十五年後のある月曜日
K大学付属病院の月曜日は目まぐるしい。
土日から待機していた患者が受診へと一挙に訪れる上に入院患者の医療的指示や新たな情報が錯綜し、それはそれは混乱を極める。
これはうちに限らずどこの病院でもそうなのだろうが、これらを捌ききるには医師七年目の私にさえなかなか堪えるものがあった。
消化器外科の前にいくつか設置された待合室のベンチには、所狭しと患者が座り込んでいて自分が呼ばれるのを今か今かと待ち続けているなかには、待ちくたびれて眠りこける患者もいた。
そんな外の様子を知りつつも受診の嵐を着実に切り抜ける為、迅速に必要な情報をパソコンへ入力していく。
「相良先生、次の患者さん呼んでもいいですか?」
背後遠方から看護師の声が届く。
「ああ、お願いします!ええと、次は何さんだろう」
電子カルテに羅列する患者名を上から順番に眺めていると、ある名前まできた途端、驚きのあまり全身が総毛立ち、思わず食い入るように画面を見つめた。
『蒔田由奈』
「一◯二番の番号札をお持ちの方、二番診察室にお入りください」
院内に音声ガイダンスが響きわたり、まもなくドアを開け姿を見せたのは、蒔田由奈その人であった。
私は彼女の顔を見た瞬間、この十数年余りの歳月がフィルムを回すように脳裏をよぎり、思わず目頭から涙が溢れてきた。
長い年月の中で、過酷な業務の日々に幾度も挫けそうになったが、医師としての希望と誇りを捨てずにこれたのは、ひとえにアユの存在あってこそだった。
「先輩、ご無沙汰しております……いえ、今は先生ですね」
そういうと、蒔田はふふっと唇を緩ませた。
冗談をいうだけの元気があると見せたいようだが、顔色は英気を失い、声はさながら穴の空いた風船の空気のようで、やっとこさ出している印象である。
私に限らず、医療に携わる者ならば彼女が相当重症であることは明らかであった。
「ああ、久しぶりだね。先輩でも先生でも呼びやすい方でいいよ。君が行方不明になったと知った時、どれだけ心配したか」
この何年間もの感情が一気に押し寄せて、溢れ出すものがとまらない。
看護師に泣いている姿を見られるのが恥ずかしかった私は、蒔田の血液検査の結果を取りに行ってもらった。
「本当にごめんなさい。あの時先輩と別れた後、スマホに『装置にはかかわるな』というメッセージが入ってきて恐くなったんです。あたしの連絡先を知ってる人は少ないし、マシンの話を外でしたのもあのお店が初めてでした。だから、知らない誰かから常に監視されてるのかと思うと、全てから逃げ出したくなって」
「そうだったのか……」
慌てて両目にハンカチを当てて、気を取り直すように一度咳払いをすると、私は問診を始めた。
話を聞いたところ、症状は悪化こそしているが、病の中でも典型的な部類のようで、神藤と私が二人三脚で確立した治療方法に加え、私自身の持つ手技を鑑みれば蒔田の病気を治すことは十分可能であると考えられた。
「うん。この一類ならば治療できるから大丈夫。きっと治るよ」
彼女を少しでも元気づけたくて、言葉の一語一句に力を込めて言った。
蒔田は親しみに溢れた眼差しを向け、微笑んだまま
「あの会社に勤めていた時から常々思っておりました。思いやりをもった心優しい方であると。今日に至るまで様々な病院を渡り歩いてきました。でも、皆流れ作業のように診察を終えるし、最後には難病だから手術はできないの一点張り。そんな折風の噂で先輩がお医者さんになったと聞いて。だから……命を預けるには先輩しかいないんです」
身体の前で組んだ白く細い親指が、もう片方の手の甲を静かに撫でている。
一縷の望みを託す蒔田の言葉に、何とか堪えていた感情のダムが再び決壊した。
「勿論さ。私に治させてください。その為に今生きてるんだから」
そういって、私は右ポケットから紫色のハンカチを取り出すと、蒔田へと握らせた。
その横では血液検査の資料を持ってきた看護師が、顔面が涙でぐしゃぐしゃになった私の顔を見て、呆然としていた。
完
博士の誤算 穂高凜 @V-Star
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。博士の誤算の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます