ー木曜日

激動と混沌の晩を乗り越え、今また私は閉じかけた瞼を強く擦りながら、ぼやけた視界で煌々と揺らめくパソコン画面を見つめた。

二十分前には正午を過ぎており、オフィスには私と課長を除いた皆が休憩へと向かい閑散としている。

「おい、相楽…まだ終わらんのか。いい加減仕上げないとまた残業だぞ。いや、もう決まりか。あっはっは」

私が取り組んでいる仕事は、一時間前に同僚から目覚まし代わりという名目で押しつけられたものであった。

そのことを知ってか知らずか、課長はその身に似合わぬ高い声をキンキンと鳴らした。

しかし、事実この業務の進捗具合はまだ三割程度といったところで、自分の持ち仕事もある為、残業は確定であった。

そんな私の様子を、入り口の細いスペースより不安げに見つめる視線には、私はおろか入り口の真正面にいる課長すらも気がつかなかった。


「……やっと、終わった」

鉛のように重い右手をあげると、時刻は二十時半。

私は大きな溜め息を一度胸の奥からついてふらっと立ち上がると、がらんどうとした暗いオフィスをあとにした。

正面玄関口を出ると、突風と化したビル風が肌へ冷たく刺さり思わず首をすくめた。

ふと視線を空に移すと、遠くにくっきりとしたオリオン座が穏やかに瞬いている。

あのオリオン座のちょうど真下には、K医大附属病院があるはずだ。

「もう面会時間は過ぎてるだろうな。アユはどうしてるのかな」

自宅とは逆方向だというのに脚は病院へと赴こうと躍起だったが、上半身で必死に堪えながらいつものルートに向き直して歩き出した。

大股の足取りで線路下のトンネルに差し掛かった時、物陰から黒く大きな物体が急に飛び出してきて、驚きのあまり滑りこけそうになった。

慌ててずれた眼鏡を直して体勢も立て直すと

「先輩!お、驚かせてごめんなさい。今日もお疲れ様でした」

何度も腰を折り曲げ、謝り倒すその人物は

「蒔田!こ、こんなところで何やってるんだ?」

「……先輩が心配でつい。待ってしまいました。普段はこんなことしないけど、気持ちが抑えきれなくて」

蒔田は白い吐息に包まれて耳や鼻を真っ赤にしながら、バツが悪そうに私を見つめた。

彼女はオフィスの事務係なので、直接こちらの仕事に関わることは少ないのだが、私が困ってるのを知っていて持ち仕事の一部を片付けてくれたのだ。

彼女の援軍がなければ、今頃私はまだあの電気の消されたビルに缶詰め状態であったはず。

口の周りの筋肉が反射的に怒鳴ろうとしたが、そんな蒔田を注意したり怒ることなど、私の中の良心は断じて許さなかった。

「そ、そうか。すまない。しかしこんな寒い中で待つなんて逆に私が心配してしまうよ」

「申し訳ありません。でも……あたしも先輩に相談したいことがあって」

どうやら気を使わせてしまったようだ。

しかし、蒔田の話というのがもう一つの用件であるのもまた事実のようだった。

私は無造作に絡まった髪の毛をかきながら、少し考えたのち

「すぐ近くに小洒落たイタリアンのお店があるんだ。もし夕食がまだなら一緒にどうだい?話を聞きたいし、その……今日のお礼も兼ねてね」

私は蒔田の不安を背負った小さな背中を横目に見ながら、駅前の方面へと向かった。


ここ十年程のM駅の発展は、近隣の駅前と比べてもめざましく、この街の中心地としての役割を担っていた。

そんな地域だから商店の競り合いも激しく、例えばある服飾店が閉じるやいなや新たな別の服飾店が入るといった具合に、あらゆるサービス業界の要地にもなっているらしい。

飲食店も他に漏れず、駅前ロータリー周辺については和洋中問わず美食家の集う飽食通りと化している。

数々の店がひしめく中の一角、細路地を入ってすぐ右手に、緑の看板を灯しひっそりと開いているイタリアンの店があった。

この場所こそ私が気になっていた店であり、雰囲気からも蒔田に喜んでもらうにはうってつけだと踏んだのだ。

私たちは、店の奥のテーブルへと案内されると蒔田の希望でノンアルコールカクテルを頼んでそのまま沈黙へと移行した。

このような場に慣れていないのもあるが、何より女性からの相談事という状況が私の口を更にぎこちなくさせた。

「そ、それで話というのは……?」

たった一言、なんとか絞り出す。

それを待っていたかのように、蒔田は今まで伏し目がちだった両目をまっすぐに捉えると、堰をきったように話し始めた。

「実は……最近あたしという存在が希薄になっている気がするんです。俗に云う影が薄いというあの感じに近いのだけど、なんだか根本的に違う。オフィスにいるのに探し回られたり、他の事務の子にもいたの?なんて真面目な顔して言われる始末で。まるであたし自体が見えていないような振る舞いをされるんです。これは単なるいじめなのでしょうか?あたしの思い過ごしなのでしょうか?それとも何か大きな力が働いているのかもしれません」

蒔田はそこで一息ついて、ずいぶん前に届いていたカクテルに口をつけると、おどおどとした様子でこちらに向き直り

「こんなこと誰にも言えなくて。先輩なら真剣に聞いてくださると思いきって相談したのですが……突然おかしな話をしてごめんなさい」

とペコリと頭を下げた。

「い、いや。それは気にしなくていいんだ。心配だっただろうね。話してくれてありがとう」

私は眉を掻きながら

「だけど大きな力だなんて飛躍してる。普通なら君の考え過ぎだといいたいところだが、そこまで何かを感じているのには訳がありそうだね」

蒔田は、血行のよくなった顔を近付けんばかりにテーブルから身をのりだすと

「ええ、そのとおりです。理由があるんです。先輩は入山善五郎を御存じですか?」

ええと、入山善五郎……。

たしか90年代初頭の物理学界に突如君臨した異端児で、程無くして歴史の闇へと沈んでいった幻のような人物だったはずだ。

そして、異端児と評された理由は、彼の偏った研究内容にあった。

この世界には幾多のパラレル世界が現実と隣り合わせに存在しており、電子データのような形で個人の過去、現在、未来として見えない形で縦状に折り重なっているという。

オリガミ理論と名付けられたその説を元にした世界によれば、強大な重力を用いて時空を少しばかり歪めることで過去や未来へとエレベーターのようにタイムトラベルすることができるというのが、入山の主張であった。

だがそれはあくまで想像上の概念、理論であり、飛んだ空想事だとして学界からは猛批判を食らい、抵抗虚しく追放されたと記憶している。

私は一時期オカルト関連に没頭していた頃があり、とある文献の科学項目に件の名前が掲載されていたことを思い出していた。

蒔田はただでさえ丸い目を一層見張りながら

「ええ、ずいぶんお詳しいですね。……そう、その彼ですが、当時すでにオリガミ理論を軸にしたタイムマシンを完成させていたといったら信じますか?」

「な、なんだって!」

私は驚きのあまり座席から飛び出しかけたが、かろうじて堪えると大きく息を吸い込みながら

「……仮にそうだとして、どうして君はそこまで断定してるんだい?何かそれに足る証拠でもあるというのか」

思いもよらない方向に話が進んだせいか、悩んで相談してきた相手に対して、些か挑戦的な態度になっていることに気がつかなかった。「はい。なぜなら入山善五郎はあたしの実の祖父だからです。世間からの風当たりは強く、母も縁を切りたがっていたほどかなり疎遠ではありましたが……小さい頃あたしは祖父の開発したタイムマシンを一度だけ目にしたことがあります。とても大きな筒状の機械でした。祖父からは無断で研究室に入ったことを酷く咎められましたが、何かすごいことをしてるというのと関わると良くないということは幼いあたしにも直感的に理解できました」

衝撃的な会話の連続に、私の脳をめぐるシナプスはショート寸前であった。

恐らく今の私の顔を見た者は誰もがまぬけと嘲笑するだろう。

やっとのことで口の周りの筋肉が再稼働したのを感じとると

「そ、そ、それじゃあ君はマシンのありかを知ってるというのかい?」

どうやら冷静さを失った頭というのは、質問するべき内容の取捨選択を間違うようだ。

蒔田は華奢な首を横にふって

「研究室の場所がどこだったか全く憶えていないんです。ですが、仮に見つけたとしてもあたしは使いません。祖父のことで母はだいぶ苦労してましたし、あまり関わりたくないんです。よっぽどの理由がない限りは、ね」

以降お互い言葉を発さないまま、数分は経っただろうか。

気づけば先に入店していた他の客も帰り、蒔田と私の間には水に融け出す氷の軋む音が響くだけ。

そんな我々の空気を知ってか知らずか、厨房まで水を打ったような静けさである。

突拍子もない説であることは話した自分でもわかっているのだろう、俯いた蒔田をふと覗き見た顔色は不安に満ち、額には冷や汗を浮かべていた。

「……もしかして君は自分の存在が消えかかっていることとタイムマシンに何か関係があると考えているのか?」

蒔田は、強い確信を含んだ視線を向けながら頷いた。

この時私は、神藤が話していたアユに対する仮説を思い出していた。

タイムトラベラー。

まさか蒔田との会話でこのような内容に触れることとなるとは思いもよらなかった。

はたしてこれは偶然の一致というやつだろうか。

もしや蒔田は、アユの存在や私が彼女に接触したことについてもすでに知っており、何か良からぬことを画策し私を貶めんとしているのではないか。

いや、寧ろアユと蒔田は共謀関係で、怪しげな団体へと勧誘するつもりかもしれない。

ここまでくると本来の意思とは関係なく、無限に枝分かれし膨らみゆくネガティブな妄想は、芽吹いた直後に摘み取らなければいけない。

オッカムの剃刀ではないが、少なくとも考え過ぎと数々の思考の混在は真実を見誤ることになる。

私は蒔田についての邪推を次々に刈り取ると、正面へと向き直った。

「私に、私に何かできることはあるかい?タイムマシンはともかく、君の悩みはどうにかしてあげたい。こんな私なんだ、たぶん役にはたたないけど、力になれればと思うよ」

本心だった。

何かと自分の事ばかり優先 してきた私だったが、今は自然と彼女の為に身を削りたいと感じたのだ。

蒔田はぎこちなく小さく頷いたが、その顔は彼女が今まで見せたことのないこぼれそうな程のえくぼ混じりの笑顔であった。


「今日は遅くまで付き合っていただき、ありがとうございました」

店の外で蒔田がペコリとお辞儀をしてきた。

その後話した現実的な解決策は、社内でまず私たち二人が積極的にコミュニケーションをとるよう意識すること。

その上で同僚も巻き込んで、周りと馴染んでいこうということに落ち着いた。

対してオカルト面の話としては、行方知れずのタイムマシンを見つけること。

蒔田の様子をみれば、こちらが本命の話題であり、解決に近づく話であったはずだ。

"部屋一つを占めるような大きな機械だったので、どこかに移動したとはあまり思えません"

と言っていたが、するともしマシンが現存するとするならば、今でも蒔田が侵入したという研究室に安置されているとするのが妥当だろう。

お互い個々のやり方でマシンを探して、見つかり次第共に出向くことを約束し、今夜はお開きとなった。

「駅まで送るよ」

過去に恋愛ノウハウ本で培った知識が甦り、ポッと口から飛び出る取ってつけたような気遣いの言葉。

「いえ、大丈夫です。すぐそこなので」

彼女がどう捉えたのかは不明だが、蒔田はいつになく女性らしく、また艶やかであった。

肩から下げたオフィスバッグをすがるように両手で抱えながら、小股で駅へと歩いてゆく蒔田の後ろ姿を見送ると、私は逆方向の帰路へとついた。

フゥとついた白い溜息が、そのまま空高く雲の一部となるのを見届けながら

「 そうだ、明日はアユの見舞いに行こう」

霞んだ夜道を月明かり頼りに、一人明日の予定をぶつぶつと口走る。

「いや、見舞いも大事だが、これだけはどうしても聞かなきゃいけないことがあるな……そう、タイムトラベルのことだ」

いつの間にか私の中ではこの非現実的な説が圧倒的優位に立っていた。

疑問を徹底追及せず、結局最も突飛な仮説に落ち着いた自身の安直さに思わず苦笑いしつつ、自己嫌悪に陥る前に説の正当性を考えることにした。


ー続く

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