第2部 第34話 最後の騎士

 マリーはイレーネを連れて、執務室の長椅子に座っていた。横にはもちろんリヒャルトが控えている。


 本来、女性が執務室や公的な会議の場への立ち合いは禁忌だが、話し合いに必要な人物としてマリーたちの入室を、ウルリッヒは特別に許可していた。マリー自身も、母の様子も気になるが、父のことだから昨晩の内に領邦内の別の集落に避難させているかもしれないと考え、リヒャルトと共にいるほうを選んだ。


「フィアーツェンの様子は?怪我は?」


「ああ、大丈夫だ。今頃、父上は皇帝軍と酒盛りをしているよ」


「酒盛り?停戦したお祝い?」


 リヒャルトの言葉を聞いたウルリッヒは、歯を見せながら大声で笑った。


「まさか、本当に実行するとはな」


 マリーとリヒャルトは二人、不思議そうに顔を見合わせたが、それ以上は聞かないようにした。執務室の窓から見える練兵場の様子を、ウルリッヒが嬉しそうに眺めていて、邪魔をしてはいけないように思えたからだ。


 リヒャルトが話したフィアーツェンの様子に、クラウスも衝撃を受けていた。真面目一徹のアインホルン家がよりよって敵が振る舞った酒に溺れ、戦を放棄してしまったなんて、不名誉であり恥でしかない。皇帝の耳に入ったら、確実に首が飛ぶだろうと青ざめていた。


 リヒャルトはその様子を見て、慌てて改めてフィアーツェンの様子を説明した。


「勅令の施療院での不当収容が誤解だと判明したのです。そこには戦に巻き込まれて傷ついた人々しかいません。これは仲介人であるルクセン領主司祭も見届けております。そのためフィアーツェンを攻め入る理由がなくなり、停戦となりました。まぁ、その後、父上の提案で、飲み比べで勝敗をつけようと、」


 口ごもるリヒャルトに代わり、カールがクラウスに語りかける。


「クラウス殿、そもそも陛下はこの挙兵でアインホルン家を失脚させるつもりだったんだ」


「どういうことでしょうか」


 その問いに答えたのは、ウルリッヒだった。


「陛下がどのような話をして、出兵に踏み切らせたのかは知らん。しかし饒舌な陛下のことだ。謹厳実直なバナンなら、すぐ丸め込まれるだろう。戦費の金庫番で、直下軍の実権を握るアインホルン家は、諸外国との戦争を続けたい陛下にとって煙たい存在だ。もしこの挙兵が失敗すれば、アインホルン家の失策として責任を取らせることができる。反対に勝っても陛下の直下領と財が増えるので、陛下にとっては都合の良いことしかないのだよ」


 クラウスは「そんなことは」と言いながらも有り得ない話ではないと考えていた。フィアーツェンへ囮として向かった皇帝直下軍は、アインホルン家に忠誠を誓う老練の騎士が多い点は気にかかっていたのだ。ふと、皇帝に向けて最敬礼をする父の姿が蘇る。あの時、陛下はどのような表情をしていたのだろうか。


「そんな、しかし、陛下は騎士を想って」


 クラウスは必死に抗った。皇帝に直接語りかけられた言葉と、ウルリッヒの話の二つの間で揺れて、身動きが取れない。ウルリッヒは哀れな若者を諭すように続けた。


「ただし、アインホルン家の失脚は内乱の一面でしかない。陛下は内乱を契機に、王家となって国をつくりたかったのだろう」


「帝国はもう国を成しているのでは?」


 リヒャルトが聞き返すと、領主は頷いた。


「領土拡大と縮小を繰り返す帝国は、隣国との境目が非常に曖昧だ。さらに皇帝は教会の権力なくしては存在できない。陛下はナー王国のように、血族の正統性をもって人々と教会の上に君臨しないと今後は立場が危うくなると考えたのだろう」


 領主は続ける。


「火縄銃を持てば農夫も兵となる。となれば、領邦国家制度において経済的に自立している領邦から、帝国からの独立を求める声もじきに上がるだろう。民衆の里心は領邦にある。決して陛下の帝国にはない」


 そして、ウルリッヒの次の言葉がクラウスの忠誠心に止めを差した。


「まぁそれでも陛下の心はまだ隣国にあるようだ。先ほど、密偵がきた。陛下は教皇の提案で対南同盟を隣国と結び、合同軍の残りと皇帝直下軍を率いて南へ進軍したらしい」


 クラウスは言葉を失った。ウルリッヒの言う「南への進軍」は、合同軍挙兵前に取り付けた南との三年間の休戦協定を破り、進軍したことを意味していた。長い歴史の中で、各国からの侵略を受けた南部の半島は、小さな公国や王国が乱立して、かつての政治的な統一性が失われており、帝国を含む各大国が目をつけていた。


 皇帝は二度目の自身の婚姻を捧げ、南西のモーディッシュ公国の嫡子と縁を結び、侵攻の足掛かりとしたが、その公国のさらに南の王国の「正統な継承権」を掲げるナー王国が前に立ちふさがっていた。皇帝の戴冠式を教皇領でできなかった原因も、このナー王国の妨害が関係している。


 表向きには休戦協定を結び、婚姻関係を結んだ南西の公国への不可侵を約束したものの、侵攻と戴冠の二つを邪魔された皇帝の怒りは収まらなかったようだ。挙兵の妨げとなるアインホルン家と、古き志を持つ「騎士」の精鋭たちを帝国内に留まらせ、皇帝自身は「銃を持たせれば兵となる」健やかな軍隊を引き連れて、新たな戦へと出てしまったのだ。



「しかし、陛下の、命を受けて、」


 声を絞り出しても、言葉が出てこない。ただ、皇帝の裏切りを理解したクラウスはこれ以上の言葉を継げなかった。そして皇帝の言葉に胸を打たれ、「最後の騎士」という言葉に踊らされていた自分を恥じた。


「そこでだ。ひとつ提案したい」


 ウルリッヒは、沈んだ空気を払拭するように大きな声でクラウスに語りかけた。


「陛下から賜った命であれば、領地はやれんが、大司教なんぞくれてやろう。いなくなったところで清々するだけだ。他の領地にも働きかければ、汚職に手を染めた司教をあぶりだして追放できるだろう。それでバナンの首をつないでやれ。あれは、皇帝直下軍唯一の良心だ、失ってはならん」


 すると影に潜んでいた一人の男が、ウルリッヒの発言に便乗した。


「清廉潔白な選帝侯のおわすルクセン領も手を貸しましょう。こちらの息のかかるところであれば、大陸の北半分を一掃できます」


 男はマリーと目が合うと、懐かしそうな眼差しを向け、深々と頭を下げた。マリーもつられて頭を下げるが、その顔に覚えがなく、つくった笑顔がぎこちなくなってしまった。


「その寛大な御心に、御礼申し上げます」


 クラウスは、ウルリッヒに跪いて、感謝の意を述べた。足元には数粒の涙が落ちている。


 その様子を見てウルリッヒは満足そうに見つめてから、カールに大聖堂で大司教を捕えるように指示を出した。カールが足早に執務室から退出すると、もう一度クラウスのほうを向いてから、顎髭をいじりながら悪戯な表情を浮かべて、こう切り出した。


「そういえば、マリーを妻にするという話をしていたな」


 クラウスは赤面して「いや、あの、申し上げました」と小声で返した。その返答にリヒャルトが思わずマリーの顔を見ると、マリーは「誤解だ」と言わんばかりに首を横に振る。


「リヒャルトはどうだ?」


 ウルリッヒの挑戦的な視線に、顔を強張らせつつも夫は即座に返答する。


「マリーは私の妻です」


 領主は小さく頷き、そしてこう言い放った。


「では、決闘をしなさい。貴殿らは騎士であろう。格好の舞台を用意してやるから、一対一で決めなさい。なんなら、この戦の勝敗をそれで決しても良いぞ」


 ウルリッヒの軽口に、その場にいる者は全員、声をあげた。誰よりも、決闘する二人がこの急展開に、互いに目を合わせて呆然として二の句を継げずにいる。


 領家最高権力者を糾弾できる嫡子カールも、親友のホルガーも、最愛の妻もこの場にいないのだから、ウルリッヒの暴走は続く。


「さぁ、二人ともどうする」


 領主の問いかけに、これまで弱気だったクラウスが闘志を見せた。


「望むところです。フィアーツェンよりも由緒正しきアインホルン家がマリー様に相応しいでしょう」


 慌ててリヒャルトが、体を乗り出す。


「剣を取り、妻への真なる愛と、妻の故郷に勝利をもたらしましょう」


 若い二人を見比べて、ウルリッヒは両者の肩を叩いて激励した。


「それでこそ、最後の騎士だ。互いの剣を懸けなさい、そして婦人の心をつかみ取るのだ」

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