ー火曜日

……ジリリリ!

今日も容赦のない目覚ましのベル音にたたき起こされた。

やににまみれた目を擦りながら、底の削れた革靴でトボトボと通勤路をなぞっていく。

デジャヴを疑いたくなるほど、何一つ変わり映えのしない毎日。

それでも昨日との区別ができるのは、課長のデスクに置かれた幼児向けキャラクター、プリンセスヨーちゃんの日めくりカレンダーのおかげである。

先々週から抱えていた大手企業からの入力業務をやっと片付けられたことで、幾分か肩の荷が下りた私は、仕事終わりに少し寄り道をした。

帰宅路からわずかに逸れて、駅前へと向かう大通り沿いに、炭火焼き鳥の店がつい最近オープンしたのだ。

食欲をそそる白煙に包まれながら、大好物のつくねとももたれを二本ずつ購入すると、道中コンビニでワンカップを入手して、いつもの第零公園へと向かった。


昨日の不思議な、アユと名乗ったあの少女は今日もまたあのベンチにいるのだろうか。

妙に期待の入り雑じった感情を抱きつつ、 幾重にも重なった落ち葉を踏みしめながら歩いた先に所定の位置がみえてきた。

「……あ!」

はたして、そこにはアユが両足を地面いっぱいに伸ばしながら待っていた。

こちらの存在に気づくと、アユは満面の笑みを向けてくれた。

「や、やぁ。今日もいてくれたんだね」

本当にいたことへの驚きと照れ臭さからぎこちなくなったが、自身の思いを打ち明けた人に再び会えたのは純粋に嬉しかった。

……だが、気のせいであろうか。

私は、単刀直入にたずねてみた。

「こんなこと聞くのがおかしいのはわかってるんだけど……アユちゃん、昨日より少し身長大きくなった?」

いや、決して気のせいではなかった。

昨日の時点では、アユの両足は地面に接しているかいないかといった具合だったが、今は明らかに拳二つ分ほど余裕がある。

「え?そうかな。ふふふ」

はぐらかしにすらなっていない誤魔化し笑いと、常識では考えられない成長の早さに、薄気味悪さを覚えた私だったが、今更あとにも引けずに、アユから距離をとってベンチへと腰かけた。

額から流れた冷や汗は、こめかみまでくると太腿の上で握りしめた手の甲へと落ちていく。

そんなこちらの様子など意にも介さないというように・

「今日は何か買ってきたんだ。見せてよ」

ビニール袋の中身を覗きこんでくる。

「あ、焼き鳥だ!お酒まで買ってる。なんだかスペシャルだね」

そんなアユの言葉がまともに耳へと入ってこない代わりに、女性特有の優しい声が心地いい音楽のように聴こえていたが、その音域も昨日より低めになっていることに気がついた。

どうやら見た目だけでなく、声帯も成長しているらしい。

「……てる」

これは、いったいどういう原理なのだ。

年齢的に表すならば十三、四歳といったところであろうか。

私はとっさに少女以外の人物や環境に何か変化があったかどうかを必死に思い出した。

職場の人間に関しては、見たところ変わらないように見えたが。

だが、よくよく観察すれば同僚や蒔田の目尻にはシワが一本入っており、課長の毛量はさらに少なくなっていたのかもしれない。

「……いてる?」

これではまるで私だけが世界から取り残されている感覚である。

「ねぇ!聞いてる?」

ハッと我にかえった時は、訝しげに私の顔を覗き込むアユがすぐ隣へと来ていた。

ゴクリと生唾を飲み込みながら、二つのガラス玉を凝視する。

「あ。思い込みの激しいところが六郎さんの悪いところ。そういうのジャスイっていうんでしょ?」

クスッとはにかんだこの顔の裏に、何らかの悪意があるとは到底想像できない。

それにまるで私の恋人のような接し方に、僅かばかり居心地の悪さを覚えたが

「そ、そうだよね!私の考え過ぎだったよ。ごめんね」

グルグルと脚に絡まった水底の藻をふりほどけずにいる私の思考を知りつつ、アユは私の顔を観察するかのように、しかし穏やかな表情で眺めていた。

買ってきた物に手をつけないまま、二十分が経とうとしていた。

「あたしのことなら気にしないでいいよ。焼き鳥、一緒に食べようって思って買ってきてくれたんでしょ?あたしは六郎さんが食べてるとこ見る方が好き」

アユには私の懐疑的な心情がお見通しのようだった。

これ以上悟られるわけにはいかない。

「……やっぱり身体の具合が?」

私は、話題の切り替えの為にも昨日から聞きたかったことを思いきって訊ねてみた。

「うん、胃が悪いの。難病だから今の医療じゃ治せないって。食べられるものも少なくてさ」

彼女の白い顔に浮かんだ重く鈍い影が再び現れた。

「でも、可哀想だなんて思わないでね。あたしは今の食事で十分なの」

二人の周りを取り囲む空気に似つかわしくない一見屈託のない笑顔は、寧ろ彼女の本心ではないことを証明しているようだった。

私は軽く頷きながら

「可哀想だとは思わないよ。憐れみは感じない。だけど、私にその病気に関する知識と力があれば治してあげたいと思う」

アユはこちらの真意を確かめるような目つきで見つめてくる。

「実はね、私の夢はお医者さんになることだったんだ。幼い頃からの夢。しかし、現実はそう簡単にはいかないものでね。なりたいものになるのに必要なものを備えていないといけない。私には医者になるために必須のものがたくさん欠けていた。知力、経済力、行動力、話術、そして勇気。私には中学時代唯一の友人と呼べる男がいたんだ。風の噂だが、そいつは見事に医者となったらしい。何度か会おうと連絡があったが、一度も返事していない」

「どうして?」

「どうしてだって?恐かったんだ。友人と自分を比べて惨めに感じるのがね。人生のどこで道を誤ったのか。あまり人と接することなく済む仕事を選んだからか?勉強量が足りなかったのか?私は……私は、自分に負けたのだ」

今の私自身の顔を鏡で見れば、涙で眼鏡が曇り、おまけに諦観に満ちたさぞや酷い姿であっただろう。

「そうだね。きっと六郎さんは負けたまま、お友達とも死ぬまで会わず、日中は画面に向かってひたすらタイピング。夜はここでぼんやりと街灯を眺めるだけ。次の日も同じ事の繰り返し。あ、でも勘違いしないで。別にそんな毎日が悪い訳じゃないの。ITのお仕事も世の中には必要不可欠。それも担うのもまた人生だから。ただし、熱意をもってやってる人とは雲泥の差だよ」

アユは一気にまくし立てると、スクッと立ち上がりスカートをはらいながら

「じゃあ、短いけどあたし今日はもう帰るね。焼き鳥、ありがとう。気持ちだけ受け取っておくよ」

……怒ってる?い、いや、しかし。

落ち着いて考えれば、アユの反応は当然のことである。

自ら選んだ道が失敗だからと文句を垂れ、おまけに何も動かず夢だけ抱えたまま。

惨めだからと友人と会うのを渋っていたのに、私は年端もいかぬ少女に醜態を晒したのだ。

いつの間にかパラパラと降りはじめた霧雨でうっすらと湿った落ち葉が、無意識に地面へ立てた私の両膝を支えるように包み込む。

本格的な冬が隣まで迫った公園の夜には、もはや手を差し伸べてくれる人など一人もいない。


ー続く

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