博士の誤算

穂高凜

ー月曜日

今週も憂鬱な一週間が始まった。

強い眠気に抗いながら、くたびれたスーツを羽織って、日々勤める会社へとただひたすらに磨り減った革靴を滑らせる。

世の社会人の大部分がそうであるように、かくいう私も他に漏れず、県内のIT企業の本社ビルへと重い身体を引き摺って向かっていた。

元々コンピューター関連には興味がなかったのだが、そんな私がなぜIT企業で働いているか。

それは他の社員とのコミュニケーションが必要最低限で済むからである。

幼い頃から他者との会話が何よりも苦手だった私は、何をするにしても意識は自己の内側へと向き、そこで全てを消化していた。

私を叱咤し称賛し慰安し激励するのも、他の誰でもない私自身であった。

私の人間性を見抜いた人事部は、私に見合った部署へと配属してくれたので、このままノンストレスな勤務生活を過ごせるものと想像していた。

そんな矢先、突如として始まった社内での陰湿ないじめ。

まさか自分がその対象になるとは思いもよらなかった。

破損したデータを送ってきたり、大事な紙の資料をコーヒーで濡らされたりした。

その瞬間に沸き立つ周囲で堪えるような笑い声は、静かなオフィス内ではあまりにも響き過ぎた。

そんな中、コピー機の陰からこそっと姿を現し静かに耳打ちをしてきたのは、私より15歳上の後輩、蒔田由奈だった。

「先輩、今日もお疲れ様でした」

小声とはいえ感じ取れる弱々しさと同年代の他の女性と比べて、いまひとつ華やかさに欠けるその出で立ち。

盛大にほつれた細い髪は其々が明後日の方向を指して、御主人の浮き世ぶりを助長している。

「え、ああ。お疲れ様」

「あの……気にしないでくださいね。この会社は先輩がいないとまともに回らないんですから」

彼女としては誠心誠意励ましてくれたのだろう。

しかし、深い海の底まで太陽の光が届かないように、私の心の表面を撫でるだけに留まったのが、我ながら物悲しく感じた。

「そう、ありがとう。けどもう行くよ」

蒔田の不安げな視線を背に、そそくさとオフィスを後にした。


そんな忌々しい仕事の時間が終わり、いつも通り定時で退社した私は、とある場所で一息ついてゆっくり過ごすのが日課である。

会社までは徒歩二十分程度と近場なのだが、道中にある第零公園のベンチに座り持参したコーヒーを飲むのだ。

一日の中でこの瞬間ほど心安らぐ時間は存在しない。

公園内に入ると、いびつな輪郭をくっきりと表した月光を背中に受けながら、室温だけは暖かい会社との温度差に身震いしつつ、所定の位置へとつく。

深緑とわずかな住宅で囲まれた第零公園は、周辺に住まう住民達の憩いの場として、昼夜問わず一定数の利用者が存在する。

現に年配の男性が老いた犬を従え、トボトボと向こう側を通り過ぎた。

公園自体はそれほど広くはないが、小さな子供たちが遊べるよう、簡単な造りの滑り台や動物型の椅子が点在している。

そんなほのぼのとしたこの公園にも別の顔があり、近頃おばけの目撃例が出始め、肝試しスポットとして一部マニアにも知れているそうだ。

夏にはあれだけ群がっていた常夜灯下の虫が近頃めっきり姿をみせなくなったのが、冬の深まりをよく表しているようだった。

昼間は子供連れの親御さんやゲートボール等で戯れるお年寄りで賑わっているのだろうが、夜ともなると心霊の噂が生まれてもおかしくない、ある種異様な雰囲気に包まれる。

遊歩道へ上から迫る木々の激しく歪んだ様や至るところで絶えず波紋が広がり続ける底なし沼といった存在がそれらの話を助長していた。

私は、鞄からおもむろに水筒を取り出すと、その蓋兼コップにコーヒーを注いだ。

沸き立つ湯気の多さに軽く咳き込みながら、その縁に唇を当てる。

身体の芯、そして心までも温まるこの時間に感謝と安堵のため息を漏らした。


ハッと気がついた時には、私はベンチに身体を横たえ、今にも地面へと落ちそうな体勢になっていた。

いつの間にか水筒も鞄にしまいこんで、そのまま眠りこけてしまったようだ。

いったいどれくらいの時間が経ったのだろうか。

「……今何時だ?」

慌てて左手にはめた腕時計を確認する。

二つの針は七時を指しており、幸い公園に着いてから、まだ一時間程度しか経過していなかった。

幼い頃、母から時間を無駄にするなと強く言い聞かせられてきたのが身に染み付いていて、この結果にホッと胸を撫で下ろした。

と安心したのも束の間。

ベンチの前方、公園のシンボルとも呼べるそこそこの背丈がある樅の木の影から、ひょっこりとこちらを覗き見る小さなシルエット。

ソレはひょこひょこと木陰に出たり入ったりしている。

こちらに対して意識を向けているのはたしかであるものの、どうやら警戒しているような印象を受けた。

人間という生き物は、火事場の際のみならず何らかの恐怖を感じる時も自制の留め金がはずれるらしい。

相手から敵意を見せられる前に、こちらから攻勢に出るくらいには不思議と冷静さを欠いていた。

高まる緊張を掻き消すように、私は普段では決して出ることのない大声を張り上げた。

「そこに誰かいるのか!で、出てこい!」

ビブラートたっぷりの怒鳴り声は、威嚇だけでなくこちらの動揺まで伝わっただろう。

それに反応するように、ゆっくりとこちらに近づいてきたのは、意外にも小学校中学年くらいであろう、今時珍しいおさげ髪の可愛らしい女の子だった。

「あなた、どうしてここにいるの?」

女の子はガラス玉のように大きく穢れなき目を丸くしながら尋ねた。

大人相手でさえまともにコミュニケーションのとれない私なので、子供が相手では尚更言葉以前に思考からして詰まる。

「ねぇ、あなた、どうしてここにいるの?」

先程よりさらにこちらに近づきながら、もう一度聞いてきた。

いやいや、そんなの僕の勝手だろう。

子供とはいえ、なぜ見ず知らずの人に僕が公園にいる理由を話さなければならない?

脳味噌から滲み出たこれらの本心は、子供相手には到底言葉へと変換できるものではなかった。

私がしどろもどろしている間に、おさげ髪の女の子は、私の座るベンチのすぐ右隣にある、ゾウを模した小椅子へと腰かけていた。

「うふふ、そんなに恐がることないよ」

私のこわばっているであろう顔を覗き込みながら、女の子が嘲るように笑って呟く。

「何でそんなこと話さなきゃいけないと思ってるね。でも考えようとしないと考えない大事なことっていっぱいあるよね。生きるのに絶対必要ってわけじゃないけど、とても大切なこと」

どうしても返答が欲しいようで、深林に湧く泉のように透き通った瞳で凝視してくる。

花のような可憐さとはよく言ったものだが、まさしくこの少女はその言葉を体現するかのようである。

栗色のおさげは艶やかにしなり、細く小さな身体は他の誰かに守りたいと思わせるには十分だろう。

そんな中ただひとつ、気になることといえば、クリーム色の皮膚の表面を薄い膜が張っていて透けている柔肌であった。

その様は、云うなれば蝋人形という表現が妥当であろうか。

そんなこちらの懸念など意に介さないようで、屈託のない笑顔を絶やさない。

「なぜ私がここにいるのか知りたいんだい?」

私は当初から感じていた純粋な疑問をぶつけてみた。

「だってこんなとこでひとりぼっち、何か悩んでるんだろうなって思うじゃん。あなたの年齢ならもっと元気に仲間と飲み歩いたりするものなんじゃないの?」

……到底小学生の発言とは思えない。

「大人にもね、色々な人がいるんだ。私は一人で過ごすことが多い。それが好きだからね」

「でもさ、パソコンゲームの中じゃたくさんの人と話してるじゃん。ジョーゼツじゃん」

「な、なんでそれを?」

思わずすっとんきょうな声をあげてしまい、慌てて周囲を見渡しながら、軽く咳払いをした。

「なぜそんなことを知っているんだい。まさか君は私の生活を監視している訳ではないだろう。……うむ、そうだな。子供でも言っていい冗談とそうでないものがあるんだよ」

ここでひとつ、大人の余裕を演出しておく。

「ふーん、けどあたし見てたから。あなたの後ろにいながら」

平然としたトーンで流れるような言葉だったが、私の全身を覆う肌はみるみる内に粟立ち、体温は急降下した。

「ど、ど、どういうこと?」

絞り出した言葉はこれっきり。

この女の子はいったい何者なのか、この子こそなぜこの時間に公園に現れ、私と会話しているのか、頭の中を駆け巡る問いは震えが邪魔して、あと一歩のところで言葉にできない。

「どういうことって、言葉のままだよ。うふふ。」

私の恐怖している様を眺めて楽しんでいるようだ。

「それよりさ、まだ答え聞いてないよ。どうして、ここにいるの?ただ一人が好きなだけじゃないんでしょ」

女の子はまるでくるくるお面を取っ替えるように、先ほどとは打って変わって真剣な表情で、私を見つめてくる。

カウンセラーや医師ならまだしもこんな子供に悩みを話したところで何も解決しないし、変革がもたらされることはないだろう。

だが、同時にここでこの見知らぬ女の子相手になら、胸の内を吐き出しても何ら影響がない分、逆に話してもいい気になっていた。

「そう……だな。……実はね、私は今の仕事を辞めたいんだ。勿論元々は自分で望んで入った。人と話すことが苦手だから、コンピュータを扱う仕事なら最小限で済むと思ったんだ。だけど、ふたを開けてみたら、そこはいじめの温床。能力があるものが評価されるなんて甘い世界じゃなかった。くだらない派閥と古参共の権力が蔓延るサバイバルさ。私はそこに巻き込まれたくないが為に、敢えてどちらの側にもつかなかった。いつの時代も日和見=敵、なのさ。私をいびらない人はほとんどいない。正直毎日が辛い。辛いんだよぉ」

いつの間にか私の頬を熱い涙が伝っていた。

「せめていじめさえ無くなれば、もう少しまともに働けるかと上司に相談もした。だが、その答えは"調査を検討する"と"君もいじめられない努力が必要"の二言だけだった。誰も守ってなんかくれない。信じられるのは自分だけだと感じたよ」

私は文字通り堰をきったようにまくし立てた。

こんな子供に世辞辛い世の実情を話したことをすぐに後悔したが、そのあいだ女の子は一言も発さずじっと耳を傾けていた。

幼い子供なのできっと内容の大部分を理解できていないだろう、そう頭を切り替えればとにかく聞いてくれていることだけで嬉しかった。

「本当はさ、やりたい仕事があったんだ。今の君と同じくらいの時からの夢。だけど、到底叶わない。だから夢なんだ」

自身のため息で突然我にかえった私は、恥ずかしさのあまり髪をボリボリ掻きながら

「ご、ごめんね。私のくだらない話に付き合わせてしまって」

とペコリと反省のお辞儀をした。

女の子の様子が気になって横目で見てみると、首をもたげてまばらな星空を仰いでいた。

「やりたいことやったら?」

抑揚のない一言だったが、その裏には深い思いやりを感じ取れる気がした。

「人生一度きりなのに、モヤモヤしたままじゃ勿体無いよ。これから先どうなろうとそれがあなたの人生。悪いこともあればいいこともあるって」

そう言うと、少女はかき消すように首を横に振って

「……わたしには……わたしにはどうしてあげることもできない。悩んでるってことはそういう気持ちがあるのはたしかってことでしょ。その気持ちを無視せず向き合って正直に動いたら、あなたが元気になれるかも」

悲痛な面持ちが月の光に照らされて、より蒼白く且つ妖しく浮かび上がる。

なんて大人びた子なんだ……。

少女と自分を比較して、途端に自身の弱さが目立つ気がして、恥ずかしさのあまり俯いた。

数分間、私と女の子の間を沈黙が支配する。

リリンという虫の鳴き声が、この静寂に物悲しさを加えて、より重々しくお互いの距離を広げるように感じた。

その道を繋ぎ止めるように切り出したのは、私だった。

「そういえば名前を聞いていなかったね!よければ教えてくれるかい。嫌ならいいからさ」

空気にそぐわない明るい態度を敢えて見せる。

「え?そうだな……ア、アユ」

見知らぬ中年手前に名前を教えるか悩んだのだろう、この際アユというのが本名であろうとなかろうと問題ではない。

「そうか、アユちゃんか!私は六郎(ろくろう)っていうんだ。これも何かの縁だろう。よろしくね」

内に秘めた悩みを打ち明けたからだろうか、それと

もこの空気を保ちたいと思ったからだろうか。

なぜかこの子に対して今、人見知りをせずに私らしく話ができていた。

「うん!わかったよ。六郎さん」

アユは小さな頭を大きく縦に振った。

「さぁ、もう今夜は遅い。家に帰ろう。アユちゃんも明日学校があるだろう?」

その言葉を聞いたアユの顔に、一瞬影が差したのを私は見逃さなかった。

「そ、そうだね。そろそろ帰るね。六郎さん、また明日会えるよね」

……しまった。

アユが小さな身体に何らかの病を患っているのは、病的な青白さといえる肌を見れば明らかであった。

「う、うん。気をつけて帰るんだよ」

最後に若干の重々しい空気を残しながらも、それをかき消そうとする紅葉のような手をこちらに振りながら、くるりと踵を返して公園をあとにした。


ー続く

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