第2部 最終話 そして物語は逆転する

 決闘は翌日、主のいない大聖堂前、ツァイム城下町の中央広場で行われた。


 リヒャルトとクラウスは板金鎧で身を包み、試合用の剣を手にして、決闘場の中央で相対していた。ウルリッヒ自身は、大聖堂前に祭事用の高台を設けて、呆れ顔の妻と並んで決闘場を見守っており、カールは事態を呑み込めないまま審判に駆り出されていた。


「はじめ!」


 その言葉を皮切りに、剣がぶつかり合う金属音が広場に響く。


 勝利の褒賞である当のマリーは、決闘場近くに停めた馬車の中に一人でいた。馬車の外には、侍女のイレーネが待機している。


 マリーの腹の中は、怒りに満ちていた。昨日の会議に同席していたものの、ただそれだけで、誰もマリーに意見を求めようとしなかった。父はまるで所有物のように、マリーを勝手に決闘の褒賞に据え、夫であるリヒャルトも、愛を謳うクラウスも、マリーの顔を見ずに了承した。それが許せなかったのだ。


 嫁ぎ先であるフィアーツェンでのマリーは、給仕において人々を使役する立場にあり、自身の意思に従って動き、言ってしまえば一人の人としての自由を得ていた。それなのに実家に帰った途端、父親の所有物に逆戻りしてしまったのだ。あれだけ心地よかったはずのツァイムに息苦しさを感じた。


 いや、マリーは一人かぶりを振った。自警団の動きがあった頃から、ツァイムには居心地の悪さを覚えていたはずだ。ただ、生まれ故郷というだけで、離れた途端、思い出が美化されただけだ。いずれにせよ、今回の決闘によって、マリーはツァイムにも、そしてリヒャルトのいるフィアーツェンにも居場所が無くなったように感じられた。


「マリー様」


 外からイレーネの声が聞こえたので、マリーが扉を開けると一人の男が立っていた。


「ルクセン領司祭のヨシュカ=ランゲです。昨日は失礼致しました。少しだけお時間を頂いてもよろしいでしょうか」


 マリーが侍女を見ると、頷き、男が無害であることを伝える。マリーは戸惑いながらも馬車に招き入れ、対角線上の席を促した。


「どういった御用で」


 一人でいたかったマリーは不愛想に尋ねた。決闘が終われば、内乱は終結して一旦は帝国に平穏が訪れるが、マリーはどちらかの妻となる。しばしの心の安寧を確保したかった。


「ご無沙汰しております、マリア・アマーリエ様。狩猟の館では見苦しい姿をお見せし、貴方様を怖がらせてしまい、大変申し訳ございませんでした」


 狭い馬車の中で、ヨシュカが深々と頭を下げると白髪の銀頭がマリーの目の前に迫った。


「恐怖で記憶に鍵をかけてしまったのかもしれませんね。あの日、貴方は中庭で童歌を口ずさんでおりました」


 新しい記憶に追いやられて、いつの間にか忘れてしまった童歌が、つたない歌声と共に蘇る。そして中庭に生い茂る青々しい若草と花の香りが鼻腔をかすめた。


「小姓の少年」


「そうです。市井の噂が、貴方を長年苦しめてしまいました。私は無事に生きております」


 ヨシュカが左手を胸に手を当てて、マリーを安堵させるように優しく微笑んだ。マリーは夏の騒動を思い出したが、あのときの鋭い目をした少年の顔は、目の前にいる穏やかな表情のヨシュカと重なることはなかった。内面から彼は変わったのだとマリーは理解した。


「よく、ご無事で」


 マリーは思わずヨシュカの両手を握り、手に覆いかぶさるようにして頭を垂れ、神へと感謝の祈りを捧げた。握った手から伝わるヨシュカの体温は、マリーの中に深く沈んでいた黒い泥状の塊を溶かしていくようだ。


 ヨシュカが両手を握り返すと、こう言った。


「今なら答えてくれるでしょう」


 マリーが顔を上げると、ヨシュカは尋ねた。


「あなたは、前世の記憶を持つ者ですか?」


 ふっと息を吐いて、マリーが答える。


「はい。あなたもですね」


「はい、そうです」


 狭い馬車の籠の中は、まるで告解室のようだとマリーは思った。薄暗く、分厚い窓掛けの間から漏れる日の光が、神々しく手元を照らしている。神に偽りなきよう話すと誓うかのように、二人は手を離さず、話を続けた。


 まずはヨシュカが、リヒャルトに話したように、前世とこの八年間を振り返り終わると、マリアは同じ名前の選帝侯や彼女が残した手記に興味を覚えながらも、改めて自身が蚊帳の外にあるとわかり、焦燥感に駆られた。


「父上はすべてを知っていたのですね。」


 決闘の件といい、ヨシュカの件といい、マリーにとって父はもう信用ならない存在だった。この時代の父と娘としてはごく当然な関係性ではあるが、それでも翻弄させられたという不快さは拭えなかった。


「リヒャルトの前世については、」


 マリーはふと、ヨシュカであればリヒャルトは重い口を開いたかもしれないと考えて、尋ねてみようとしたが、途中で口をつぐんだ。


「ええ、ご自身で聞いたほうが良いでしょう」


 ヨシュカは、言葉を詰まらせたマリーを察して、答えてくれた。恥ずかしそうにマリーが俯くと、今度はヨシュカが問いかける。


「貴方はなぜ転生してきたのだと思いますか」


 それは八年前、ヨシュカに聞きたかった質問であり、マリーは戸惑いを隠せなかった。ここで「わからない」と答えたら、彼は幻滅するだろうか。そんな不安もよぎり、マリーは返事に窮していると、ヨシュカは「良いのですよ」と先回りした。


「意地悪な質問でした。そもそも、人間は生まれてくるとき、自意識を持ちません。いざ生まれようと、自身が考えて生まれてきたのではないのだから、わからなくて当然です」


 では、なぜ尋ねたのだろう。マリーは首を傾げた。


「司教様が転生した理由はわかりますか?」


「なぜ、このように生まれたか説明できませんが、前世の記憶を持つ私がなすべきことを見つけたように思います」


 ヨシュカの答えに、マリーは落ち込んだ。


「運命を見つけたのですね」


 ヨシュカは答える。


「人によっては運命と見るでしょうが、でもこれは私自身が答えを出したものです」


 マリーは沈黙した。自分に答えを見つける自信がないからだ。ヨシュカは前世の記憶と現実の差に打ちのめされながらも、差し伸べられた手を取り、自身の足で歩き始めた。だからこそ、今の地位がある。対してマリーのこれまでの人生は、領主である父の采配ひとつで決められ、流され、心を揺さぶられ、今も決闘の結果をただ待っている。


「私は、古い記憶に足を引っ張られています。この帝国で女性として生きるには、女性の権利を主張できる社会を知る記憶はただの足枷です。この記憶を捨ててしまいたい」


 つながれた二人の手の上に、涙がこぼれた。マリーは続ける。


「私にはどのような運命が待っているのでしょうか。今、私は周りに流されて生きています。私には流れに抗う力はありません。私も男であれば、この帝国で自分の足で立つことができたのでしょうか」


 体も心も強い男であれば、どんな運命でも、例え傷ついても、自分で納得して人生を切り開いていけるのだろうか。


「貴方には人生の目標、夢がありますか」


 ヨシュカがマリーに優しく問いかける。


「いいえ。目標や夢がないのは、悪ですか?」


 ヨシュカが静かに首を振った。


「しかし、貴方が男性として生まれても、今の貴方の心のままでは同じ結果でしょう」


 マリーは答えられなかった。


「成し遂げたいことが見つかれば、人生は苦しくとも豊かになります。また、成し遂げたいことがなくとも、集団に属せば大なり小なり、その中での役割が生まれます。それを生きがいにすることもできます。しかし貴方は、カレンベルグ家の息女としても、フィアーツェン領主の妻としてもその課せられた役割に心が満たされなかったようですね。それは残念ながら、前世の記憶がなくても同じでしょう。前世の記憶は単なる知恵でしかありません。それを御するのは貴方自身です」


 マリーはまだ沈黙している。納得していないかのようだ。


「人は、敢えて、『人は』と話しますが、運命や人生、神などよくわからない、大きなものに魅了されます。そしてわからないにもかかわらず、自身の不安を委ね、意味を求めようとします。それは自然なことです」


 マリーは少し微笑んだ。


「司教様が、神様をよくわからないものと仰って良いのでしょうか」


「今のは、少し、前世の私の主観が混じっています。まぁ、でもそういう風に考える聖職者がひとりくらいいても良いでしょう」


 ヨシュカは少し慌てた様子で、付け加えた。その様子がとても穏やかで、マリーは見ていて心地よさすら感じた。


「人は大きなものに頼りすぎると思考を停止させてしまいます。貴方は今、『運命』に依りすぎていませんか。貴方が貴方だけの人生を歩むには、自身を見る目と、世界を見る目を育てなければいけません」


「自身を見る目と、世界を見る目?」


 ヨシュカが頷いた。


「言葉の通りです。誰にも振り回されず、自分が好きだと言えるもの、自分の心を動かすものを探してみてください。それさえあれば、例え心が傷ついても、癒すことができます」


 ヨシュカは真っすぐマリーを見つめる。


「世界を見る目とは、世界を受け入れるための自分の考え方を知ることです。例えば、貴方が道で転んだときに、その理由をどう考えますか。注意が足りなかったのか、神様が警告したのか、その道路環境が悪かったのか」


 マリーは想像した。自身の失敗に悪態をつきながらも、自分なら神様が授けた試練だと考えると、胸がすくように思う。


「同じ世界に生きていても、世界を見る目が人によって違うのです。それは、想像以上に、まったく違う世界ですよ」


「それでは、人は相容れないじゃない」


「だから、争いが起きるんです」


 マリーは言葉を失った。


「その人にとって、見ている世界が『正しい』と信じていますから」


「皆同じ目で世界を見ることはできないの」


「人は、世界は、進化しないでしょう」


 進化なんて。


 マリーは深い溜息をついた。昨夜経験した争いで、人の正義と正義がぶつかった戦で、世界が進化しているとは到底思えない。ただ、人が傷つき、壊されるだけだ。


「貴方はどんな世界を見たいのでしょうか」


 マリーはその言葉を聞いて、思わず目を閉じた。しかし、それでは何処にも行けないだろう。何を見たい、何処に行きたい、どう生きたいのか。考えを巡らせる過程で、マリーの瞼の裏に浮かんだのは、活版印刷術で整えられた書物だった。


 静かに目を開けて、マリーは尋ねる。


「今、結論を出さないといけないのかしら」


「いいえ、自分が納得したときに歩み出せば良いと思いますよ」


 マリーは安堵したが、時間は待ってくれないようだ。外で歓声が上がり、マリーは馬車の窓に飛びついた。決闘が終わったのだ。


 マリーは急ぎ、ヨシュカに向き合い、もう一度手を握りしめ、言った。


「私は、本を読むのが好き。フィアーツェンでも本は読めるでしょう。けれども、私はマリア・アマーリエとして、一人の人間として、この世界の知恵と歴史と向き合いたい」


「そうですか。女性は書物を男性の許可なしに相続できます。本を読むだけでなく、貴方自身が書くこともできますよ。ナー王国には既に活躍している女流作家もいるようです」


 ヨシュカの言葉に、今日初めてマリーの胸に希望が、小さな灯のように宿った。しかし今生まれたばかりの夢を実現するには何をどうすればよいのか、少女にはわからない。


「私はどうすれば、」


 するとヨシュカは微笑んで「今、貴方が乗っているのは馬車ですよ」と告げると、扉を開けて外で待機していたイレーネと、一人の男性に声を掛けた。


「さぁ、君も待たせたね。イレーネは後で追いかけてくるというので、先に参りましょう」


 御者に代わって、馬の後ろに座したのはマリーの兄、テオだった。テオは気まずそうにマリーに向かって軽く会釈をする。顔や手足に治療をした跡があるが、元気そうだ。


「兄上、なぜ」


「彼は、ツァイムを追放されたのです。まぁ、仕える主君を裏切ったのですから当然でしょう。しかし、姫君の護衛にはちょうど良いですね。私は剣の腕はからっきしなので」


 そう言うと、馬が嘶き、車輪が重い音を上げて回り出した。合図もなく動き出した馬車にマリーがつんのめると、ヨシュカが肩から抱いて、座席へと戻す。


「私たちはどこへ」


「どこへでも」


 ヨシュカが窓に腕をかけて、遠くを見やる。


「司教様はどうするの」


「世界の進化を手伝います。見ていましたが、どうやら担い手は私しかいないようだ」


 マリーが視線を下げると、ヨシュカの膝の上には、聖書が一冊置かれていた。ずっとそこにあったのだろうか。


 馬車は、何処に向かっているのかマリーはわからない。しかし大聖堂も、可愛らしい家々も、まるで一枚の古びた絵のように平面的に見え、マリーは改めて「ここに私の居場所はないのだ」と悟った。



「さあさ、もうお休みの時間ですよ」


 夜になっても子供たちは、天幕を体に巻きつけたり、飛び跳ねたりして忙しく、一向に寝る様子がない。日中あれだけ庭や城を走り回っても体力が有り余っていて、すっかり興奮してしまっているようだ。


 乳母は溜息をついてベッドに腰かけると、いつの間にか下の子供が一冊の本を手にしていて、乳母の視界を塞ぐようにして目の前にそれをかざした。


「ねえ、ゲルダ。これを読んで」


 文句を言いながらも顔から本を引き剥がし、その表紙を見ると、乳母の表情は自然と和らいだ。おそらく子供たちも、これを渡すと叱られずに済むと理解しているようだった。


 大きなベッドに、小さな二人がもぐりこみ、乳母の言葉に耳を傾ける。内容は幼い二人にはまだ難しいが、母と同じ言語は子守歌を聞いているように聞き心地が良かった。


 寝息を立てる二人の寝相を直し、乳母はランプの火を消した。手には『選帝侯マリア』と書かれた本が抱かれている。


「私の天使たちはもう夢の中かしら?あら、またそれを読んでいたの?」


 寝室から出てきた乳母に、領主夫人が声をかけた。懐かしそうに本を手に取り、団らん室へと乳母を誘い出す。


「マリーも不思議な物語を書いたものよね。過去の話なのに、まるで自分がこれから大司教になるかのように書くなんて」


 乳母は困ったように相槌を打つ。


「過去にさかのぼって生まれ変わるなんて、現実にはありえないから物語なのでしょう」


 領主夫人は「それもそうね」と笑うと、妹を想いながら窓から見える星空を見上げた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

亡国のマリア 豆ばやし杏梨 @anri_mamemame

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ