第3話(全4話)

 へっへっへ、ありがてぇありがてぇ。

 やっぱり人間てぇものは苦しいときは知恵が出るってぇ言うが。

 まったくその通りだね。


 タクトが私の家に住むようになってから、早半年。結局ホストクラブから解雇されたタクトは、精神クリニックと『悪魔の湯』に通うことを条件に、我が家専門の警備員と転身した。だんだんと餓鬼が噛みつく位置が首元から腕へ、腕から腹へと下に移動していくのを見ると、タクトの精神状態が落ち着いていくのがわかる。ただ、彼は就職なんてもってのほか、パチンコ以外で自宅から出ようとせず、貯金が底をつくとお小遣いを無心してくるようになった。

 投資しているわけでもないのに、せっかく貯まってきた金が目減りしていくのを見るとイライラする。もういっそのこと追い出してしまいたいが、意を決して口に出そうとすると、これ見よがしに餓鬼がじりじりと登ってくるのだ。首元を見据えて。

 二進も三進もいかず、不眠症が再開し始めたころ、ひとり、そしてまたひとりと夜職の常連さんの足が遠のいているのに気が付いた。いくら催促のメッセージを送っても既読がつかないのだ。

「最近お客さん少ないですね?」

「枕はもういいんですかー」

「今日もお茶が進みますね」

「もう、その体、飽きられたんじゃない?」

 畜生どもの鳴き声をBGMにスマホの画面とカレンダーを見比べながら、計算をしてみると、やはりこの2ヵ月で3人の本指名が来店していないことが判明した。自然と足が遠のいたのなら良いが、何か胸騒ぎがしてならない。

 それぞれの名前で検索をかけてみると、地方局が運営するニュースサイトにヒットしたので、祈るような気持ちで記事を開く。


『〇〇株式会社役員・宇田川博さんが13日、心不全で死去した。享年48歳。……都内の病院に搬送されましたが、13日午後、亡くなったということです』


 地元の名士だったようで、指名の訃報は全国区ではなく地方局で取り上げられていた。

(心不全)

 嫌な予感が当たったのだろうか。他の指名客を調べるのが怖くなって、スマホの画面を暗転させると、黒い画面に自分の顔がぼんやりと映り込んだ。

(悪魔の好物は人間の魂)

 駒込の低い声が頭の中で蘇る。あまりに唐突な話なので当時は受け流していたが、もし本当に駒込が悪魔で、自分が誘い込んだ客が元気になったタイミングで食らっているのだとしたら。

 荒唐無稽な話で、普通に考えたらありえない話だ。宇田川さんは本当は持病があっただけ、他の2人ももしかたらただ自分の接客に嫌気が差して、他店に移っているだけかもしれない。他でもっと可愛い、若い嬢を見つけたのかもしれない。そちらのほうが現実的だ。

 でもあの日から見えている餓鬼が(よく現実を見ろ)と警鐘を鳴らす。

 私はもしかしたら、とんでもないことに巻き込まれたかもしれない。


「7週目ですね。おめでとうございます」

 区の助成を使って子宮頸がん検診に訪れた産婦人科で思いがけない奇跡が判明した。思わず、自分の下腹部に手を伸ばして、わかるはずもないのに自分とは別の鼓動を感じようと手で覆ってみる。

 産婦人科から出た後も、ほとんど黒い、豆粒の子どもが写ったエコー画像を見て茫然とした。これまで子どもが欲しいなんて一ミリも思ったことはなかった。避妊もしていたし、なぜこの子がここにいるのかもよくわかっていない。「妊娠した」と実感が湧くのはいつなのだろうか。少なくとも今ではない。いや、どうだろうか。

 頭の中を様々な現実(夜職の出勤とか、無職の父親とか、毒親の記憶とか、失踪した指名客とか)が横切っていくが、どれもこの子には無関係なように思えて、それらを理由にこの子を疎むのは人間としておかしいように思えて、涙が溢れ出てきた。15年前に出て行った母親も、一瞬でもこんな気持ちを抱いたのだろうか。

 ああ、こんなときにあんなくそみたいな母親を思い出すなんて。

 悔しくて奥歯を噛む。けれども。

 これまで母親に再会したらどうしてやろうかと恨みつらみを募らせていたが、あの母親が一瞬でも豆粒の私を愛おしいと感じたと想像したら、なんとなく心が動いた気がした。

(そうか、私はこの世に形を持ったときに既に復讐を完了していたのか)

(お前は一瞬でも、この小さな生き物を愛したんだ、馬鹿野郎)

(私はお前と一緒の過ちを犯した。でもお前とは同じ道を行かない、ざまぁみろ)

 見上げると灰色の雲が空を覆っていて、昼でも薄暗い。万事うまくいくとは限らないし、愛情なんて24時間営業なわけないことはもう知ってるし、この先も失敗と妥協と後悔を繰り返していくのだろうが、それでも構わない。

 目に入った靴の小売店で、適当にフラットシューズを買って履き替えると、気持ちがより固まった気がした。

 そうと決まれば、まずやることを整理しなければいけない。

 帰宅すると、タクトはパチンコに向かったようで、ダイニングテーブルの上にはカップ麺の食べ残しがそのまま置いてあった。タンタンメンだったようで、赤い水滴が白いテーブルの上についており、急いでシミにならないように水拭きをする。

 銭湯も夜職も休みを取っていたので、PCを開いて、近年起こった銭湯での不祥事や事件をくまなく調べてみる。

 レジネオラ菌の基準値超え検出での営業停止。

 下水道料金の未払い。

 利用者によるサウナの危険温度設定。

 不同意猥褻。

 LGBTQ+関連などなど。

(さて、どれが最適解か)

 このところアカリの指名客はさらに4人音信不通になり、覚悟を決めて検索をかけたところ、内2人が同じ心不全で亡くなっていたことが判明した。駒込がどのタイミングでお客さんたちを捕食しているのかは不明だが、いずれにせよ『悪魔の湯』が接点には違いないので、まずは銭湯自体を営業停止に追い込もうと決めていた。が、お客さんに被害を与えるのは長年客商売をしていた身としては気が引けるので、どんな手段を取るべきか悩まされていた。

 「銭湯 営業停止」で検索し直したとき、一本のメールが届いた。

 天然温泉の輸送サービスを案内するダイレクトメールで、駒込も興味を持っていたサービスだ。どうやら全国の温泉地からタンクローリーで温泉水を毎日届けてくれるらしい。都会の中で天然温泉に入れるのは店として売りになるが、なにせ貯水槽だのそれに伴う配管工事などで設備費が多額にかかるため、一度見積りを出してもらって以降、話が頓挫していた。かつて営業不振に陥っていた銭湯を買い取ってリニューアルオープンして初期投資はまだ抑えられているほうだが、当時は黒字化できていなかったため、新たに借金を増やすのは得策ではないと判断された。

 しかしこの話をもう一度机上に戻す機会が訪れたのかもしれない。夜職用のスマホを取り出して、メッセージの一覧から目当ての人を見つけると、簡単なテキストを打ち込む。頭の中で工期の計算をしてから、ブルーライトをしこたま浴びた目を瞑り、一息ついてから黒いエコー写真をバッグから取り出した。今日初めて会った相手なのに、なぜここまで心が惹かれるのか。

(時限爆弾を仕込むのにも時間がかかる。もう一手が必要だ)

 玄関口から鍵の開く音がしたので、タクトに見つからないように、急いで写真をバッグの中に隠した。その反射的で本能的な自分の行動を冷静に見つめると(ああ、やっぱりな)と、自分の心にある想いに気付いた。

「……ちっ、帰ってたのか」

 人の顔を見るなり、舌打ちするのはやめてほしい。

「あ、うん、そっちも早いね」

 明らかに不機嫌なところを見ると、どうやらパチンコで負けたようだ。その現実を突くような返事がまずかったのか、タクトは壁を拳で殴ると「うるせぇよ」と吐き捨てて、また玄関へと踵を返した。振り返ったときに遠心力で肩から落とされた餓鬼が慌ててタクトの後ろ姿を追いかけている。

 今更そんな威圧的な態度を取られても、何も感じやしない。むしろ気持ちが固められるので、ありがたいとさえ思う。

(やっぱり、まとめて片づけたほうがいいな)

 陳腐な思い付きだけれども、やっぱりこれが手っ取り早いだろう。酒専門の通販サイトで夜職が好きそうなシャンパンやら缶ビールなどを大量に発注し、タクトの名前を使った即席のDMを彼の元・同僚や『ラビリンス』の女どもにばらまいた。

 本人には帰宅したときに、伝えればよい。派手なことが好きなタクトのことだ。自分の名前を冠に「感謝祭」と称して、銭湯の貸し切りイベントを催せば、自尊心がくすぐられて当日までご機嫌でいてくれるだろう。

 もう一度黒い写真を取り出すと、そういえば笑顔で向き合ったことがなかったことを思い出し、口角を上げて我が子に語り掛けた。

「大丈夫、あなたが生まれるころにはすべて終わってるよ」


 *


『「悪魔の湯」東京・歌舞伎町で、サウナ内で放尿する様子を撮影し、SNSで拡散したとして、12月4日、住所不定の元ホスト・曽田川拓斗(26)他、4名が逮捕された。

……

報道によると、事件があったのは10月31日のハロウィンの日。曽田川容疑者が主催した貸し切りイベントに、元同僚である現役ホストらが参加。ライブ配信アプリで、飲酒しながら入浴時の様子などが公開されて、事件が発覚。同店の従業員らがクレーム対応などに対応後、新宿署に被害届を提出した。また当時、催しには女性も参加し、店内での同意なきわいせつ行為があったと告発もあり、今後警察は余罪を追及する方針だ。』


 自分で通報したとはいえ、やはり世間のニュースに取り上げられると愉快だった。すっかり荷物が片付いた伽藍洞の部屋で高級ブドウジュースのボトルを宙にかざし、そのまま直飲みをして祝杯を上げる。男のものはすべて処分して、大型の家具や荷物は新居に運び出しており、これから大家に鍵を渡すだけだ。夜職で稼げるようになって手に入れた自分の城にはそれなりに愛着があったが、男を招き入れてからの記憶が濃くなると、最終的に処分リストのトップに挙げてしまった。

 夜職は引退した。昼職も後任の人を中途採用して、OJTも終わった。例の天然温泉水については、清掃作業に充てた休止期間中に片をつけたので、先日ちょうどリニューアルオープンと称して営業再開したところだ。しかし件の騒ぎもあり、休止前より客足は伸びず、苦戦しているらしい。

「あとは自分だけ」

 明日、退職届を駒込に出す。

 最後の清算となるが、それが何よりも、身震いするほど恐ろしかった。

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