九 浄化の儀 参

 本殿のとある客間で、舜は客とは呼べないと名乗った女道士を前に肘掛けに肩肘ついたまま眺めていた。

 先程まで……帝鐘ていしょうを握っていた時は、確かにあった風格が消えてしまったようだ。地べたに座り儀礼として拱手の姿勢を見せるが、相変わらず布で覆われた顔は隠れたままなのにも関わらず、どうにも上目遣いでニコニコと上機嫌でいる様でならない。


剋帝こくてい陛下、この度は御用命、真に有り難く存じます。次に何かお困り事がございましたらば、何卒、我らが糸寂しじゃく道院どういんへ」


 道士の商売人のように回る舌に、舜は呆れた顔を見せた。道士というのは、もっと厳かで、重々しい連中だと思っていたのもある。実際、先程の儀式で見せた様子はそれに近かった。威圧を兼ね備えた雰囲気に、聡明なる振る舞い。風格あった様は一体どこへと消えてしまったのか。

 先程までの記憶が霞んでしまいそうな上機嫌な姿。まあ、傅道士に提示された寄付の金額を見れば、誰でも上機嫌になるのかもしれないが……。


 舜は傅道士から目を逸らしの、その隣で同じく膝を突き頭を垂れたままの女へと目線を移した。先程まで、隣で舜を慮っていた様子と一転。ひざまずいて畏まり、舜に対して礼節を弁える。それは、皇帝という身分を前にして当然の事なのかもしれないが、舜にしてみれば途端に距離が離れてしまった様で、その距離が虚しく感じた。

 そんな、舜の視線に気がついたかどうかは定かでなかったが、跪いた姿勢のままの流麗の声が舜へと届いた。

 

「陛下、此度の儀式により後宮に残っていた彷徨う者達は浄化され、穢れは取り払われました。されど、未だ残る部分がございます」

「……余の事……だろう」

「ええ、陛下の中にある澱みは未だそこに。ですが、もう一人。禍根が残った方がおります」


 その瞬間、舜は最後に見た憎しみが籠る瞳を思い出し、舜の眉間に皺が寄るほどに顔を歪ませる。


「……周皇后か」

「ご明察にございます」


 舜は全く嬉しくなさそうに二人から視線を逸らし、何かを考えるまでもなくそのまま口を開く。


「傅道士、此度はご苦労であった。そなたらの力はしかと見届けた。今後も、何かあれば助力を頼む」

「もちろん、その時は我々一同陛下の元へ飛んで行きまする」

「金は後日、書簡と共に届けさせる。下がれ」


 舜の素っ気ない言葉を気にする事なく、傅道士は立ち上がり再度深々とした揖礼を見せると、言われるがまま足取り軽く部屋から退室していった。

 

 残された流麗は、舜の言葉を待っているかの様に今も膝をついたまま。

 矢張り、遠い。


 流麗がわざと舜への主従関係を指し示している様で、なぜだか舜にはそれが面白くなかった。けれども、今の心情をどう言い表せば良いかも分からず、舜はただただ手の届かぬ位置にいる跪く女を眺めるばかりだった。


「陛下、」


 しかし、舜の心情を見通してでもいる様に、瞬き一つの間に清廉な女の声が現実へと引き戻す。


「剋帝陛下の御不調、ひいては周皇后陛下の御様子。どちらも調べたい事がございます。少々、皇宮での資料閲覧の許可を頂きたいのですが」


 顔を上げないまま話し続ける女に、舜の目線は冷めて、口調も強張る。


「……何が必要だ」

「陛下ご自身の診療記録など……様々な細かい記録まで」

「余の病状は自力で治すしか術はないと言っていなかったか?」

「お手伝いはできます。御不快でしょうか」

「……いや、好きにしろ。診療記録は余の管理下だが、隋徳も中身をよく知っている。あやつに案内させよう」

「感謝します」


 機微すら見せず、他の官吏達と違わず従順な姿を示し続ける流麗。いつまでもその姿勢を崩さない事が、舜には無性に、虚しいような……いや、腹立たしいような。舜の今の感情を表す適切な言葉が見つけられず、それが余計にもどかしかった。

 だからか、舜は徐に立ち上がると、流麗へと歩より目の前に立ち竦んだ。


「流麗、立て」


 冷ややかに命ずる声。それに対しても、流麗は迷いも見せずに従い立ち上がり、真っ直ぐに舜を見上げる。

 その眼差しにきっと意味はない。けれども、舜に対して確信的なまでの信頼だけは見える。白い面の向こうで黒翡翠の瞳が舜を突き抜けていく様で、舜は流麗に向かって手を伸ばしそうになった。

 だが、何かが己を止める。代わりに、閉ざしそうになっていた舜の口が滑らかに動き出した。


「……今夜、夕餉に招待するから来い。余の記録を見せるのだ。代わりにそなたの話も聞かせろ」

「喜んでお受け致します。ですが、宜しいのですか? 妃嬪の方々のお耳に入ると、不都合があるのでは?」


 流麗の言葉は尤もであった。が、流麗の言葉では遠回しの遠慮を見せるも、目を見る限り何処か楽しげでもある。

 舜も、興が乗ったと言わんばかりに口の端を吊り上げて、楽しげに返した。

 

「今まで、四人の内の誰かを贔屓した事はない。今日いの一番に行くと、騒ぐ者がいてな……面倒だ。そなたが避雷針になってくれるならば、後宮は平和を保てる」


 舜の体調は健康そのものに戻ったと言っても良い。既に隋徳ずいとくのお墨付きも出て、その報せは後宮にも届いている。その状態で、後宮に足を運ぶとなると御機嫌取りにだけ向かっていた場所に意味が生まれてしまう。

 順番で言えば今日ははん宮人きゅうじんの日。行けば舜の往来で歓喜して、何も事が起こらなければ絶望すら引き起こす。かと言って、別の妃嬪の所へと赴けば、後宮には敵意の嵐が吹き荒れるだろう。

 


 その真意に気付いたかどうか。ただ、流麗は舜の言葉をあっさりと飲み込んだようで。

 

「では、私が毒婦そのの役目を買ってでましょう」


 白い面の向こう、舜の目には流麗が悪役を買って出ると口にしながらも悪戯に笑う姿がしっかりと映っていた。

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