ウェルカムバック!

豆ばやし杏梨

第1話(全4話)

 よし!決めた、死のう!

 ただ、どうやって死のうか。

 はっ、死ぬと決まったとたん、元気になって、しょうもない。

 死に方なんてわからないな、なんせ初めて死ぬんだから。


 吐き気とすえた匂いで起きる、多分、朝。

 頭に霞がかかってあまり意識がはっきりしない。脚と腕を反対方向に軽く伸ばし、体のあちこちに痛みを感じながらも、やっとのことで上体を起こすと目が眩んだ。良きタイミングで目の前に差し出されたコップに、何も違和感を抱かずに受け取ると、ろくに中身も確かめずに飲み干した。

「いい加減、シャキッとなさい」

 突然聞こえてきた低い声に、本能的に毛が逆立つ。

 コップを口から離して声のほうを向くと、一人の男が対面のソファに腰をかけていた。三白眼の細い目、サイドの髪もきっちり撫でつけたオールバック、痩せこけて尖った顎、シワひとつない国際ブランドのスーツ、そして袖元から覗く和墨の彫り込み。カタギではない。

「約束を忘れたとは言わせないぞ。ほれ、お前さんの名前は」

「……アカリ」

 約束ってなんだっけ。

「本名は」

「チッ、キノシタヨウコ」

 見透かされて、反射的に舌打ちが出てしまった。

「キャバ嬢だろ」

「そう」

 記憶が徐々に蘇ってきた。中学3年のときに母親が男と家出して以来、不眠症になった私は、夜は睡眠薬に頼るか、酒に溺れることでしか眠ることができなくなっていた。昨晩も歌舞伎町でひとり飲み歩き(いや、ナンパされて誰か連れがいたっけ?)、路地裏でつぶれていたところ、声をかけてきたのがこの男だった。

「粗末にするなら、その魂、私にくれないかね?」

 止まない吐気に、回る地球。生ごみと大量のペーパーナプキンがパンパンに詰められたゴム袋の上はなんと温かく寝心地が良いのだろうか。このまま私も生ごみと一緒に腐敗して、体液を垂れ流して、コンクリートに染み込みもせず、人の嫌悪に晒されるならいっそのこと、

「こんな命、くれてやるよ」

 男の胸ぐらを掴み、私は吐き捨てるように言った。いや、本当に男のスーツにブツを吐いてしまった。かみ砕き損ねたピーナッツや、昼から消化し損ねているきのこやらが悪臭を放って、足元に広がる。

 汚ねぇなと足を上げた瞬間、私はヒールのバランスを崩し、再びゴミ袋の上に倒れ込んだ。

か。これでは野良猫のほうがまだ美しい」

 意識が遠のく中、最後に男のため息が聞こえたのを覚えている。汚物と酒にまみれた女なんて面倒しか残らない。放っておいたほうが良いのに、それでもこの男は最低限介抱してくれたのだろう。改めて辺りを見回すと、なにか事務所の真ん中に置かれた、黒張りのソファの上に私はいた。目の前のコーヒーテーブルにはコップとペットボトルが並んでいる。

「私は、駒込と呼んでくれ。そして、早速だが、お前さん、SNSをやってるか」

 突然の話題転換に頭がついていかず、ポカンと口が開く。駒込は返答を促すように、顎を動かした。

「あ、やってる。営業とか、あと、パパ活やってたから」

 私が言い終わらないうちに駒込は立ち上がると、窓際にある、無機質な空間には似合わない、テカった木の天板が特徴のデスク(おそらくアンティーク)の抽斗ひきだしからスマホを取り出した。

「仕事のだ。なくすなよ、お前の魂と思え」

 無造作に放り出されたスマホを、なんとか両手でキャッチした。が、咄嗟の動きに二日酔いの体がついていかず、頭にキンッと痛みが走って、思わず顔をしかめる。

 ズキズキと痛むこめかみを押さえながら、渡されたスマホを見てみる。見たことのない型式だが、以前、店で使っていた韓国メーカーのAndroidスマートフォンに外装が似ていて、なんだか手になじみがある。

「なに、仕事すんの?」

 愛人契約を想像していただけに、私は肩透かしをくらった。

「そうだ。私のために働いてもらうよ」

 なんか、似た流れの噺を昔おじいちゃんと一緒に落語で聞いた気がする。死のうとしていた男が老人に仕事を教えられて、大失敗して、本当に死んじゃう話。いや、こんなんじゃなかったな。でも、なんて言ったっけ。

「アジャカモクレン、テケレッツノパー」

 駒込はハッと鼻で笑った。

「安心しろ、私は死神じゃない。美学を重んじる、あいつらとは違う。私は、ただ欲望に忠実な悪魔ってやつだ。まぁ美意識はあるがな」

 どこか自分の話に酔った風に、駒込はピカピカのネクタイを締め直した。悪魔だか、死神なんだか知らないが、魂とか美意識とか、大の大人が中二病を煩わせているのは、見ていて痛々しい。

 そういえばおじいちゃんが死んだときに母親と魂がなんちゃらって会話したっけ。死というものがわからなくて、まだその時はまともだった母親に聞いたんだった。

「死ぬってね、ずっと眠ってる感じかな」

「ママとあえないの?」

「ふふ……魂があれば会えるよ」

「ほんとう? よかったぁ」

 それが「来世で会えるよ」って意味だったことに気が付いたとき、もう母親は男を追いかけて姿を消していた。もう何年も会っていないし、探そうなんて思っていないから別にいいんだけど。

 突然思い出した昔の話に気持ちが腐り、駒込の困った発言にうまい返しを絞り出す気力もなく、とりあえずスマホの電源を入れてみることにした。立ち上がるとバックライトが点き、中央に「Welcome Back!」と表示される。

「え、ダサ」

 思わず口から出てしまった言葉を消すように、口元を手で隠す。幸い、駒込には聞こえていないようだ。

 このスマホは自宅に保管しておいて、SIMカードを自分のスマホに入れ替えよう。

「もういいか?では、ついてこい」

 ジャケットを羽織り、駒込は事務所のドアを開けて、颯爽と出て行った。待つ気はないらしく、階段を下りる音が聞こえる(え、エレベーターないの?)。

 もう一眠りしたいし、二日酔いもひどいし、なんなら家に帰りたい。けれども、私の脚は「それが当たり前」と言わんばかりに立ち上がり、駒込の後を少し駆け足で追っていった。


 白く立ち上る湯気の向こうにそびえ立つ平面の富士山。

 そして客ひとりいない、広い湯殿。

 服のまま、お湯の中に飛び込んでしまいたい。


 連れて来られたのは、事務所から徒歩5分程度のところにある歓楽街の中の銭湯だった。以前、同伴中に通ったときは工事していたのを覚えているが、そのときはまさか自分がここで働かされるなんて想像だにしなかった。

 江戸の町屋風の正面入り口から入ると、見た目のレトロさとは裏腹にロッカーも、玄関口の三和土はピカピカで、床のあちこちに袋に入ったままのタオルやら資材やらが置かれており、オープン前の雰囲気を醸し出している。

「ここ、あんたがオーナーなの?」

「そうだ。……言うが、口の利き方を改めろ」

「なんで、悪魔がお風呂?」

 揶揄からかうつもりはない。ふと浮かんだ、素朴な疑問だった。

「悪魔の好物が人間の魂だからだ」

「へぇ」

 質問と答えがまるで嚙み合っていないが、この答えに対する気の利いた返しは、私の抽斗の中にはないようだ。黙って、駒込の二の句を待つ。

 昔ながらの番台風の受付の左、男湯の脱衣所を抜けて洗い場に入ると、駒込は紙タバコに火をつけながら続けた(さっき館内禁煙の注意書きが見えた気がしたが、気のせいか)。

「人間は肉体と魂が対になってできている。健やかな肉体の皮膚にはハリがあり、筋肉がよく動き、内臓の色も美しい。同じように、健やかな魂というものは、まぁ、わかりやすく言うと生命力、気力に満ちていて、ハリがあり、感情の起伏も豊かで、濃厚な味わいだ。反対に、気力のない、希死念慮に取り憑かれた奴の魂はハッキリ言って、まずい。痩せ細って、干し肉のように噛みづらく、食えたもんじゃない。ではいちばん旨いものはわかるか?」

 話に夢中になったせいで、せっかく火をつけたタバコの灰が足元に落ちる。私はというと、駒込の雄弁に語る様を見て気味が悪くなり、濡れた洗い場の床に落ちて泥状になった灰に目線を落とした。

「いちばん旨いのは、どん底から這い上がって生きる喜びを得た奴の魂だ。例えれば、コンフィのようだ。低温の油で煮詰められ、旨みの詰まった肉汁を閉じ込めながらも、外の皮はパリッとしているアイツだ。人を貶める“絶望”で魂が煮詰まれば、思慮を深め、無駄な誇りや信条などを削ぎ落し、引き締まる。フォワグラでもいい。苦楽どちらの想いもたらふく取り込んで、それをすべて良質な脂に変える。ただし、料理で最も肝心なのはそれに耐えうる素材を選ぶことだ」

 今、私は煙に巻かれているのだろうか。

 いつの間にかタバコは駒込の手元から消えており、駒込の脚は女湯へと向かう。

「ここいらは、どうも死んだ目をした人間が多い。そこで閃いたのだ。命の洗濯とはよく言ったもんだ。銭湯で、絶望にまみれた奴らの魂が少しでも洗われて綺麗になれば、耐性が身に付き、私の舌も少しは満たされるかもしれない。なに、成功している、安心しろ」

 風呂に入るだけで健康になるなら、医者なんていらない。

 ただ、この24時間営業の銭湯には、サウナ(と水風呂)、高濃度炭酸浴、高温シルク風呂、電気風呂がそれぞれの湯についており、さらに別でジェンダフリー用の個別風呂(要予約)が用意されていた。昨今のサウナ・ブームもあって、常連さんにも通っている人が多い。刺青の入店を許可するなど、地域に合った運営をすれば案外ウケるかもしれない。タオルも無料貸し出しをすれば、外国人のお客さんも気軽に立ち寄れるだろう。

 一通り周ったあとは、従業員用の狭い休憩スペース兼在庫置き場に連れてこられた。これで銭湯ツアーは終了らしい。

「アタシは何すればいいの? 店長なの?」

 さすがに覚悟は決めた。昼職で収入が増えるのは実際問題、ありがたい話なのだ。

「お前はさしずめ、広報担当だ」

「コーホー?」

 駒込は振り返ると、不意に私の目の前で指を鳴らした。

「お前さんにはこれまで通り、キャバクラで働いてもらう。よく聞け。足元に餓鬼がきが見える客をアフターでこの銭湯に誘え。ホイホイついてくるだろう」

 一瞬怯んで目を閉じてしまったが、特に何も起こっていないようだ。何度も瞬きして、銭湯のあちこちを見るが、何も見えない。駒込の言う子どもガキも。

「なに、今アタシに何をしたの?」

「今まで見えなかったものを見えるようにしただけだ」

 こいつはどこまで本気なのだろう。悪魔だかなんだか知らないが、与太話ばかりで困惑させるだけさせといて、特にフォローもない。眉間に力を入れ、睨んで抗議をするも、駒込は気にせずに続けた。

「ただし、餓鬼が首元にいる奴は手遅れだ。放っておけ。あとは、得意のSNSで宣伝しろ。店のアカウントはある。インフルエンサーにDMを送って、1週間後のオープン日に招待して撮影させろ。プレスリリースはそこのPCパソコンの中にPDFで入っている」

 駒込は早口で説明し、休憩スペース内の折り畳みテーブルの上にあるノートPCを指さすと、さっさと小部屋から出て行った。足が早い。慌てて追いかけるも、もう駒込は靴を履こうとしていた。

「え、ねぇ、手遅れって、なに。死んじゃうの? どういうこと?」

「言っただろう、私は」

 駒込は靴紐を結ぶ手を止めて、苛ついた様子で振り返り、答えた。

「ジャーキーよりも、フォアグラ派なんだ」

 駒込が突き放すように、出入口に向かって歩き出したので、私は慌てて引き留めるように質問を重ねた。

「ねぇ、そういえば銭湯の名前は?」

「悪魔の湯、だ」

「え、ダサ」

 しまったと思ったが、言ったが最後、駒込の眉間に深まる皺を見ないよう、私はそっぽを向いた。

 


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