同居

はいの あすか

第1話

 トイレに入って用を足していると、リビングルームのほうからミチが誰かと話している声がした。二人暮らしのこの家で私以外に会話する者はいない。電話でもしているのだろうか、と手を流してトイレから出ると、リビングにはミチともう一人、私がいた。

 私に似ているひとというのではない、毛髪から踵まで完全なる私の同一人物なのである。リビングの扉を開けたまま呆然としている私と、それまでミチといつも通りの会話をしていた私とを、ミチは首をブンブン振って見比べた。え、え、どうしたことでしょう、キヨが二人います……。

 私は、別の自分をくまなく調査した。私に変装しているのでもなく、見た目のみならず言葉の選びも緩慢な身体の運びも私そのものだった。そして幸運なことに、それ自身が私の分身だという自覚があった。はい、私はあなたを写し取った存在だと思ってください、私はあなたなのです。

 だから、後から入ってきた私が本物の(この場合、今まで存在していて時間と空間をミチと共にもしたという意味の)私であることをミチに納得させることはそう困難でなかった。

 私と分身は、感覚を共有していた。それが見たものは私にも見え、それが触れたものは私にもその感触を得られた。感覚器官が倍になり、感覚を処理する能力も倍になった。また、それに付随して身体器官も状態を同期しているようだった。私の食欲や排泄欲は、分身のそれによって代用された。鼻水すら、分身がティッシュの中に擤めば、私の鼻からは取り除かれた。

 我々は日常を役割分担するようになった。分身はあえて語らなかったが、私が本体であって分身は優秀な付き人のような役回りとして過ごすものと認識しているようだった。分身が私自身として会社に行けば、私は余暇を過ごすことができた。分身の脳は私のものを完璧に写し取っているから、処理を滞らせることは無かった。これまで組織の中で有していた私のポジションは安定的に維持されながら、一方でそれによって機会を失っていた芸術鑑賞や肉体を活動させる喜びを本当の私は味わった。分身は私が自分のために整えたそうした分業体制をすぐに受け入れた。私の勤勉・愚直・従順な側面を率先して代表した。そして、貪欲・華美・奔放な側面が私に残された。私は週に一度遠方の資料館を訪れては過去の記録に驚嘆し、知識欲を喜ばした。また別の日は市議会に足を運び、誠実なる市民として傍聴の権利を行使した。市政に文句はないが、生活のルール作りの現場に立ち会っているだけで、むら気のある正義感が湧いてくるのを喜んで感じたのだった。

 分身が処理する仕事も私の脳を経由して指示を出しているから、都合二人分の行動を管轄していたのだが、とろけて粘性のある餅が左右に引っ張られてゆっくりとふたつに分かれてゆくように、私の指示が及ぶ範囲も徐々に切り分けられていった。第一の段階は、私の意図を分身の身体に拒まれるような、数秒のタイムラグを持っていたが、まだ疎通はできた。第二の段階では、脳からの指令は受け取られず、機能停止に陥った。既に分身は私とは別人格を持ち始めていた。私は分身の性格を読み取ることに努め、分身の身体が喜んで従うような、下からの、ゴマすりの指令を送るようになった。最後の段階は、もう私の判断で動かせる状態になく、分身はそれ自身の意思で行動するようになっていた。私はそれを知覚することだけができた。映画鑑賞に五感が加わり全身で他人の物語を体感するようなものであった。

 別の個人としての分身は、それでも私と同居を続けた。私が夜更かししている間、分身は勤勉な眠りに就いた。私がまだ夢を見ている夜明け、それは起きて本を読んだ。そして私の知らない理論を身につけた。分身が規則正しいリズムを刻むほどに、私の生活は乱れた。親からの言いつけに子が反発するように、一方の勤勉さは他方の怠惰を招いた。分身の示した全く新しい行動方針に、ミチは最初好感を持ったようだった。ミチも同様に一段落ずれたサイクルに合わせて寝起きした。分身の掲げる自律主義とそれによる生活の充実を私に宣伝しもした。キヨとアレとは同じ胎盤から生まれた双子のようなものではないですか?だとすれば、互いに採り入れるべき部分があると思いますけれど。今のキヨは、アレの充実しているのを抑え込むことだけが嬉しくてわざと反対のことをしているようにも思えます。

 それは分身への、意識の底で共感すればこそ生まれる私の反感を、より育てることにもなった……。

 そして私は行動を起こした。朝、分身が目覚めるより早くベッドを出ると、身支度をした。起き出した分身の寝ぼけながら状況を把握しようとしているのに、私は言った。今日は私が出勤するから、あなたは家で居なさい。そして、好きに過ごすようにしてください。

 遅れてリビングに入ってきたミチも異変に気付いたようだった。分身は少し抵抗を試みる気配を見せたが、理性的な人間らしくそれを喉の奥にとどめた。私がすぐに玄関を出ていってしまうと、分身はどうしようもなかった。会社に同じ人間が二人現れることで立ち上がる様々な面倒ごとを想像もしただろう、それだけでかなりの抑止力にもなっただろう、と私は出勤しながら推測した。

 実際、そうだった。人間が入れ替わったことを悟られまいとしながら仕事を始めて数時間経っても、分身が会社に現れることは無かった。ところが事態は動いていたのだ。一日の業務を終えて家に帰ると、ミチがリビングのソファに寝ていて、その顔には長い擦り傷が鼻から右頬にかけて痛々しいピンク色を見せていた。私はミチを起こし、何があったか説明させた。

 ああ、アレはどこかへ行ってしまいました。きっと帰ってくることはありません……。

 アレはキヨの今朝なさったことを理解できないと、自分に対しての開戦だと言いました。そして、従属者たる分身のプライドがどうのと、ブツブツと繰り返しました。ついに、アレは会社に乗り込み、その席を奪い返さんと決心したようでした。ワタシはそれだけは避けなければならない、でなければキヨもアレも破滅に終わるだけだ、と思いました。

 制止するワタシを無視して、アレは道路まで出て行きました。ワタシはなおアレの肩にぶら下がってでも止めようとしましたが、突き進む猛牛がバリケードを破ってゆくように、ブンと振り落とされたのです。ワタシは顔面から硬い道路に打ち付けられました。アレもはっと気付いて振り返ると、ワタシの顔が血まみれになっていたのでしょう、ひどく動揺した様子で、勇んだ足は止まりました。ワタシも興奮してましたから傷も痛みはしなかったものですが、その後のアレの行動はワタシを悲しませました……。通行人から見えないように、着ていたジャケットを乱暴にワタシに覆いかぶせると、その裏地で傷口を、ゴシゴシと拭ったのです。その場しのぎの、厄介ごとを扱うようなやり方でした。それが済むと、アレは駅への方向とは違うどこかへ去ってゆきました。

 ミチはそのあと傷口もそのままに、哀れな自分に疲れてソファで寝てしまったということだった。分身との好ましい連帯感を持っていただけに、その喪失は激しかったようだ。アレと双子のような私が居るではないか、と励ましてもみたが、詮無いことだった。

 省みるに、分身が私の方針から離れて独立を試みたことがやはり元凶だったのだろうと思う。役割を配置して、あたかも対等であるようににみせてはいたが、どうしたって分身は分身であり、本体はこの私なのであった。分身が現れた時には既に、私の人格として生きるためのルールは出来上がっていて、そのルールを一から作ったのは私なのだ。そこから外れようとある極端に寄ってみても、私がその対極に立ってバランスを保つことは当然である。それを変えたければ、ルールを作る側になるしかない、あるいはルールメイカーとの友好的な妥協点を見出すしかないということかもしれない。結局分身は非理性的な行動に出てそれに失敗し、私のルールから退場することになった。

 分身がいた生活を振り返ることは今では絶えて無くなっていた。ミチも私もかつての暗い記憶の風景として、話題に挙げることは憚られた。

 ある時、我々は新しい命を授かった。想像もできない、自分がひとを一から育てるということ。またそれに要求される忍耐への不安、そしてすべてを上回るであろう真っ白な歓びの予感。それらがない混ぜになった気持ちでいたのだが、胎内の子が大きくなるにつれ、ミチの表情には開けた晴天に場違いの分厚い灰色の雲が一点の影を落としているのが読み取れた。ミチは独り言のような調子で言った。

 この子はキヨとワタシのはじめての子ですけれど、ワタシは一度、もう子育てをした経験を思い出すことができるんです。あの分身のことです。あなたのコピーであったアレと、ワタシたちは継続した努力をもって精神的なつながりを厚くすることに失敗した……。そう、あれはワタシたちの失敗でした。この子の場合、同じ過ちを犯さないとどうして言えましょうか。それを思うとワタシはやり切れない気の重さを払えないのです。

 新しく誕生する我が子が、あの分身のようだったら……。確かにその想像は私をしても身震いさせた。あの時のように決裂に陥るか、別の道を手を繋いで歩めるかは、私たちの問題かもしれないと思った。私は膨れつつある腹部を見やり、ミチの節張った手を握ってそのうえに重ねた。

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