五 悪意転じて禍となる
「一先ず、陛下ご自身の事は今はどうする事もできません。ですが、皇宮の今の状況はお手伝いする事が可能です」
地の底でも覗いていたかのような重暗い声色から一転。明るさを取り戻して再び清廉とした声を発した流麗は、じいっと見つめる舜から目を逸らし、煤けた黒い世界へと目を向けた。
「皇宮は、余が物心がついた頃には煤けたような状況だった。……これはどうにかなるものなのか?」
「ええ、大掛かりにはなるでしょうが。穢れの
全てが煤けてばかりで真実を知らない身としては、願う所の幸いと言えるだろう。僅かだが期待が膨らんで、珍しくも明るい先行きとやらを夢想できたのも、舜には久しい事だった。
「十分だ。何がいる」
流麗は舜から離れて、窓から外を覗く。皇宮の一端が見えて、その景色すらも黒で覆われていた。
「そうですね。とりあえず……皇宮が見渡せる場所が必要かと」
◆◇◆◇◆
舜は
――切なさを漂わせながら、誰かに向けて同情でもしているようだ
他人事のような考えが脳裏を横切りながら、舜は漸く自分と同じ世界が見える者が現れたのだと思うと再度実感して胸を突くような感覚がする。が、それも見渡せる限りに目を通し終わった流麗が再度口を開くまでだった。
「人の言葉には、力があります。人の口から溢れた言葉が穢れとなり、空気中に漂う事は珍しくありません」
「それが皇宮全体を覆っていると?」
大なり小なり。小言から
「おそらくですが。ただ、ここ迄全てが穢れに塗れて染まってしまう事は異常です」
邪気など有象無象の数がいなければ、あるいは大いなる力でもなければ、大河の
しかし、本来であれば容易に貯まる筈のない穢れの影響で朱塗りの窓から眼下に映る皇宮の景色は、決して雅なる城の庭園とは程遠い。
秋めく庭園に咲き乱れる金木犀。人工池に浮かぶ蓮の葉。朱色の屋根や、朱塗りの柱。石畳にまで黒い靄――穢れが纏わりつき、そこかしこに無数の禍蟲が張り付いていた。
「……いつ頃からこの様な状況に?」
「余が物心ついた頃は、黒い靄だけであったが数年前から徐々に蟲が現れ始めた。そうだな、四年ほど前から……だろうか」
舜は過去を思い出すかのように、視線を彼方へと向ける。
――そうだ、最初は何の変哲もない蝶だと思っていた
徐々に数が増え、舜が異常だと気が付いた時にはそこら中が黒い靄を喰む蟲で埋め尽くされていた。
見えているのは舜ただ一人。周りでは顔の見えないもの達に蟲が群がると言う異常な光景を前にして、舜も脅威を感じないわけでは無かった。けれども、皇帝という立場もあり、下手な事を口にはできず相談相手は限られる。その時も舜が信頼を寄せていたのは幼い頃から世話になり続けている隋徳と、乳兄弟だけだった。
かと言って、二人に同じものが見えるかと言えばそうでもなく。ただ、否定をしないと言うだけだった。隋徳に関しては更に、舜が見えている世界が半信半疑だったからなのか、それとも舜の立場を重んじた結果か、下手に口にしない方が良いと言う程度の結論に止まっていた。要は、何もしてこなかったのだ。
「何か、きっかけは思い当たりますか?」
「……さあな」
舜は途端に口が重くなって流麗に背を向けた。
がらんとした、真ん中に長椅子だけが置かれたその部屋は、祭典の時にのみ使われるだけで人目もない。普段、人の気配がないからか、その部屋には祓うまでもなく平静で、舜も気に入っている場所だ。手入れが行き届いていないから埃が目に見えて溜まっている。舜はお構いなしに部屋の中央へと向かって、唯一置かれていた長椅子へとわざとらしく音を立てて座った。
腹を探られた時と同じく、舜の顔はあからさまに不機嫌になって眉根がこれでもかと寄っている。話したくはないと言うわかりやすい意思表示を前に流麗は踏み込む事は無かった。ただ、皇宮の惨状に落ち込んだ様子で窓から目を逸らし、舜の方へと向き直ってもその視線は流麗の足下へと向かっていた。
「もっと、早くに伺うべきでした」
流麗の声は沈み、まるで自責の念に駆られたように俯く。
舜にはそれが不可思議だった。いくら、過去の顓頊帝との使命に生きていると言っても、何故、そこまで流麗が落ち込むのかが理解出来ない。けれども、流麗の姿を前にして流麗の思いも無碍には出来ず、曇り顔のままではあったが落ち着いた声音で流麗へと言葉を返していた。
「どうやってだ。こちらからそちらに連絡する術は失ったも同然だった」
「本来、交流こそなくとも我々の事は代々伝えられていた筈です。先帝陛下は、御病気で亡くなられたと聞き及んでおりますが、何も
大昔の勅命を背負って生きる女は、またしても舜の知らぬ姫家の姿を確固たる信頼で語る。真直たる姿は己にも信頼を向けられているようで舜は思わず流麗から目を逸らしては、悩ましげに地面を見つめては自身の頸を手で覆っていた。まるで己の知る姫家の姿そのものを忌避するように。
「……遺書どころか、遺言の一つも無い。下手をすれば、父よりも以前にその術とやらは途絶えていたやもしれん」
流麗は、八代も前の約束事をさも当然の如く話すが、軽く見積もっても二百年以上は前の話だ。今回、隋徳が見つけた資料も八代前――
「先帝より前の二帝は、どちらも余の伯父にあたるが即位早々に崩御されている。当時の宮中は混乱めいて、父が即位したのも成り行きに近い。その時に途絶えた可能性もあり得るし、残っていたとしても父は何も見えてはいなかった。余に伝わる事はなかっただろう」
舜はあくまでも考察を述べた。可能性の低さは元より、どれだけ姫家に
粛々と勅命を守り続けてきた姚家からすれば、面白くない話に聞こえるだろうか。舜が逸らしていた目線を流麗に戻せるば、既に流麗の視線は窓へと戻り、沈み切ったままの背中で、「そうですか」と細々と呟いた。
それでも一呼吸おくと、「では」と何事もなかったように振り返り舜に双眸を向ける。
「陛下、本殿だけがこのような状況でしょうか」
「後宮や
「それだけの規模となると、私の力だけでは難しいですね」
「隋徳にやって見せた方法では駄目なのか?」
「あれは
「皇宮を
「陛下、心当たりが?」
「いや、なんとなくだ。気にするな、そなたのやり方で構わない」
「いえ、陛下は先天的な
視鬼とは、
「ついでに見えんようには出来ないか? 表情が見えずとも慣れてしまったが、見えた方が楽だ」
「訓練次第では見えなくする事も可能ですが、皇宮で人の顔が見えぬのは邪気が溜まっているからにございます。全て取り払えば、普通の目と変わらぬ景色をご覧になる事ができるでしょう」
舜は、「そうか」と呟く。同時に、流麗が何を言おうと全ての言葉を信じている事に気がついた。
彼女は舜の素知らぬところで姫家に対して絶対の服従を誓い、今も仮面の向こうは信頼と熱意の篭った瞳で舜を見る。
気の迷いと己に言い聞かせても、流麗の熱い眼差しは舜にとって今までにない心地を与えていた。
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