四 禍祓士 弐

 舜の眼光は、今にも目の前にいる流麗を射殺してしまいそうだった。

 腹の内を覗かれたようで癇に障ったと言っても良いだろう。不敬を働けば、言葉一つで人を殺せてしまう身分だ。舜は気は短くはないが、不届を見つけて安易に流せる程には寛容ではない。けれども、流麗は皇帝位を見せつける抑圧的な眼差しを前にしても引き下がることはなかった。


「陛下のお身体はとても強い陽の気を帯びているのに、同時に酷い濁りが見えます。陛下の中にある仄暗いが陛下のお身体の気の流れを歪ませているのです。それが、禍蟲が入り込む隙になったと思われます。私が今、治療を施しても、陛下がご自身の身体を知り、ご自身で元に戻さねば、また禍蟲が入り込み同じ道を辿るだけなのです」


 流麗の様子は落ち着いてこそいたが、舜を説得しようと必死になって僅かな声の抑揚に乱れがあった。それ以上に、表情による判別に慣れていない舜にも、仮面の奥底にある眼差しの強さでいかに流麗が真摯な姿を見せているかが見て取れる。

 不思議と、沸々と浮き上がっていた怒りは薄れた。

  

 古来より、男は陽。女は陰と言われている。それは、舜も知っている事だ。

 姫家とは龍の血を引くとされ、龍の気が最も強い陽の気を創り出している謂れがある。

 されど、舜は気なるものまでは見えやしない。それでも、濁っていると言われて、舜の目が澱んで視線は自然と下がる。まるで、何か思い当たる節があるとでもいうのか。舜の声は地に吸い込まれるように下へ下へと沈んでいた。


「……とりあえずは、治療を優先してくれ」

「承知致しました」  

 

 その一言で、流麗の手がそっと舜の頬に触れた。舜が苛立った事など気にも留めない慰めるかのように優しい手つき。その手は、今の今まで水で冷やしていたかのように冷たい。それが、妙に心地よく、つい手を伸ばしそうになってしまいそうになる。流麗の――女性らしい手つきをじんわりと頬に感じ、かと思えば力が入って今度は顔を上へと向けられていた。

 その向いた先。真正面には白い仮面が視界一杯に広がるが、表情はなく、穴が空いているだけ。


「何故、面をする」


 吸い込まれそうになる黒翡翠の瞳は、きょとんとして思い出したかのように「ああ、忘れていました」と言うと、流麗は惜しげもなく白い仮面を外し、懐にしまった。


仮面これはただの魔除けでして。つけている事が日常なので、つい忘れてしまうのですよ」


 さっぱりとした物言いで仮面を外した女の顔立ちは、端麗なものだった。

 長い睫毛に切れ長の目。赤く染まった唇に色づいた頬。薄くだが化粧をして、女性らしくも流麗の美しさを際立たせるもので、舜はただただ目を奪われ言葉を失っていた。

 

 そんな呆然とする舜などお構いなしに、流麗は左手だけを舜の肩へ置くと更に身体を近づける。身を寄せ合う男女のように今にも密着してしまいそうで、小さな息遣いまでもが聞こえる程に近い。

 普段、側室の妻達ですら遠ざけているからなのか、それとも別の要因なのか。突然の慣れない状況に舜の鼓動が僅かに早くなり、感じた事のない戸惑いが生まれて思考は混乱するばかりだった。それでもなんとか表面上は平静を装い、込み上げる形容し難い感情を頭の奥へと押し込める。

 腹の辺りに流麗の手の感触がするが、それも仕事の一環なのだと、医者がする触診のようなものなのだと、意味のわからない言い訳を自分にして、必死にを堪え続けていた。

  

 丁度、膵臓の辺り――だろうか。

 指の腹で強く押されるような感覚と同時に、鈍痛が腹部に生まれる。すると今度は腹の中が熱くなる。腹の中心から身体中へと何かが駆け巡るよう熱が広がって、一頻り熱が身体を駆け巡ると痛みはすうっと消えていた。

 漸く流麗の身体と距離ができたかと思えば、今度は舜の前で跪き両の手をそれぞれの手で包み込む。冷んやりとした手は近くで見ると傷まみれの上、掌は硬い。


「剣を嗜んでいるのか?」 

「普段は帯剣しておりますが、陛下の御前ではあらぬ嫌疑をかけられるやもと置いてきたのです」


 それまで真剣な表情で仕事に徹していた流麗は、ふわりと笑った。気の強い女の印象が、それだけでガラリと変わる。例えるならば、月の精だろうか。月精げっせいにも等しい女が己の手を労るように包み込み微笑んで、まるで時が止まったようにも感じる。

  

 しかし、別の感覚にそれも遮られた。腹の中がざわつく。再び何かが身体中を巡る感覚と共に熱くなり、鼓動が煩く鳴り響くばかりで思考が止まっていた。

 冷んやりとした心地の良かった手が離れて、眼前にあった顔が距離をとってようやく、舜の双眸の先は流麗ではなく己が手へと移っていた。


「陛下、お加減はいかがでしょうか?」


 惚けた表情の舜に、流麗は軽々と言葉を吐く。小慣れているのか、流麗からは一切の動揺どころか、表情には一片の曇りもない。そんな落ち着いた流麗の様子で、ようやく舜の思考が動き始めた。


「……すこぶる良い」


 適当に答えたわけではない。座ったままであったが、確かに身体が軽くなった感覚があった。


「それは良うございました。ですが、先程も言ったように一時的措置にございます。暫くすれば、また禍は陛下の身体の内に戻ってしまうでしょう」

「……ああ」


 舜は目こそ流麗から外せないままではあったが、それも流麗が再び白い仮面を身につけるまでだった。


「陛下、禍蟲は人の心に過敏です。人の翳りある心に入り込んで、肉体に巣喰い、生気を蝕む。対処するには、心を癒すしか術はありません」

「……癒す、か。薬では治せそうにはないな」

「気分を高揚させる薬は存在しますが、所詮一時的です。心の病を治すには、己自身で立ち向かうか、人に心を曝け出して吐き出すかです。時間が解決する場合もありますが、それでは手遅れになってしまいます」


 白い仮面の向こうから、きびきびと話しているようで、舜に向ける眼差しは物憂げだ。流麗自身では根本を取り除けないとあって、殊更に当人よりも不安に苛まれたように言葉を続けていた。

  

「私に話す必要はございません。ですが、陛下の陽の気を歪ませる何かがあったのであれば、吐き出すべきです。先程の隋徳様でも、皇后陛下でもかまいません。言葉にして吐き出せば、身体に溜まった毒は少しづつ薄れます。それが無理であれば、他に心を癒せる手段を講じるしかありません」


 段々と、声は憔悴したように沈んでいく。まるで、自身にどうにもならない事がもどかしいとでも言うかのように。

 皇帝を前にして、わざとらしい言葉を使う者は多い。身体の不調を心配しているようで、単純に自分は親身なのだと主張する。

 舜は、人の表情を読み取る事は不可能に近い。けれども、見えないからこその幼い頃から鍛えられた洞察力のお陰で、僅かな機微、声音で人の心を推し量る術は身につけていた。

 だが、流麗の声が示す感情に今ひとつ真実味に欠けた。どう読み取っても、流麗が示すのは本心から舜の先行きを心配しているとしか思えないのだ。

 その真意が示すものが今ひとつ理解できず、舜は試すように軽薄な言葉で返す。 

  

「病を治せずとも、罰など下さんから安心しろ。お前の一族も貴族位のままだ」


 舜は軽くなった身体を起こして、流麗の眼前に立ち塞がった。

 頭ひとつ分違えた身の丈に、目線を下げて仮面の中を覗き込む。すると、憔悴した声とは一転した気の強い瞳が舜を睨むように見て「貴族位そんなものはどうでも良い」と言い切った。


「我々姚家は、代々皇帝陛下に忠義を誓っております。呼ばれたなら飛んでいきますし、陛下が苦しむ姿を見たのなら、やはり苦しいのです」

「なら、何故縁を切った」

「切ったのではありません。顓頊せんぎょくていの御命令を遂行し続けていたまでです」

「その命とは」

「いずれ来る厄災に備え、然るべき対処をせよ、と」


 実に曖昧な命令であった。

 いずれとはいつなのか。

 厄災とは。

 然るべき対処とは。


 舜はどれだけ言葉を噛み砕こうとも、まるで、姚家を遠ざける為の方便にしか捉える事ができなかった。

 遠回しというのは舜も良く使う手段だが、大抵相手も気がつく。気が付かないのは、相当に鈍いかお気楽な奴だけだ。


 けれども、知り合ったばかりではあるが、舜の知り得た限りの流麗の姿はどちらにも該当はしない。なのに、彼女の言葉は歴史に埋もれてしまいそうな古い言葉を、確信を持って命令と断言していた。

 言葉に囚われている。なんと憐れな。

 その命令を撤回できるのも、同じ皇帝の地位にある己だけ。そう思うと、舜の口は自然と開いた。


「その言葉を信じて、何か実りはあったのか?」


 冗談めかした舜の返しに、憂慮に暮れていた流麗の瞳が、確固たる意思を見せて舜を見やる。


「残念ながら厄災はいずれ音もなく来る。いつかは、まだ誰も知り得ないだけです」


 ぞっとするほどに冷めた声色は、確固たる真実を語るように重暗いものだった。

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