ー水曜日

「……輩。先輩!起きてください!」

囁く声に反応して、ハッとよだれの伝う顔を飛び上げると、そこはいつものオフィス。

寝ぼけ眼でパソコンの画面を見ると、利益の文字後ろが利えkkkkk……となっていて眠りに落ちたタイミングがよくわかる。

「先輩、五分前から課長がずっと睨んでいます」

先程から私を起こすのに耳うちしてくれていた蒔田が、苦々しい表情で左を指差した。

私はおそるおそる指の方向へと顔を向けると、小さな口をキッと結んで両目がとても綺麗な円になったまま、こちらを凝視している五十四歳、頭部の淋しい課長の姿があった。


そんな仕事での話は置いておいて、私は昨夜公園から家へと着いたのが二十二時。

それからも悶々とベットの中で考え事をしていた為に、最後に時計を見た時には午前三時を示していた。

やはり寝不足は効率が悪くなるようで、いつもより一時間残業してやっとのことで帰路に就いた。

習慣というものは恐ろしいもので、肉体は疲れているのにも関わらず、私の足は自然と第零公園へと赴いていた。

虫の奏でる声も日を追うごとに減ってきて、整備された木々はすっかり葉を落とし、冬越しの支度が整っている。

それらの木々の下、落葉の絨毯を滑らないよう慎重に歩きながら、持ち場へと辿り着いた。

そこには濃い化粧に身を包んだ高校生くらいの女の子、いや、もう立派な女性といえる人物が寒そうにかけていた。

スラリとした両脚をやや内股気味に閉じて、太腿の間に両手を差し込んでいる。

近くへ寄ってはじめて目鼻立ちがはっきりと確認できたが、大きな瞳と顔の輪郭や造作からその女性がアユであることは一目瞭然であった。

昨日の時点ですでに違和感を感じていたが、今日再び彼女の成長を目の当たりにして、違和感は確信へと変わっていた。

「アユ……君はいったい、一体何者なんだ。私がおかしいのか?それとも君が人間じゃないのか?」

まるで夢を見ているようだ。

この世に一晩で何歳分も年を取る人間などあろうはずがない。

かつてどこかの国において、通常よりも早く老いてしまう先天性の病気があるのを聞いたことがあるが、そこで紹介されていたものとはどうも様子が違う気がする。

化粧が肌に合っていないのか、隠しきれず垣間見える顔の血色が酷く悪いことを除けば、至って普通どころか寧ろ美人で通るほどである。

だが、そんな女性的な外見のことなど問題ではない。

この異様なまでの成長具合、本人が知らないわけがないだろう。

アユはゆっくりと顔をもたげると

「あたしはれっきとした人間。六郎さんには理解できないかもしれないけど、この現象自体は病気じゃないの。それより……」

そこで言葉に詰まったかとおもうと、アユは突如激しい咳に見舞われた。

「ゲホッ……ゲホッ」

喉の奥からこみ上げるような重い咳と嗚咽にまみれた様子に、これが単なる風邪ではないことは素人目にも明らかであった。

「だ、大丈夫かい?今日はもう家に帰って休んだ方が……」

アユは私の言葉を聞くや否や、細い首を激しく横に振って

「駄目。まだ……まだあなたの答えを聞いてない。これからの人生、どうするの?自分を押し殺したまま、やる気もないただ任された仕事をこなして漫然と過ごしていくの?あたしが危険を冒してまでここに来たのは……」

目に涙を浮かべながら、私に噛み付かんばかりに鋭い視線を向けた。

「し、しかし私はもう手遅れだろう。今から夢を追うなんて。私は人生において一番に安定を望む。たしかに夢を実現できなかった悔しさはあるけど、今を壊すことなど出来っこないよ。大人はまず現実を直視しなくちゃいけないんだ」

私は、もはや恥も外聞もなく駄々をこねた子供のように喚き散らした。

甦る中学時代の将来の夢を題した作文。

誰もが大きな目標を掲げ、真剣に目指す者もあれば、文字に起こしたことで満足する者もいた。

私は紛れもない後者であったが、いつか叶えばいいという安直な希望だけは心の片隅にずっと持ち続けていた。

しかし、結局はズルズルとサラリーマンを続けている。

それはそれで立派な人生だと思うが、私の場合医者という夢を捨てられずにいるということは、自分に嘘をついていることになる。

現実を見るなんていいながら、逆に私は夢の中で生きていたのか?

押し黙ったままの私を横目に見ながら、アユが一語一句力を込めて言った。

「六郎さん。明日やろうは馬鹿野郎、いつかやろうは大馬鹿野郎なんだよ……。今この瞬間に動くことが、これからの自分の未来を決めるんだ」

そこまで言うと、アユは全身の骨が抜けたようにだらりとベンチにもたれ掛かった。

胸を押さえて苦悶の表情を浮かべている。

「ふふ、ここまで再現されるとはね……思ってもみなかったわ。ゲホッ……ゲホ、うっ!」

アユの口から黒い血液が飛び出したかとおもうと、その直後ふわりと意識を失った。

「アユ!しっかりするんだ!」

震える手で救急番号を押すと、まもなくオペレーターに繋がり、私は事の次第を簡潔に伝えた。

「相楽さん。患者はご家族の方ですか?それともお付き合いをされてる方ですか?」

「え?えっと……」

想定外の質問に不意をつかれた形となり、アユとの関係をどう説明するか一瞬悩んだが

「と、通りすがりの者です」

そう答えるのが、後々の為にも一番だと咄嗟に感じた。

約五分後、救急車が公園沿いの通りに到着し、あっという間にアユを担架に乗せて車内へと運んだ。

すると、一人の救急隊員がこちらに向き直り

「あなたが発見者だそうですね。色々聞きたいことがあるので同乗して頂けると助かるのですが」

「わかりました。よろしくお願いします」

私は迷うことなく、スロープを踏み込み搭乗した。

「これより我々はK医大附属病院へと向かいます。十分程で到着するので準備願います」

症状の原因について検討がつかない為か、走り出した車内は緊迫した空気に満たされて、こちらが窒息するのではと感じる程であった。

「あの、参考になるかわかりませんが」

私は、アユが話していた難病について知り得る限りの情報を話した。

隊員はメモを取りながら聞いていたが、どこか訝しげであった。

事情を知らぬ以上、通りすがりの男が少女についてなぜそこまで知ってるんだと言いたいのだろう。

ええ、その疑い、全くごもっともです。

「……うう」

わずかに意識が戻ったようだが、酸素マスク越しの声はくぐもり、今にも消えかかりそうである。

アユの口端に付いた血液が乾ききる前に、救急車はK大学附属病院へと到着した。

「わかりますか?病院着きましたよ!」

「おい、バイタルは?」

「O2用意して!あと点滴の一号!」

稲妻のように飛び交う怒号の嵐に気圧され、意識が遠のきかけるも、ふらつく足取りで救急外来の椅子へと腰掛けた。

リュックの中から水筒を取り出すと、すっかりアイスと化した残りのコーヒーを飲み干した。

十五分程経った時、蜂の巣をつついたように騒がしかった処置室が静かになったかと思うと、中から灰色の医療用服を着た長身長髪の男がキャップとゴム手袋を取りながらドカドカとこちらに歩いてきた。

「やぁやぁ、あなたが付き添いの方ですか。どうも夜分ご苦労様です。道すがらの出来事だったそうで、時間取られてなかなか災難でしたな。まぁ女の子にとっちゃ幸いこの上ないんでしょうが、へへへ!……っておや?もしかしてサガラ?相楽じゃないか!久しぶりだなぁ、元気にしてたか?」

……相良だと?久しぶり?

どうやらこのふてぶてしい態度の若い男がアユの処置を担当した救命医のようだが、その顔をじっと見つめる内、記憶の片隅に閉まってあった薄汚れたアルバムが開かれた。

勉強もスポーツもよくできた秀才ながら、私を除いた誰一人寄りつかなかった男の子。

中学時代の卒業集合写真。

あれほどカメラマンから注意されても、私と肩を組むのをやめなかった男の子。

「その独特なオヤジ口調、まさか……神藤、なのか?」

私の問いに応える代わりに、手入れのよく行き届いた白い歯をにんまりと見せつけた。

「ははは、世界は狭いな。こんな何もかも半端な街でお前と再び会えるとは。てか何度も連絡しただろうが。何で無視しやがる。電話くらい出ろや」

胸ポケットに留められた名札には、神藤了司(かんどうりょうじ)、医師とあった。

「はは……ごめん。君はあいかわらずのようだね。それに……見事夢を叶えたんだな。君ならやり遂げると思っていたが、流石だよ」

まぁなというように、神藤はフフンと鼻を鳴らした。

「それよりあの子は?女の子の容態は?」

私はよりも真っ先に聞きたい情報へと無理矢理話をシフトした。

旧友との再会を喜ぶ余韻に浸るなど、二の次である。

「ああ、そうね。彼女は胃を中心とした消化管にできた潰瘍から出血しててな、今止血しながら点滴するよう指示してある。ひとまず大丈夫だ。まぁ、ちょいと検査入院することにはなるだろうがな。お前が車内で救急隊に話した病の話、俺も聞いてさ。詳しく調べなきゃいけないが恐らくは間違いないな。今回の症状もそいつが関わってる。だとしたら今の技術じゃ治療は無理だ。今後も対症療法生活ってわけさ」

神藤は、両手をポケットに突っ込みながら淡々と解説した。

それは端から完治は無理だと判断しての態度に他ならない。

「ちっとも大丈夫じゃないじゃないか」

私は納得いかずに、感情のまま神藤を睨みつけた。

「あのな、あくまで俺の考え方だが、命さえ助かればそれは"大丈夫"なのさ。この先あの子がどれだけ生き永らえるか知らんが、少なくとも俺には関係ない。この件についてこれ以上は管轄外だ」

神藤は、下を向きながら落ち着かない様子で捲し立てた。

「……それはそうと相楽、お前あの女の子とどういう関係なんだ?搬送されてきた時のお前の様子、尋常ではなかったぞ。とてもただの通りすがりとは思えん」

中学生の頃から勘の冴えたやつだとは思っていたが、どうやらその鋭敏さは今でもすこぶる健在のようだ。

「通りすがり、というはたしかに語弊がある。だけど言い訳するなら、救急隊を呼ぶのに説明してる時間がなかったからさ」

私は神藤に、公園での普段の日課からアユとの奇妙な出会い、そして本日に至るまでの全てを包み隠さず話した。

神藤は時々ううむと唸りながらも、話の腰を折ることなく最後まで聞いてくれた。

「……するとなんだ。アユと名乗ったあの女は、二日前にはちっちゃな少女だったのが、今やあの見た目というわけか。けっ!どうにもわからねぇが、あの女、『危険を冒してここまで来た』とか『こんなはずじゃ』だとか……ああ、あとは未来だなんて言ってたんだよな?単に精神がやられてる可能性もあるが、それだけじゃあ異常成長の説明がつかん。先天性の病気にありがちな特有の所見もなかったし……もしかするとタイムトラベラー、かも。なんてな、はは」

「なっ……タイムトラベラー?」

私は内心激しく驚くと同時に呆れていたが、神藤の仮説をただのトンデモ話だとすぐに一蹴することはできなかった。

他にこの怪現象を説明する手立てがないのと、この男は軽薄な態度でこそあれど、真剣に悩んでいる人間の前で冗談を放つ性格でないことをよく知っていたからである。

私はこの説を頭の中で必死にかみ砕いていたが、そんなこちらの様子などお構い無しとばかりに、神藤は昔特撮番組で見た三面怪人のようにコロリと明るい表情に変わると

「そういや思い出したんだけど、昔お前が話してた夢、どうしたんだ?」

急に今一番触れて欲しくない話題へと切り替わり、私はあからさまに眉をひそめた。

とはいえアユとの顛末を話した以上、学生時代からの友人が気にするのもある意味当然の流れである。

「……今更口にするのも恥ずかしい」

神藤はしばらく黙ったまま見つめてきたが、やがて私の肩に力強く両手を置くと

「……なぁ、相楽。今からでも遅くない。お前、医者になれ。アユの病気はたしかに難病だが、天才の俺とお前が組んで研究すれば打開できるかもしれない。その冴えない面に死んだ目を見てたら、お前がお前らしく生きてないのは明白さ。あの学校一の秀才のオーラはどこいった?それにどうせあの女のこと好きなんだろ?夢も叶って大切な人も守れる。一石二鳥じゃねぇか」

神藤の説得が、魂からの叫びに感じた私の胸に熱いものがこみ上げてくる。

……君に言われるまでもない。

なぜならば、アユが吐血し運ばれた時点で私の心はもう決まっていたからだ。

そんな私の心情を理解した上での昔の夢の質問だったのだろう。

神藤は一度大きく頷き満足げに笑うと

「余計なお世話だったか。ほんじゃ、親友のファーストレディの様子でも見てくっかな」

長い脚で踵を擦りながら、やや小走りで戻っていった。

暇じゃないはずのによく私と喋っていられたものである。

やがて、病院を立ち去ろうとした時、背後から素っ頓狂な声があがったかと思うと、再び神藤に呼び止められた。

「おい、忘れるとこだったよ。相楽。お前にアユぴっぴからプレゼントだぞ。これで涙拭けってさ。自分がやべぇってのに気骨のある子だよな、ははは」

そういうと私に小さなハンカチを手渡して、昔から直らない怒り肩を揺さぶりながら、また処置室へと消えていった。

ハンカチはレースに縁取られた花柄で紫色の、どこか年配者が持ち歩きそうなものだったが、何より私を気にかけてくれるアユの気持ちが嬉しかった。


ー続く

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