第2話(全4話)

 だって金がねえってんだからしょうがねえ。

 豆腐の角に頭をぶつけて死んでしまえたら楽だったのになぁ。


 学もなくて、満足に食べられる日も少なくて、頼れる家族もいなくて。

 だから、高校を卒業した日に地元を飛び出して、その夜にコンビニで買った履歴書に殴り書きして、歌舞伎町の店舗に飛び込んだ。そうして入った夜の世界でのキャバ独特のタバコの行儀も、人格を破壊していく酒も、水面下で蹴落とし合う女性たちも、子どもだった私には何もかも刺激的だった。

 しかし、3か月前、自称・悪魔で見た目がヤ〇ザな駒込に拾われて、私、木下蓉子(源氏名:アカリ)は昼は銭湯「悪魔の湯」の広報担当、夜はキャバ嬢という二足の草鞋を履くようになった。

 12年、短命と言われている水商売でよく続いたほうだと思う。そろそろ次の段階に移らないといけないと考えていた矢先に、駒込に声をかけられたのは、「助かった」というのが本音だ。昼職を軌道に乗せれば、いつ夜職を辞めさせられても食っていける。

 深夜の閉店間際、ラウンジ『ラビリンス』では嬢と客がアフターについて熾烈な戦いを繰り広げていた。無給で奉仕したくない嬢V.S.嬢のプライベートを貪りたい客を構図に、互いの懐事情と時間を懸けて交渉を重ねているのだ。少し前までは、自分も酔いでうまく回転しない頭を必死に動かして、損益計算をしながら客の相手をしたものだ。しかし、今は違う。

「ねぇねぇ、このあとさ、一緒に行かない? サ・ウ・ナ」

 肩にそっと手をかけ、艶やかな谷を強調した胸を体に寄せて、耳元で甘い声を囁く。体重を移動させると、エンジ色の革張りのソファがギシッと小さく音を立てた。

 返事はなかったものの、照れ隠しで唇に寄せるグラスと、モゾモゾと動く男の脚を見て、今月もノルマが達成したことを確信した。この男にはは憑いていないようだが、まぁいい。

 初めて腹の膨れた小さな餓鬼を目にしたときは、黒光りのGを見たとき同様に、プロらしからぬ悲鳴を上げた。餓鬼は拳大くらいの小さな妖怪で、ぽこっと出ている腹以外は骨が浮き出るほど瘦せており、憑いた人間の体に歯を立てている(痛くないのか?)。どうやら前世犯した悪行のせいで、常に飢えと渇きに苦しんでいるようだ。初めてそういったスピリチュアルな類を目にして不安になったが、慣れた今、それはそれとして、餓鬼が金づるにしか見えなくなった。

 駒込の言葉から察するに、餓鬼に取り憑かれている人間は心が病んでいるようだ。私の足元にいないのが奇跡だ。足元ならまだセーフ、でも急所である首元まで登ってこられたら……ということなのだろうか。今はまだ出会ったことがないので深く考えずにいるが、出会ったら放っておくなんてできるのだろうか。

 アフターを利用して銭湯に誘致した客の数は、もう50人にも上っている。真面目に、昼職の営業をかけるのには理由がある。1つは、汚した駒込スーツのクリーニング代金が想像以上だったこと。そしてもう1つは、2つの仕事がうまく噛み合い、月収が増えたことだった。

 銭湯の給料はキャバクラと同じ歩合制で、客を銭湯に連れて行くほど、アカリの懐に金が入る仕組みだ。客に夜の大人な活動をちらつかせて銭湯へと誘致したとしても、客は広い湯舟につかってサウナで汗を流すと一緒に毒気が抜けてしまうようで、風呂から上がる頃には素面に戻り、健全に解散できる。アフターに銭湯という選択肢は、別行動で面倒がなく、風呂にも入れる、客の満足度が高くなるといった利点があった。駒込の言う「命の洗濯」ができているのかはわからないが、『悪魔の湯』につかると身体の調子が良くなると評判で、アフターに誘った客は順調にキャバクラ、銭湯どちらも良き常連となっていった。

「最近羽振りがいいですね?」

「枕でもやってるんですかー」

「いやいや、アカリさんの場合、おフロでしょ」

「どっちにしろ、体よ、カ・ラ・ダ」

 閉店後、更衣室で下品に笑う同僚たちには、心底うんざりさせられる。

 ドレスのファスナーを下ろしてそのまま足元に落とすと、ヌーブラを勢いよく剥がし、弾力のある乳房を揺らして奴らを黙らせる。色仕掛け、舐めるな。

 老舗ラウンジの支店として新しくオープンしたばかりの『ラビリンス』には、アカリを含め、外面が良いだけ内面ブスが揃っていた。いや、少し前まではどこの店舗で働いてもスタッフの尊敬と愛情を集める良い嬢がいたが、うっかり銭湯に連れて行って相談に乗ってしまったがために、夜の世界にさっさと見切りをつけて去って行ったのだ。おかげで、どんな環境でも他人を押しのけ、蹴落とし生き残るようなふてぶてしい女しか残っていない。

「アカリさん、ちょっと」

 店長がドアの向こう、廊下側から声をかけてきた。その呼びかけにバカたちが目を丸くして、コソコソと話し、嬉しそうに歯を見せる。

「うちが枕営業禁止って知ってる?」

 店長曰く、客の1人がアカリと寝たと吹聴しているというのだ。「アフターに銭湯」の結末は知っての通り健全そのものなので、そんな妄想を他人に話すバカが自分なりに愛情を注いできたお客さんの中にいるのかと思うと嘆息しか出てこない。しかし愛すべきお客さんたちを信じるのであれば、誰かが(おそらく後ろで覗き見をしているうちの誰かが)アカリを貶めようとしているのかもしれない。

「もちろんです」

 自分にやましいことなんて何ひとつない。まっすぐ店長の目を見据えて、毅然とした態度で答えたが、何百人もの女の嘘に付き合ってきた店長(45歳・既婚)は誠実にシビアだった。

「じゃあ、アフターでサウナに誘うのはもうやめてね」

 枕を匂わせるのも「店の品格を落としかねない」ため、NGという真っ当な理由ですっかり釘を刺されてしまった。

 腰から斜め45度に折れ曲がり、謝罪の気持ちを表したが、顔を上げるときにドアから覗き見をするバカたちの意地悪そうな笑顔が目に入って、気分が滅入った。

 腹立たしい。

 駒込も、ああいう馬鹿面を頭から食べてくれたらいいのに。ああ、でもそんなことをしたらあいつらの腰と尻についたデッカイ脂身で、駒込は胃もたれを起こしそうだ。そうしたら不機嫌な顔の皺が一層深くなってしまうかもしれない。

 骸骨のように生気を失い、苦しんでいる駒込の顔と、皿の上にだらんと口を開けて横たわる同僚たちを想像すると腹から笑えてしまい、再び店長の怒りを買うことになった。


「姫、おかえりーー久しぶりジャーン」

 階段を下りた先でちょうど見送りが終わったホストと目が合い、声をかけられたので、軽く会釈をする。気まずい。

 同じ町のホストクラブは、の関係であり、ここは自分にとって、休日、就寝前のルーティーンで訪れていた店だ。しかしここ数ヵ月は、昼間が銭湯の事務作業などに時間がとられて(結局仕事は広報だけじゃなかったってこと)睡眠時間が削られると、自ずと飲み歩きをしなくても自宅で自然に眠れるようになっていた。おかげで肌の調子が良いのは嬉しい。

 夜に突然訪れる漠然とした不安も、金が埋めてくれていた。しかしただ貯めるだけでは芸がないと感じていくつかブランドものを買ってみたが、結局満たされず、「遊ぶ金」の用途にはホストしか浮かばなかった。そこで久しぶりに担当のいる店にやってきたのだが、数ヵ月会っていないだけに多少は気まずく感じていた。

 案内された赤いベルベットのソファに座ると、駒込が音もなく現れて横に腰を下ろした。せっかくの休みに見たくない顔だ。

「なにしてんの」

「私はね、ここのオーナーなんです」

 慣れた様子で黒服を呼びつけると、即座に毒が入ってそうな緑色のショートカクテルが2杯、テーブルに運ばれてきた。ミントが香るブランデーベースのそれは、予想外の胡椒が効いていて、飲むと口が自ずとへの字になった。

「会いたかったよ~」

 甘い声をあげながら笑顔で席についた担当ホストは、両手を広げてハグを求めてきた。その顔に張り付いたような笑顔に違和感を覚えつつもハグに応えようとしたが、ハグをしてちょうど顔が収まるところ、首元に餓鬼が引っ付いているのに気付き、思わず後ずさりをしてしまった。

「どーしたの?」

 両手を広げたまま怪訝な表情で首を捻る。チラリと駒込を見ると、眉ひとつ動かさずにグラスを傾けていた。

 ハグに応える代わりに二の腕をポンポンと叩き、グラスを取る。

「ひ、ひさしぶり~タクト、どうしたの、顔色悪いよ」

「あー……わかる?」

 やがて店長が揉み手をしながら席に来ると、駒込は私に小さく「やめておけ」と忠告して、席を立った。そうは言っても。

 席を立つオーナーに、斜め45度の角度でお辞儀をして見送ったが、姿が見えなくなると途端にタクトは態度を変えた。足を組み、タバコを咥えると「火をつけろ」のサイン。

「お前がいないとき、大変だったんだよ」

 貧乏ゆすりで威嚇するのは、いつもの手。やはり3ヵ月も店に来てお金を落とさなかったのは、タクトにとって痛手だったようだ。何度も催促の連絡が来ていたのに返信しなかった自分も悪いが、ポーズとはいえ、会ったら会ったで不機嫌になられるのも面倒である。

 とりあえずヴーヴ・クリコの白を入れたが、機嫌は直りそうにない。どうやら、理由は別にあるようだ。

「メンヘラ女が飛んで、売掛金数百万がパー。せっかくランカーになったのに、逆戻りだよ。どーすんの?」

 延々と愚痴と悪口を聞かされているが、結局私から「変な女に頼らせてごめんね。やっぱり私が頑張らないと!」という発言を引き出すために行っているパフォーマンスで、これがタクト流のオラオラ営業スタイルなのだ。

「大変だったね」

 ポンポンと膝を軽く叩いて、落ち着けさせる。余計なことは言わないほうがいい。

 しかし、タクトはその手を握って、うなだれた。

「っつか、もう干されるから」

「どういうこと?」

「焦って、先輩の客、とっちゃった……」

 同じ店の他の同僚から客を奪うのは、ホストクラブでもキャバクラでも禁忌タブーだ。あまりの愚行に、開いた口が塞がらない。突然抱えた借金にパニックになったのだろうか。

「ねぇ、アカリ、俺と地元に帰ろうよ。仕事、疲れちゃったよ。前にさ、話してたじゃん」

 寝不足なのか少し赤らんだ目がすがるように、こちらを見つめている。

 タクトを担当に選んだ理由のひとつに“同郷”という点があった。逃げるように地元を飛び出したが、距離と時間を置けば、通り過ぎてきたなんてことない風景に、望郷の念にかられる。二度と踏み入れようと思わない、が、思いに浸るのは気持ちが良かった。

「俺、アカリと一緒にいたいよ、ずっと」

 前から思っていたが、この男は繊細すぎてホストに向いてないのではないだろうか。禁忌を犯したところでペナルティーを受けるか、勤務先を変えるかすれば良いだけだ。何も、駒込のような男に死の淵まで追いかけられるなんて劇的な展開が訪れることはない。

 タクトの申し出に応えられずにいると、ふと、首元の餓鬼と目が合った。目線を落とすと、今度はタクトの手首に傷痕が見えた。私の知らない、真新しいピンク色の真っ直ぐな線。

(首元に餓鬼がいる奴は手遅れ)

 いつも大袈裟に振る舞うタクトにはうんざりしている。でも。

 若いホストがタクトに耳打ちして、被り客の来店を告げる。薬指で目の縁をなぞっては涙を拭き、グラスを飲み干して立ちあがろうとするタクトの裾を掴んで、私は言った。

「外で話そう、ね?」

 タクトの口元が緩む。

 嗚呼、やっぱりこの男を見捨てる勇気なんて、私にはない。


 

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