ー土曜日
昨日は違った意味でブラックフライデーであった。
真実を求めることは時に快感を、また時には失望を生むものだ。
この度私と神藤で思考と調査を巡らせて至った一連の事象に対する答えも、少々後味の悪いものであった。
今日の勤務自体は休みだが、私の手には一通の封筒が握り締められていた。
入職時から準備していたものだが、きっと使うことはないだろうと思っていたのに。
昨日蒔田家を後にしてから、遂に決心がついて引き出しの奥から引っ張りだしたのだ。
課長は土日でも時々出勤しており、今日がその出勤日だったので、私はオフィスに出向き、人形と戯れている課長の前に、雨でふやけた封筒を提出した。
それを見るや課長はわかり易くパニック状態に陥り、辞めないでと喚き散らすのをなだめるのに十分程かかったが、やがて深呼吸しながら落ち着くと
「………認めなきゃ。新たな門出。うん、頑張りたまえ!」
と涙ぐみながらヨーちゃんと共に見送ってくれた。
本当のところ、職場や職員に対して何の思い入れもなかった上に、特に課長には数多くの無理難題を押しつけられてきたので、最後くらい私も我が儘をという意味の即日退職だったのだが、課長のあの様子を見たら少しばかり良心が痛んだ。
オフィスのデスクに入っていた荷物を抱えながら帰路につく途中、真正面に大きな樅の木が見えてきた。
そう、第零公園の目標である。
ここはかつて私一人で過ごす憩いの場だったが、わずか数日でアユとの思い出の場所へと変わった。
思えばアユと会えなくなって、すでに三日が経つ。
水曜日以降、わざわざまわり道してまで公園の前を通ることを避けていた。
まず始めに浮かんでくるのは、あの夜の苦い記憶。
思い出してしまうという恐れが、私の足を遠ざけていた。
だが、アユと蒔田が同じ人物と判明してからはどうにも見え方が変わった。
アユの顔に今現在の蒔田の顔が重なり、どっちがどっちだか頭の処理が追いつかない。
井戸浦と名乗る男に攫われた蒔田を探し出す為、アユを見つけるというのが我々の筋書きだったが、結局蒔田の家でもアユの所在についての手がかりは得られず、失意のまま帰ってきた。
もしかしたらアユは今も公園にいるかもしれない。
いや、こんな雨模様の中いるだろうか……。
少しでも希望があるなら、勇気をもって踏み出す必要がある。
それがこの一週間でアユや神藤から教えられた大切なことだったはずだ。
傘に跳ね返る雨音が優しくなったのを感じながら、私は第零公園のあのベンチへと向かった。
泥濘んだ地面にめり込む革靴を気にしながら、木々の合間を縫って行く。
やがて見えてきたベンチにいた人影を見つけ、私はしばし立ち尽くした。
そこにいたのは初老の女性で、片手で傘を差し、ご丁寧にレジャーシートまで敷いてベンチに座っている。
私は、正面からゆっくりと女性に近づいて
「あの……隣、よろしいですか?」
目的の人物と仮定して、おそるおそる訊ねてみる。
女性は串が数本入った袋から取り出した焼き鳥を、小さな口で上品に頬張っている最中だった。
まもなくゴクンと飲み込むと、第一声
「遅かったわね」
アユだった。
顔は傘で影になっていて少し見えづらく、また小皺が目立ってはいたが、アユの顔はまぎれもなく私の知っている蒔田由奈と同じだった。
「アユ……さん、胃腸は?良くなったのか?」
わかってはいたものの、この事実をいざ目の当たりにするとその非現実さに全身の力が抜けそうになった。
それにアユの食べっぷり、驚きのあまり彼女の口と手を交互に見つめる。
「ええ、もう大丈夫!元気になったのよ。きっとヒーローが助けてくれたおかげね」
そう言うと子供のように足をバタつかせてはしゃいでいる。
アユは恐らく未来から来た蒔田由奈本人であるが、私がどこまでその事実を知っていると考えているのだろうか。
たとえ本人の前であれ事実を公にすることでアユにとって何か不都合があるといけないと考えた私は、しばらくはこれまでと同様に接することに決めた。
「もう、会えないと思っていた。なぜなら私自身がここを避けていたからだ。公園に来ると君を失望させてしまった記憶が蘇ってきて恐かったんだ」
アユはうふふと口角を上げると
「そう、あたしは首を長くして待っていたわ。あたしは大丈夫。時が来るのを待ちなさい」
……妙に会話が噛み合わない。
もしかするとアユは自身が蒔田であることを自ら示唆しようとしている?
相手の思惑に巻かれてさらなる混乱の渦に飲み込まれてしまう前に、私は大きな賭けに出ることにした。
「君は……蒔田由奈さんだね」
沈黙が我々を中心にして、円状の衝撃波みたく瞬く間に広がり、時さえも止める。
いつしか黒雲も去り、鼠色の雲の隙間から真っ青な空肌が見えている。
アユはそれを眺めながら、ただ優しく微笑むだけだった。
私は失敗したかと唇を噛み締めたが、その直後アユがゆっくりと口を開いた。
「……今のあなたなら知ってるわよね?マシンのこと。遠い昔に話した記憶がある。マシンを使うのは初めてだったけど、こちらに来ることは案外造作もなかったわ。年齢が遡ってしまうことを除けばね。それとどっかに行っちゃったあたしの居場所が知りたいんでしょ。大丈夫、あたしは安全なところで休んでるわ。心配いらない」
いざアユ本人の口からタイムマシンの話を聞くと頭の整理が追いつかず、自身が蒔田由奈であることを暗に認めたアユの言葉をただ聞くことだけに全力を注ぐしかなかった。
「でもそんなことはどうでもいいのよ。あなたもいつか目の当たりにすることだから。それよりもあなたの人生を確立する方がはるかに大事。見栄だとか勢いで言った言葉や行動はいずれ必ず揺らぐものよ。かつてのあたしがそうだったから。結局使ったの。大切な人の為に」
アユは感情のまま、ストレートに吐き出した。
だからこそ彼女の真摯な思いが、私にも十二分に伝わってきた。
だが、時折どことなくぎこちない話し方と内容に違和感を感じるのは、会話が噛み合わないと感じたあの瞬間、ふと私の頭をよぎったひとつの答え。
……認知症。
まだ軽度であると思われるが、私は幼い頃祖父で同じ経験をしたことがあった。
そんな私の心の内などつゆ知らず、アユは懸命に言葉を絞り出して話してくれている。
「科学には詳しくないからわからないけど、もしかしたらあたしとここで過ごした一週間は、あなたや関わった人々の記憶から消えてしまうかもしれない。けれど、あなた自身が決めて行動したことはこれから先も残るのよ……」
不思議と心に沁み込むようなアユの言葉を、まるで神の言葉を受け取るように一字一句聞き漏らさないよう耳を傾けていた。
だが、そんな彼女の言葉を遮ってでも訊ねなければいけないことがある。
「どうして君はこの時代に来たんだ?」
「あなたの為って言ったでしょ。大丈夫、六郎さんならきっとやれるわ。だってあたしの大好きなダー……」
つむじ風に舞う落ち葉の音で語尾が消えてしまったまま、アユはくるりと軽快に踵を返し、少々年季の入った手をこちらに振った。
最後まで明確には答えないつもりのようだ。
その笑顔にはくっきりとえくぼが入っていた。
徐々に小さくなる彼女の背中を眺めながら、頭の中でアユの話を反芻する。
そういえば医者を目指す為に仕事を辞めたことを伝え忘れてしまったな。
「……あ!」
おまけに借りていたハンカチまで返し忘れた。
午後に神藤と会う約束をしていた私は、予定よりも随分早く彼から電話で呼び出しをくらい、昼前のK大学付属病院へと赴いた。
元々は神藤が病院で看護助手として働けるよう手引きをしてくれるという話だったのだが、電話の内容は予想だにしない内容だった。
病院に入ると、すぐ目の前の柱にだらしなくもたれかかっている男がいた。
「よぉ、毒気の抜けた顔してやがる。早くしないとあのおっさん、どっか行っちまうぜ」
あいかわらず飄々とした態度の神藤である。
病院の中庭へと小走りで向かうと、そこに植えられたメタセコイヤの木の下に見知った顔がいることに気がついた。
皺のないコートを羽織り、鎌首を前に突き出しながら腕を組んで木に寄りかかる様子は、外国の風評画を想起させる。
我々は互いに頷くと、緊張を面に出さないよう身体に力をいれながら近づいた。
「……あなた、入山博士なんですよね?」
井戸浦は肯定も否定もしないながらも穏やかな表情で、こちらに向き直った。
どうやら彼の目的は我々であったようだ。
オフィスで出会った時と比べて、幾分かやつれて見えるのは日影のせいだけではないはずである。
「友子さんにお会いしました。そこですべてお話を聞きましたよ。もうあなたも打ち明けてくれませんか」
井戸浦は観念したように虚空を見つめたまま
「……装置のことはもう知っているだろう」
私は、静かに頷く。
「由奈はあの装置の仕組みのほんの一端しか知らない。まだ幼かったあの子が研究室に入ってきた時、将来必ずこの装置で時空を越え未来を変えるだろう。そう確信したのだ。しかし、それは決して希望ではない。寧ろ絶望、強い危機感を覚えたのだよ。私は孫を愛していた。孫に危険が及ぶくらいなら装置など……そう考えたこともあったが、結局踏み切れず。私が何を危惧していたか。実は装置には重大な欠陥があったのだ。特定の手順を踏まないと行った時代において、自身の記憶が始まる年齢でたどり着き、その後急激な老化現象に見舞われるのだ。これは想像でしかないが、その時代にいるはずのない存在は異物でしかない。世界による排除、免疫反応に似たものなのだと思う。だから、アユと名乗った由奈は少女の姿でこの時代に降り立ち、一週間足らずでシニアへと変貌したのだ」
井戸浦の説明は、まるで答え合わせをしているかのように全てにおいて合点がいくものだった。
「……ふっ、全く我ながら愚かなものだ。由奈がそんなことにならないようにとここまで装置と共に見守ってきたはずなのに。その為に私は装置を使ってまで命を繋いできたのに。だが、由奈に直接接触する訳にはいかなかった。好奇心と警戒心のどちらも強い子だ。かつて由奈が研究室に忍び込んだことがあった。危険な場所だったものだから、怒りにまかせて私は彼女を勘当にしてしまったのだ。私の存在を知れば仮に説明しても敵にまわったに違いない」
「つ、つまり過去には今の由奈さんのように一時期、あなたが二人存在したことになりますね」
額に大粒の汗を滲ませながら、興奮気味に神藤がたずねた。
神藤の発言にそこ?と驚きを隠せない私を尻目に、井戸浦はゆっくり頷くと
「実に奇妙で不快な体験だった。私は私の最期の時を見学していた。病床につきながら私を見た時の老いた私の表情。虚ろ気な目に光が宿るのがたしかに見えた。私は死にゆく私が成せなかったことを引き継いだのだよ」
なぜだろう、我々と彼のあいだを横切る風に厚みを感じはじめた。
「……君達は覚えているだろうか。数年前起きた、世界的な半導体メーカー代表の不祥事と想像を絶した株の大暴落。各ジャンルの企業は勿論、国のお役人方も大勢出資していたものだから、世の混迷ぶりはまるで天地が逆さになったようだった。そういう時たとえ朽ちた木舟であっても少しでも生き永らえるなら迷わず乗り込む。生に貪欲な人間とはそういうものだ。国の連中はそんな奴らばかりだった。広い人脈を駆使して、欠陥付きのタイムマシンというボロ舟へ船幽霊の如くすがってきたのだ。装置を使ってどう株を操作するつもりだったのかは知らない。だが、お嬢様まで利用しようとした連中の浅ましさ!悍ましさ!あまりに口舌し難い。私は奴らを装置の隠し場所まで案内した。そこは墓場だ。装置が安らかに眠る墓場なのだ。私は奴らの息の根を止めた。謂わば装置への供物だ。聖域に首を突っ込んだ哀れな連中の末路に相応しいだろう」
彼の主張にはたしかに嘘はないはずだ。
事実井戸浦の孫娘を想う気持ちは本物であろう。
また、マシンがよからぬ人間の手に渡るのを阻止したいという気持ちもよく理解できた。
だが、その守ろうとするが故の行動の方向性については常軌を逸していた。
神藤も同じ考えだったようで、私に向かってこれ以上関わるなと言わんばかりにしきりに小さく首を横に振っている。
誰よりも長い時間を生きたことで、本来の目的や信念が歪んでしまうという逸話は世界各地に存在しており、そこでは人も神も同じムジナなのである。
井戸浦……いや、入山博士はその天才的な頭脳と行動力、ひらめきから心の歪みまで人類史上稀に見る、人であり神となった人物であろう。
神藤は井戸浦にわざとらしく深々とお辞儀をすると、そそくさとその場を立ち去った。
私も慌てて礼を述べて、あとを追いかけようとしたが、一瞬立ち止まり振り返ると
「あなたのお気持ちとてもよくわかりました。でも、私は……あなたの考えについて同意できない部分があります。あなたは……人の道を外れるべきではなかった。神話においては人に裁きを下す神さえも愚かな行為をします。すると人と神の違いなんて実は紙一重なのかもしれません。……しかし、その紙は高くそびえていて頑丈であるはずなんです。あなたは無意識であれ紙を破ろうとした。その結果どっちつかずの存在に成り果てた。装置よりも由奈さんのことだけを想っていれば、きっとあなたは人のままでいられた。それだけが残念です」
井戸浦は無言のまま遠くを見つめていたが、どこか私の主張に対する肯定を現しているように感じた。
冷えきった背中を暖かく柔らかな風に包まれながら、私はその場をあとにした。
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