いた。


「陛下のお渡りがないってどういう事なの!?」

「ですから、本日はどなたの宮も訪れていません」

「お加減は良くなられたと耳にしたわ。それなら、順番から言って今日は私の宮に来るはずでしょう?」

「そう言われましても……今日は耀光ようこう宮(皇帝の宮)で過ごされると」


 けたたましい金切声に、周りに集う女官達は眉を顰めそうになるのをじっと我慢して身を竦める。嵐が過ぎ去るのを待つだけ、ではあるのだがその嵐を治める方法は存在するのかどうかも怪しい。苛立ちを隠せない範宮人は、今にも伝言を受け取った侍女に手を振り上げてしまいそうで、可愛らしかった幼顔はいきり立ち、気が強く、己を抑えきれない様がありありと浮き出ている。

 一体なんて事をしてくれたのかと、嵐を起こした元凶へ訴えたくとも、それすら叶わない。


 昼間に何が何だかわからない内に悍ましい恐怖を一身に浴びて既に侍女も女官も皆精魂尽き果てている。そこへ加えての、剋帝陛下の仕打ちだ。

 皆一堂、諦めにも似た心持ちで、怒りの矛先が自分へと向かないようにと願うばかりだった。

 

 剋帝陛下はどの妃嬪にも肩入れをしていない。更には、周皇后とは不仲と言われ、その証拠に周皇后の宮である麒麟宮にはもう何年も足を踏み入れてはいない。

 剋帝陛下の御心に入り込むならば、今しかないのだ。しかし、その皇帝本人が妃嬪の元に訪れたなら、の話である。

 

 剋帝陛下は贔屓をしないが、二日おきに妃嬪の宮を順番に訪れる。今日、陛下が白虎宮に訪れるという事が、範宮人にとってどれほどに重要であったか。


「ああ、もう。これでは、次のそう貴嬪きひんに遅れをとるじゃない!」


 序列で言えば、皇后を第一位とした時に、第二位は貴嬪である。宮人は、第五位の最下位なのだ。

 これが、先帝のように、大勢の妃嬪を抱えた内の一人であったなら第五位もそこまで悪くはなかっただろう。

 だが今は皇帝の妻は五人しかいない。それも、範宮人は一番くらいが低い。それが、範宮人を焦らせる要因でもあった。


「何か手を打たないと……」


 先細り小さくなっていく声。位が低いからと言って、他の妃嬪達と比べても遜色がないほどに豪奢な部屋の中。範宮人は不安からか、跪き見ぬふりをする侍女達を前にしても、何度も、何度も部屋の中を右へ左へと彷徨った。




 ◇◆◇◆◇




 秋風が通り抜けて木々が揺れ、梢や葉が擦れてザアザアと鳴く。その度に、耀光宮の露台に金木犀の香りが立って辺りが華やいだ。


 舜は杯を片手に、秋の夜に酔いしれた。漸くまともに味わえるようになった母の故郷の味を口に含んでは、対面の礼儀正しく座る女の姿を盗み見る。仮面を外して綻んだ顔には華があり、酒の肴には丁度良い。貴族位というのもあるのか、ある一定の教養がある姿を見せつけて、座っているだけの姿にも品があった。

 女も一口酒を飲む。名前の通り、流れるような動作が美しく、紅をひいた唇に思わず目がいくほど。今し方、酒を流し込んだ潤い艶めく唇が、薄く開いた。と、同時に清廉とした声が凛と鳴る。


「目は慣れましたか」


 ああ、と舜は気の抜けた返事をし自分が間抜けに思えて、自然と口元を隠すように下顎を掌で覆った。


「今まで、声や身体付きで判断していた人物達の顔が見えて、思ったよりも頭が混乱するが、情報が多いに越したことはない。そのうち慣れるだろう」

「陛下でしたら、すぐでしょう」


 金糸雀を思わせる澄んだ声音が、夜風を縫うように耳に届く。ただの世辞。それが舜の耳を擽り、妙な心地よさを与えた。


「それで、陛下は私の何を知りたいのでしょうか」


 金糸雀の声は続く。何が知りたいかと聞かれて、舜は呆然と何を尋ねようか考える。が、そもそも、名前しか知らないのだと思い出す。一番最初に浮かんだ疑問はなんて事はない至極単純なものだった。


「歳は幾つだ」

「二十四です」


 端的な答えだったが、舜は何故だか気が抜けた。

 

「……年上だったのか」

「あら、陛下は年長者を敬っていただけるのですか?」

「己が精神を御する事のできる者、礼を尽くす者、我が国の為に尽くす者には敬意を示している。年齢は関係ない」

「同感です……他にはありますか?」


 どこまでも余裕を見せる流麗の姿に、ふと疑問が湧いた。二十四ともなると結婚適齢期など過ぎている年頃だった。


「結婚は?」

「していません。私には無縁のものです」


 舜は謎の安心感に浸る。が、同時に戸惑いも生まれた。何故そんな事を気にするのか、と舜は自問自答する。己の中に湧いた良くわからない感情を打ち消すために、また別の質問を考えた。


「……では、ようについて。こちらに記録はないが、姫家きけとどういった繋がりになる」

「あくまで、姚家の記録に残されているものとしてお答えします。虚偽の是非は問わないで頂きたいのですが」

「良いだろう」


 それまで雰囲気に合わせて和やかな顔つきだった流麗の顔は、途端に悩ましげに変わる。話に自信が持てていない……恐らく流麗にとっても真意が知れないところにあるのだろう。


「二百年前に災禍があった事をご存知でしょうか」


 これには、舜は眉を顰めた。


「知っている。突如、この国が夜に覆われた、という話だろう。常夜とこよが訪れ、国には災禍の象徴たる悪鬼や妖魔が溢れて混乱に陥った、と。当時、その災禍を鎮めたのは顓頊せんぎょく帝と云われているな」


 どこまでが真実かの判断は、舜にはできなかった。寝物語ねものがたりの如く真実味に欠けた表現ばかりに、史実には記されていない記録。あくまでも伝え聞く限りは、と最後に付け足した。

 けれども、寝物語あいまいなはなしを語る舜とは違い、流麗の瞳には確固たるものがある。得心しているかのように、全ての話が真実だとでもいうように、流麗の瞳には一切の迷いがなかった。


「全てが真実です。大いなるわざわいにより常夜とこよが訪れ、妖魔による混乱で国は滅びかけた。しかし、偉大なる陽の気たる顓頊せんぎょく帝により、夜は祓われたのです。ですが、常夜を呼び出した禍根ものだけは祓えなかった。それを封じたのが、当時の顓頊せんぎょく帝の側室の一人――名も無き貴人であったと言われています」


 流麗は寂しげに目を伏せる。


「それが、姚の?」

「はい。ただ、彼女は姚家という家から後宮に入ったという記録はなく、彼女は突如、貴人として現れます。本当の名は我々も知り得ません」

「出生は不明か」


 流麗は、小さく頷く。

 

「ただ、顓頊帝の寵愛を受けたとだけ。市井しせいの生まれだったとも、さる貴族の妾の子だったとも云われています」

「それで貴人になって、記録もないと?」

「記録が残っていないのは、故意に記録を消したからとも考えられます」


 舜は目を見開いて驚いた。それが真実であるならば、皇宮に保管されている記録を誰かが消した事になる。そして、それが出来る者は当時とて限られていただろう。


「消したのは、顓頊せんぎょく帝か」

「恐らくですが。此処からが、もしかしたら陛下の不況を買うやもしれないのですが……」

「狭量になった覚えはない。話せ」


 流麗はくすりと笑うと、ではと言って続きを話し始めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る