ー金曜日

午前八時半。

オフィスに入るや否や、駄菓子の棒ゼリーを手にした課長に呼び止められ、反射的に身体が硬直するのを感じた。

課長自身は自覚があるのか分からないが、彼はあらゆる所作や仕草で無意識的に相手へ威圧感を与えるタイプなのだ。

「お、おはようございます。私また何かミスしましたか?」

課長は、漫画のように細い眉毛を尺取り虫みたくひん曲げると

「はぁ?ミス?いや、そうじゃなくて、相楽。大変なんだよ。蒔田のことなんだが……図太いことに無断欠勤しやがってね。あいつに限ってありえんだろ。だから今自宅に電話かけたら母親が出てな、どうやら昨夜から行方不明らしくて警察沙汰になってたんだ。おまえ何か知らないか?」

「ゆ、行方不明ですって?」

ギュンギュンと心臓の高鳴りが急加速する。

私自身が行方不明に直接関わっているわけではないが、言葉では言い表せぬ責任感が押し寄せる。

一瞬気の迷いで昨夜の食事会のことを隠そうとしたが、もし事件性があり警察が来ることになれば、いずれはわかることだし、なにより蒔田を見つける手がかりになればと事の一切を説明した。

話が進むにつれ、課長の血色良い丸顔はみるみるうちに苦虫を噛み潰したような表情へと変貌し、終盤にはううむとライオンの咆哮そっくりの唸りをあげた。

「……するとおまえ、蒔田に会った最後の人物となるわけだ。母親によると自宅には帰ってないそうだからね。こりゃ弱ったなぁ」

すでに親族によって警察には通報しており事の仔細も全て説明済みとのことで、私は担当の警察官が訪れるまで業務を進めよとの指示を受けた。

蒔田と最後に会ったのが私ということは、ここで仮に事件性があると判断された場合、真っ先に重要参考人となる人物も私ということになるだろう。

しかし、私自身が疑われようとそれはたいした問題ではなかった。

はたして蒔田は無事なのだろうか。

ただただ彼女の安否だけが気がかりである。

胸の中で水紋のように広がり往く不安は、岸辺まで来ると本物の水へと形を変えて目から溢れ出してきた。

そんな私の感情など知る由もないパソコンは、容赦なく未処理の業務を積み重ね、半日も経たない内にコピー用紙製の立派なベルリンの壁が出来上がった。

大きくついた溜息により深みが増した頃、オフィス入口側から課長による必要以上に大きいビブラート声で呼び出され、この後待ち受けるものがなんなのかを察することができた。

一足先に待合室で待機していた私の元へまもなく課長と連れ立って入ってきたのは警察とだという予想に反した、およそ刑事とは思えない風貌の男だった。

その男は身につけた有名ブランドのジャケットとネクタイをこれ見よがしに整えるが、些か反り気味の姿勢がどことなく戦後の斜陽族を想い起こさせた。

「相良さんですね。お忙しいところ大変申し訳ございません。わたくし、県警の井戸浦と申します。この度発生しました蒔田由奈さんの失踪についてあなた様に二、三御伺いしたいことがごさいまして」

言葉遣いは至極丁寧だが、時折見せる射抜くような冷たい視線が心臓に悪い。

短めの白髪をオールバック風に固め、顎には剃り分けられた黒い髭が蓄えられ、いかにもダンディ風といったところだが、襟の間から見える白い肌と首の稜線が腹を空かせた蝮のようにうねる。

狙われた蛙になった気分でその様子を見ながら

「私がお答えできることはたかが知れていますが、誠心誠意協力させていただきます」

そう答えたはいいものの、この男を一目見た瞬間から一向に拭えぬ違和感。

それは一種の動物的本能といったところかもしれないが、こうした直感があながち馬鹿にできないものであることを私は知っている。

とりあえず昨夜仕事終わりに待ち伏せていた蒔田と食事に行ったことやその後三時間程で別れた旨を話すと、井戸浦は慣れた手つきで素早くメモを走らせる。

その手が突然ピタッと止まると、蛇が鎌首をもたげるようにこちらを見て

「……ところでそのお店でのあなた方の会話なのですが、どのような内容を話されたのでしょうか。差し支えなければ教えていただきたい」

獲物へと狙い澄ました無慈悲な視線は、私のを捕えて放さないという覚悟の表れであろう。

つまり、それだけ私は疑いをもたれているわけか。

「あの……これ以上は蒔田の心理的な内情に関わる形になりますので、できればあまり話したくはないのですが」

蒔田との約束に反することだけは避けたかった私は、牽制の意を多分に含めて伝えた。

それに国家に従う人間にタイムマシンなんて誰もが夢見るオーバーサイエンスな存在のことを話せば、瞬く間に余計な混乱を招くと考えたからだ。

相手もそんな私の思惑に勘づいたのか、露骨に眉を歪ませると

「そうですか、残念ですがしかたありませんね。またお気持ちが変わりましたらここまでご連絡下さい」

おもむろに懐から取り出した銀色の名刺には、目前の男と寸分違わぬ姿の写真が付いており、その真横には○✕県警 警部補『井戸浦剛』(いどうらごう)と記されていた。

受け取った名刺を眺めながら、ふと疑問が浮かぶ。

たしかに蒔田の失踪は関係者である我々にとっては一大事である。

しかし、年間数万人の行方不明者がいる中で、いきなり警部補という立場の人間が動くだろうか。

それに主観ではあるが、どことなく刑事の匂いがしない、もっと違う畑の者という印象も受けていた。

井戸浦の後を追いかけようと慌てて廊下に出るが、すでに影も形も存在しなかった。


周囲で奇怪な出来事が立て続けに起こり心身共に参っていたが、自分 や蒔田が何に巻き込まれているのか真相に少しでも近づきたいと考えた私は、課長に早退を願い出てその足でK医大付属病院へと向かうことにした。

考える頭の数は多いに越したことはない。

オフィスを出る際、背後から「軟弱者~!」と聴こえた気がするが、思いきりドアを閉める音で掻き消された。

職場から約三十分程歩くと、K医大付属病院の敷地内へとたどり着く。

大規模病院とだけあって正面玄関口には、患者を乗せたタクシーやシャトルバスがひっきりなしに出入りしていた。

入り口を通り、整形外科エリアを抜けて内科エリアへと到達した時、待ち合いの長椅子の端にだらしなく座る見慣れた姿を見つけてあ然とした。

その者こそ私の目的の人物なのだが、てっきり診察室にいるものとばかり思っていたからだ。

平日の忙しいはずの時間に何をやってるんだ、あの男は。

心の中で天使がそう呟くも、人の事を云えるのかと悪魔からすぐにツッコミが入った。

「おい、ここで何してる。休憩には早いんじゃないのか」

突然話しかけられた男は一瞬肩をビクッと震わせ、そのままの姿勢で

「ああ、こっちの台詞だよ。何でこん時分お前の声が後ろから聴こえんだ」

口をへの時に曲げながら振り返ったのは、目から頬まで飲み過ぎで腫れぼったくなっているが、紛れもなく神藤である。

「俺はな、借金まみれのこの病院の経営状態を酷く憂いてるんだ。その対処をするにはまず現場を客観視しなくてはならん。改革の足がけとして手始めに外来の診察状況をこうして俯瞰して調査してるのさ。対してお前は見たところ受診じゃなさそうだな。へへ、健康な人間は無用だぜ。帰んな」

神藤はニヤニヤしながら冗談まじりに言った。

よくもまぁ瞬時にこのような御託を捲し立てられるものである。

しかし、私の真剣な表情に気がつくと、彼もすぐに姿勢を正した。

「今日は君に用事があって来たんだ。実は昨夜私の後輩が失踪した。今朝職場に刑事が来たんだが、どうも違和感が拭えなくてさ。もう何がなんだかわからなくなって」

昨夜のことから今朝の出来事までの一部始終を説明すると、神藤は神妙な面持ちのまま

「そうか、そんなことあまりに非日常だもんな。お前が混乱するのも無理ないさ。だが、そうした陰鬱な感情にのまれるなよ」

と文句も言わず慰めるように諭してくれた。

鬱屈したものを友に吐き出したことでいくらか心が軽くなった気がした私は

「いや、突然来た上に愚痴話なんて聞かせてしまってすまなかった……そういえばアユは?」

とアユの話題へと変えた途端、神藤はどうもバツが悪そうに長めの髪の毛をボリボリと掻き回しながら

「ん?ああ、あの女の子のことかい。あの後容態が回復して検査入院してたが、ちょっと病状が怪しくてな、もう数日入院期間を延ばしてもらうことにしたのさ。だが、今朝早くに手続きも踏まず勝手に退院しちまってな。普通はそんな芸当こなせないはずだから、俺も弱ってるんだよ。大胆にも程があるね。なぁ相楽、お前あの子の連絡先知らないか?」

どうもこの男は何かよからぬ勘違いをしているようで、不敵な笑みを浮かべながら訊ねた。

私は慌てて両の手の平を突き出すと

「とんでもない。本当に公園で知り合って会話をしただけの相手なんだよ。あの子の名前、本人はアユって名乗ってたけど本名なのかはわからないんだ。それ以外は彼女を探すには名前くらい教えてくれないか?」

「守秘義務くらい知ってるだろ。相楽はあの子と特に関係はないんだよな?何も教えられないね。第一探し出したところで今の医療じゃ彼女を治すことはできない」

やれやれと大きな溜め息をつきながら、神藤は外来の空いた長椅子へとドカッと座った。

受診待ちの患者達が、怪訝そうにチラチラとこちらの様子を見ているようだったが、私はそれらに気を向けず

「意地悪いうなよ。彼女はたった一、二日間でも君の患者だった。守秘義務もわかるが、君こそ医者としてもう少し責任をもったらどうなんだ」

神藤はふて腐れたように腕を組んでしばらく黙り込んでいたが、急に思い立ったように口を開いた。

「ふーん、お前そこまであの娘に入れ込んでいたのか。だがあのペースじゃ一週間後には立つのもやっとのヨボヨボ婆さんだぜ」

舌打ちをするように吐き捨てる。

「い、いや、ちょっと待て。あのペースって……すると君はアユの奇妙な成長の様子を目撃したのかい?」

神藤は若干視線を泳がせつつ、ぶつぶつと口を尖らせながら

「そりゃあ主治医だしな。直接成長してる瞬間を見たわけじゃないが、少なくとも昨日の時点で外見はもう立派な女だった。学生にあるような幼さの残りってかあどけなさなんてもんはまるでなかったよ。しかし、いざあれを目の当たりにしたら、お前の話が真実であることと事の重大さが十二分に理解できてさ。面倒に巻き込まれたくなかったというか……その……黙ってて悪かった」

神藤のようなプライドの高い少々変わった人間にしては、すんなり自身の非を認めたのでついまじまじと見つめてしまった。

「俺があんまり素直だから驚いたか?でもお前には伝えなきゃとは思ってたからちょうどよかったよ」

まるで私の心が見透かされてるようで気味が悪かったが、これでもこの男の誠実さは本物であることがその気味悪さをいくらか和らげていた。

「で、お前は元々俺に何の用だったんだ?」

アユの件に熱が入ったので、危うく本題を忘れるところだった。

「あ、ああ。実は君にも協力して欲しくて。ほら、さっき話した私の後輩を見つけたいんだ。井戸浦と名乗った刑事、どうにも怪しくてね。なんというか刑事よりも研究員といった方がしっくりくるかも」

神藤はパーマのかかった長い髪の毛を搔き上げながら

「ふーん、鈍感なお前をしてそこまで言わしめるとはよっぽど変な奴だったのかな、へへへ。まぁ、実際その男が刑事である確証も名刺以外ないわけだよな。ところで、後輩の言う妙な話ってのが真実であると仮定するならば、今でも裏で暗躍してる人間がいてもおかしくない。それが私欲の為か国家の為なのかはわからんがな。どちらにせよ国民に向けたクリーンな代物なら公に発表するだろうよ。実用化に向けて動いてますよってね。科学の進歩は日進月歩だ。たとえ当時マシンに欠陥があったとしても、今の技術ならそれをカバーできる可能性が高い。つまり、どこにあるかは知らんがタイムマシンは恐らく完成してる。何かよからぬことに利用されようとしていて、出自の関係から後輩ちゃんはそれに巻き込まれたのさ。そして、裏の人間がお前にも接触してきたということは事態は思いの外深刻のようだな」

私は黙って、神藤の長台詞を聞いていた。

ただ第三者からの確信が欲しかったのであって、頭のどこかで彼と同じ考えに行き着いていた気がする。

「……じゃあ、どうしたらいいんだ。彼女を助ける為私にできることは一体?」

「何もない。下手に動けばお前だけじゃなく後輩ちゃんにまで危険が及ぶんだぞ。その子、マシン発明者の孫娘なんだろ?そんな重要人物の命をそう簡単に奪うとは思えない。お前に関してはこちらから何もアクションを起こさなければひとまずは放っておくだろう。相手も余計なことはしたくないはずだからな」

冷たく言い放ったような言葉の中に、私の身を案ずる温かみが確かに含まれていた。

あれだけ混んでいた外来の待合室も打って変わって静まりかえっている。

どうやら午前の診察が終わったようだ。

神藤はわかりやすくうなだれている私の様子を困ったように眺めながら、急に思い立ったように立ち上がると

「後輩ちゃんのことについては残念だが諦めろ。お前が考えている以上に大きな力が働いているはずだ。それよりもアユちゃんのことはいいのかい?」

話題をアユに戻したのには、自分たちにはどうにもできない蒔田のことを考えるよりも少しでも可能性があるアユの方がましであるという神藤なりの配慮だろう。

「彼女は……アユは私自身を変えるきっかけをくれた。私の愚痴や突拍子もない話を真面目に聞いてくれた。私なりの感謝を示したいんだ。それに……借りたものも返さなくちゃ」

そう言うと私は懐にしまってあるハンカチにそっと触れた。

神藤はそこに何が入ってるのか察したようで、大袈裟に大きなため息をひとつつくと、意を決した目で言った。

「いいか、俺は相楽を信じて言うんだ。一医療人としてルールを破ろうとしている。それにはお前にも責任があることを肝に銘じておけ」

私は、決意の重みに首を委ねて大きく縦に振った。

神藤はおもむろにポケットからふせんを一枚取り出すと、ペンで一気に書きなぐった。

「蒔田由奈、十六歳だ。まだ高校生だな。けど身内も保険証もないときたもんで参っちまったぜ」

その名前を見た途端、全身の毛穴から汗が噴き出し、同時に強い目眩に襲われたかと思うと、みるみる内に身体の力が抜け、私は長椅子へともたれ掛かった。

アユが……蒔田だと?

「なんだ、元々知り合いなのか?」

私は、まるで操り人形のようにユラユラと頷いた。

「……その後輩だ」

神藤はあんぐりと口を開けたまま、魂の抜けた殻のように棒立ちしている。

さすがの切れ者もアユ=蒔田由奈の構図は予想できていなかったらしい。

仮にそこまで予測していたら、この男も何らかの形で関わっているのではと勘繰っていたことだろう。

蒔田由奈が、この世に二人いる?

今思い返してみれば、アユの顔立ちや声色には蒔田の面影をうっすらと感じる気がする。

世界には自分にそっくりな人間が三人いる、という話を聞いたことがあるが、今回の件については顔どころか名前まで一緒なので、まるで説明がつきそうにない。

やはり、二人は同一人物だと仮定する方がよほど自然である。

しかし、蒔田とは昨夜レストランで食事をしている。

その間アユが病院にいたことはほぼ間違いないのだが、仮に誰にも知られず抜け出してたとしたら……。

「お前が何を考えてるのかわかるぜ。だがそれについちゃ線は薄いな。ほら、監視カメラさ。実はさっき警備員に怒鳴りこんで、監視映像を確認したんだが、彼女が外に出たのは今朝の無断退院の時だけだったんだよ」

勘の鋭さを超えて、もはや読心術である。

いつの間にか放心状態から復帰していた神藤は、しきりにブツブツと何かを呟きながら、廊下を行ったり来たりしていた。

これは彼が激しく思考をしている時の癖なのである。動画を停止したようにピタリと動きを止めた神藤は、指で顎をつまみながら数分間考えこむと

「……相楽。俺がこないだアユがタイムトラベラーなんじゃないかって言ったのを覚えているか?彼女の言動や成長の異常性から素直に事実を捉えるならどうしてもこの推測に行き着いちまう。しかし、それを前提に思考を進めていくと同じ時間に同じ人間が同時に存在することになるわけだ。つまり、今のこの状況に対して説明がつくと同時にそこには当然パラドックスが起きる。この時代にとって異物であるアユという存在が、蒔田さんにも影響を及ぼし始めてるんじゃないかな」

「そ、それが彼女の失踪の原因だというのか……?」

「わからねぇ。だが突飛な説でも論理的には違いないんだよ。現に蒔田さん本人の証言もあるわけだし。これはもう認めるしかねぇんじゃないかな。タイムマシンの存在を」

シャツの中を滝のように流れる汗は止まることを知らず、次から次へと玉となって湧き上がる。

そう、私は今とても戦慄しているのだ。

あれだけ好きで調べていた超常現象にいざ巻き込まれるとこれほど恐怖を感じるものなのか。

「じゃ、じゃあタイムマシンはどこにあるんだ?アユは何の為にこ、この時代にやってきたんだ?」

「お前、俺に聞いてばかりいないで少しは自分で考えたらどうだ。俺だって推測でもの言ってんだ、何でも分かると思うなよ」

至極ごもっともな意見である。

「とりあえずマシンそのものを見つけてもしかたない。どうせ使い方なんてわからないんだからな。それよりも蒔田さんの存在が唯一の糸口だ。アユも蒔田さんと同一人物であるとはいえどこかの世界からのトラベラーである以上詳しい素性は知れん。だが、蒔田さんについてアユが何かを知っていることはたしかだろう。それに、ルーツが同じなら行くべき場所はひとつだ」

我々は急いで病院を後にすると、付近のレンタカー屋で車を借り、蒔田の家の住所を調べる為オフィスへと一度戻ることになった。

オフィスに入るやいなや、課長が軟弱者ご帰還!と騒ぎ立てて来たが、タイムマシンの部分を省きながら事の次第を説明すると

「え!居場所わかるの?住所教えるからさっさと行っといで」

なぜこの男が課長の椅子に鎮座しているのか、甚だ疑問である。

判明した住所によると、数年前よりオフィスから車で約二十分の新興住宅の一角に母親と二人で住んでいるようだ。

私の運転で家へと向かう車中、助手席の神藤が缶コーヒーを片手にふと呟いた。

「アユか、蒔田由奈、マキタユナ、MAKITA YUNA……。KITA YU……AYU、アユ。へっ、なんてな」

冗談っぽく笑みを浮かべてみせたが、力のこもった眼差しが彼の心境を雄弁に物語っていた。


新築の戸建てが建ち並ぶこの一帯は、約十年前に低山を切り拓いて造られた台地で、比較的急な斜面に沿うように住宅が建設されている。

では、そこにある全てが戸建てかといえばそうではなくて、長い年月を経て所々に錆の入った集合住宅もちらほら混じっており、蒔田の家もその中の一つであった。

『露別荘』の表札が貼られた壁の内側が、ちょうど蒔田家の部屋である。

私がインターホンを鳴らすと、まもなくドアを開けて現れたのはすらりとした中年の女性であった。

「……どちら様でしょうか」

声に覇気がなく、風音にかき消されそうである。

「あ、お忙しいところすいません。蒔田様の御宅に間違いございませんか?」

女性はこくりと力無く頷いた。

「私、蒔田由奈さんの同僚の相良と申します。こちらは……」

「あのK大学付属病院に勤める医師の神藤です」

いちいち言動が癪に障る男である。

私はヘラヘラしている神藤を一瞥すると

「由奈さんのことについては職場で聞きました。正直とても驚いてますが、我々もどうにかお力になれないかと思いまして。あの、失礼ですがお母様でいらっしゃいますか?」

女性は先程と同じ軌道でゆっくりと頷いた。

「母の蒔田友子です。わざわざここまでありがとうございます……。散らかってますが、よければどうぞおあがりになってください」

母親に案内されるがまま、我々は部屋へと入った。

入る前、母親は散らかっていると言っていたはずだが、建前というのはまさにこのことであろう。

部屋は見渡す限りまるで物がなく、必要不可欠の家電製品やテーブルが置かれているのみで、どこか生活感が足りない印象を受けた。

それでもどこか雑然として陰鬱な雰囲気を感じるのは、窓からの日当たりが極端に悪いせいだろうか。

ぼんやりと部屋を見渡していると突然車中での神藤の言動を思い出した。

「俺たちには時間がない。アユがこの時代からいなくなっちまえば、蒔田さんの居場所の手がかりが途絶える。母親から話を聞くのは蒔田の部屋を調べながらだ」

慌てて入室許可を貰い、蒔田の部屋を見せてもらうことにした。

六畳の洋室にデスクと布団が置かれており、洒落っ気は皆無だが居間同様整然としている。

というより、やはり物がない。

「失礼します」

手がかりを得る為とはいえ、女性の部屋を漁るのはどうにも気が引ける。

私は調査の最中罪悪感を打ち消すように、母親に様々な質問をし続けた。

「ところで警察の方はいらっしゃいましたか?井戸浦という人物が担当らしいですが」

それを聞いた母親はキョトンとした様子で

「いえ、うちにはお巡りさんが二人来てくださってその後どなたもいらっしゃいませんでしたよ」

井戸浦……怪しいとは感じていたがやはり警察ではなさそうだ。

そんななかふと目に飛び込んできたのは、本棚の上に置かれた二人の女性が笑顔で肩を寄せ合う写真であった。

もちろん蒔田親子なのだが、娘の由奈の風貌から考えると、ごく最近撮られたものだろうと思われる。

蒔田の隣に写る四十代前半くらいの女性はたしかに母親の友子であるのだが、実物はやつれきって老婆という表現の方が妥当である。

それだけ蒔田の失踪が彼女には堪えたのだろう。

「あの……あまり気を落とさずに。まだいなくなってから一日も経っていません。由奈さんも大人ですから、きっと大丈夫ですよ」

母親を説得するようで、私は自分にそう言い聞かせていただけかもしれない。

「普通の子ならそうだと思います。けれど、由奈は生まれつき身体が弱いんです。実は消化器系に持病もあって……」

持病……この言葉で途端に記憶がフラッシュバックする。

そういえばアユも持病をもっていた。

それも、消化器である。

アユと蒔田由奈が同じ人物なのは、もう間違いなかった。

私が母親とそんな会話をしている間、神藤はというと写真の置いてある本棚の中身に興味津々だった。

食い入るような目つきで背表紙を順繰り見つめていくが、まもなく目当ての本が見つかったようで、勢いよく引き出しパラパラと捲り始めた。

私もそんな神藤の様子に気がつくと、一緒になって本を覗き込んだ。

どうやら物理の本のようだが、無知な私にはその内容について到底理解が及ばない。

あくまでマシンと何らかの関わりがあるのではと想像するのが限界であった。

こちらの様子などお構いなしといった風に、無言で速読していた神藤だったが、突如動きを止めると、カッと見開いた目で私を見た。

本は単行本なのだが、そのカバーは上下をテープで貼りつけてあり、真ん中の隙間を覗くとまたもや一枚の写真が出てきた。

しかし、蒔田親子の写真とは違って、胸から上の男が一人、白黒で黄色く変色したものだったが、その男の顔を見た途端、まるで脳天を殴られたかのような衝撃を受けた。

「こ、こ……この男は!」


ー続く

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