最終話


「お母さん、確認してほしい荷物を持ってきたよ」

 総合病院の一室に、娘が大きな紙袋を抱えて、見舞いにきた。

「ああ、ごめんねぇ、お母さんがこんな状態だから」

「いいの、まずは治そう」

 駒込に退職届を叩きつけて、新天地で生活を始めて早20数年。事情を隠し、夜職で蓄えた貯蓄を元手に女手ひとつで子どもを育てるために、必死でくらいついて30年近くか。その苦労が祟ってか、まぁ若い頃から体に良くないことばかりをしてきたからか、60近くになって倒れてしまった。

 決して平穏とは言えなかったが、それなりに娘と信頼関係を結ぶことができたおかげで、彼女は病室に見舞いに来てくれている。それに退院したら、孫も含めて女三人で暮らそうとなんて提案をしてくれたのだ。こんなにありがたいことはない。大袈裟かもしれない。でも彼女の存在だけで、自分の人生が救われた気がした。

 ベッドに備え付けられた可動式のテーブルに、娘が紙袋から一つずつ荷物を出していく。引っ越しに向けて娘が私の荷物を整理してくれているが、その中で確認が必要なものを持ってきてくれたらしい。公的な書類や貴重品といった類はわかるが、ガラクタが混ざっていて思わず吹きだしてしまった。

「人の大切なものってなにかわからないじゃない。私にはガラクタでも、お母さんにとっては大切なものかもしれないでしょ?」

「あんた、そんなこと言ってたら全然片づけ進まないでしょう」

「そうなのよ!だから、早く元気になって一緒に片づけよう」

 そうね、と笑いながら私は改めて「ガラクタ」たちを見てみた。おもちゃのようなアクセサリーなど懐かしいものもあれば、中にはなぜ購入したのか忘れてしまったものもある。年には勝てないとこの時ばかりは思う。いる、いらないと、机の左右に愛おしいガラクタたちを分けていくと、一台のスマホで手が止まった。

「これ……」

 東京にいたとき、駒込から渡されたものだ。

「お父さんとの思い出のもの?」

 娘は、タクトの顔を知らない。そりゃそうだ、タクトは私の策略にはまって逮捕されたのだから。今どこで何をしているのかまったくわからない。

「うーん」

 どう答えようか悩みながら生返事をする。そういえば、『悪魔の湯』はどうなったのだろうか。ちょうど20年前の今頃の時期、下水道使用料の一部未払いが発覚したことがニュースに取り上げられたが、その後、特に責任者の処分や営業停止といった報道がなかったため、時限爆弾の不発に肩を落としたものだ。遅延損害金を含めると1億3,000万にものぼったらしいが、駒込が払ったのだろうか。

 当時、私は『悪魔の湯』を辞める前に温泉水事業を立ち上げ、その設備工事と併せて地中の配管に違法工事を施したのだ。それは上水道に付いた取水量を量るメーターを迂回する形で別の配管を取り付ける工事で、申告する使用量と実際の取水量に違いを出す目的で行った。伊達に長い年月を夜職で過ごしておらず、そういった目を瞑ってほしい工事を請け負ってくれる業者の伝手はあった。運営資金の虚偽申告ともなれば違法性が出て営業停止処分となると睨んでいたが、「払ったならよし」とする役所は随分と日和見主義のようだ。

 時限爆弾を設置し終えた当時の私は、怯えながらも退職届を出すと、駒込は意外にもすんなりと受け入れてくれた。しかし気になる発言をしていたのも事実だ。

「すべてをゼロに戻し、私はこの子と生きます」

 ふむ、と駒込は頷いた。

「もう、台詞だ。今更、引き留めるような無駄はしない」

 借りていたスマホを返そうと艶塗装されたマホガニー材のデスクの上に載せると、駒込は見向きもせずに言った。

「それはお前さんの魂だと言ったろう。持っておけ。心配はせんでいい。こちらからは連絡しない。腹の子ともがき、その命を燃やして、生きてみろ。どこにいたって、お前さんの魂は私のものだ」

 どういう意味なのか、今でもわからない。

 けれども当時、これで最後だと思って気が緩んだのか、私は安易に質問をしてしまった。

「お客さん、食べちゃったの?」

 すると、駒込の目の色が変わった。ヘビのような、捕食者の目。

 私は後ずさりし、結局答えを聞かずに逃げるように事務所を出た。そして無我夢中で持ってきたスマホからSIMカードを抜き出して、足で踏みつけて割った。これでもう、終わりだ。そう思っていたのに。

 愚直にも当時のスマホを持ち続けている自分が滑稽に思えて、ふっと息を漏らす。当時を思い出してなんとなしに電源を入れてみると、画面のバックライトがつき、「Welcome Back!」と浮かび上がった。そして、すぐさま画面右上に表示される電池残量が減った。30年以上も経っているのだから、電源が入ったのだって奇跡なのだ。

 そんな風に懐かしがっていると、突然、頭の中に当時の駒込の言葉が浮かんだ。

(それはお前さんの魂だと言ったろう)

 なぜ今それが思い出されたのだろう。もしかして私、何か忘れてる?

 画面の電池残量が点滅を始め、まるでカウントダウンみたいだと思った瞬間、ようやく私はすべてがつながり、駒込の言葉を理解した。

「アジャカモクレン……」


おや、ここに随分短くなって今にも消えそうなロウソクがありますね。

そりゃお前ぇのだよ。

え?

お前ぇの寿命だよ。

え、だ、だってこれ、今にも消えそうじゃないか。

消えそうだな。消えた途端に命はない。あんた、もうじき死ぬよ。


「あ……ああ……」

 全身が粟立ち、スマホを持つ手が震える。落語の『死神』で、人の寿命はロウソクの火に例えていたが、現世ではロウソクなんて緊急時以外ほとんど使わない。暗闇で道を照らすために人が使うのはスマホのバックライトであり、人の寿命は、私の魂はこのスマホの寿命と共にあるのだ。

「お母さん?」

 充電器はどこ。机の上、紙袋の中、ベッドの上、ない、ない。いや、そもそも充電器なんてもらっただろうか。混乱してうまく思い出せない。


「消える。電池が……火が……」

 消えてはいけない。まだ、消えてはいけない。


「お母さん? 火なんてないよ」


(消える、消える。死ぬよ、死ぬ。お前の魂は俺のものだ)

 頭に響く駒込の声がうるさい。

 あと何秒? どれだけ残ってる?


「ああ、消える!! 待ってほしいの!! 駒込!!」

 いい娘なの。退院したら、可愛い孫と住むの。


「消えちゃう!! あああ」

 魂があればまた会えるよ。

 じゃあ、魂を食べられたら?


 教えて、ママ。

 私は娘と孫にあの世で会えないの?あなたに会えないの?


「ああ、楽しみだ、お前の魂はどんな味だ?」


「まだ」


 黒い画面に私の顔が映った。



 ほら、消えた。







「……まずい」


 私は駒込の声で、目を開けた。起き上がって辺りを見回すと、いつぞやの事務所の応接用のソファで寝ていたことがわかった。

(助かったの? でも、ここは……)

 かつてのように駒込が対面のソファに座っているが、そのテーブルの上には整然と皿やらカトラリーらが並べてある。食事中だったのだろうか。

「い……っ」

 突然、胃のあたりが焼けるように痛くなり、お腹を抱えるようにして悶えた。胃なのか、痛みが強くて、脂汗が額に浮かぶ。あの日のようにすえた臭いが、自分の体から立ち上ってきて、気持ち悪い。髪もべたべたしている。

「ああ、すまん。自分でした例え話が言いえて妙だなと思い、初めてフォワグラの代わりに肝臓をいただいたのだが……肉体のほうは、やはり好かんな。それにしても、お前はまずい。お前さんの収穫時期をいつなのだろうな?」

 駒込がナプキンで口元を拭きながら、ブツブツと自問自答をしている。何を言っているのだろう。

「ああ、お前さんは肝臓を患っていたのか。どうりで。ふん、当然の話だな」

 駒込の言っていることがわからない。どういう意味なのか考えようとしても、痛みが邪魔して思考がまとまらない。娘は?孫は?

「ということで、お前さんにはもう一度人生をやり直してもらう。もう一度、私との出会いからやり直して、今度こそ心身共に健康で幸せな人生を歩んでくれ」

「はい?」

「それでだな。、お前さんに前回の記憶を持たせることにした。そちらのほうが気持ちの振れ幅が大きくなろうだなと思って。まぁ、私も試行錯誤中なのだよ」

 ああ、そうそうと思い出したように、駒込は続ける。

「人間の肝臓っていうのは、どうやら再生するらしいぞ。良かったな。まぁ、一口分欠けただけだ。それにお前さんの体はまた20代に戻っているからな。回復は早いだろう。もう、体は覚えているはずだ」

 その言葉に、私は視線を落とした。あの日と同じ、50代後半の私にはもう着ることができないはずのミニスカート。脚を半分以上出すのが当たり前だったキャバクラ時代の日常着。

「な、もう一度って、娘は、孫は……」

 駒込はこともなげに言う。

「もう一度この人生でつくれば良いだろう」

 目の前が真っ暗になり、ようやく理解した。私は、私の魂はもうあのとき、いつが最初かわからないが、あの歌舞伎町の夜に「買われた」のだ。市場に並ぶ新鮮な魚介のごとく、八百屋に並ぶ野菜のごとく。食べられているのは指名客だけでない、私もだったのだ。

 しかもどうやら、私の魂は何度も人生をループしているようだ。人生の山を登り谷を下り、そしてガチョウのように絶望も希望も口に詰め込まれるのだ。駒込が納得する味になるまで。

 絶望。

 これ以上に明確に今の状態を表す言葉はあるだろうか。おじいちゃんが死んだときも、母親に捨てられたときも、タクトから暴力を受けたときも、体中の水分が枯れるまで泣き、悲しみに暮れた。あのときは、私なりに絶望していた。

 しかし、真の絶望というのは自分自身の魂が崩れ、火が消えていくようだ。

 娘は、孫は、私が抱いたあの子たち以外にいない。同じ顔、同じ表情、例え同じ魂を有していても違う存在なのだ。

 痛い。

 一口分の体積を失った内臓が脈を打ち、わざわざ、命の存在を教えてくれている。それが、なんともうざったかった。

 どんな目をしていたのか、自分でもわからない。しかし、駒込は私と目が合うと、初めておかしそうに笑って、こう言った。

「すまんな、悪魔は完璧主義者なんだ」


~終~

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