父の命令

「シエル様、ガラハーン様がお呼びです。」

シエルの部屋に来た使用人の言葉に反応したのはシエルではなくフィンレーだった。

ぴくりと指を動かして顔を顰める。

一方のシエルも静かに眉を動かす。

父のなにを考えているのかわからない深い瞳と威圧感は苦手だ。

父は、奴隷商に売られていたと言うシエルを引き取った。

そのエピソードは、父の善人エピソードとして賞賛されているが、シエルにはそれが甚だ疑問だ。

なぜ数多いる奴隷の中からシエルを選んだのか。

父は昔から、シエルに話しかけることはなかった。

だからこそ、父の言葉はよく覚えているのだが、数少ない言葉はいつも命令口調で、聖女になれ、戦士になれ、エイダンと婚約しろ……それだけだった。

普段から使用人に伝言させる父が直接言うほど重要だったことは、シエルになにか大きなことをさせる時だった。

思えば、シエルの人生はいつも父が舵を切っている。

でも、反抗する必要なんてない。

たとえ辛いことがあっても、シエルは確かに幸福を感じている。

だから、今のままでいいんだ。

私は、幸せだ。


「失礼します。」

重いドアを引いて、シエルは部屋に入る。

父の部屋は豪勢だ。

ラムノデア家は古くから陰でこの国の実権を握っている。

そのやり方は非常に強かである。

時に残酷な手段を厭わず、数々の貴族や商人を丸め込む。

父は寡黙で、家族と深く関わらない人間だが、外部との関わりは広い。

シエルはいまだに父と言う人を掴めていなかった。

「ギデオンに会ったか。」

開口一番、父はそう言う。

簡潔にことを進めたがる人だ。

感情の起伏もあまりない人だが、要領の悪いことは嫌いのようで、不器用な使用人に対して怒鳴りつけているのを見たことがある。

「えぇ。」

「そうか。それで?」

シエルは数回瞬きをする。

父の質問の意味がわからなかった。

「特に、なにも……」

「そんなことはないだろう。」

シエルは口をつぐむ。

「彼は、私のことを知っているようでした。」

「お前も連れ去ろうという素振りは?」

シエルはずっと逸らしていた目を父の方に向ける。

「……いいえ、でもなぜ。」

「なぜ?お前は自分の立場をまだ理解していないようだな。」

父は珍しく強い口調で言った。

だが、口角をわずかに上げて笑う。瞳は暗いまま。

「まあいい。十分気をつけろ。お前はこの家の、この国の宝なんだから。」

初めて見る父の表情に、ぞくりと、背筋が凍るのを感じた。

父は、何かを企んでいる。

父の優しい言葉の裏にはいつも、黒い何かがある。第一、口だけで父は優しさというものを持ち合わせていない。

彼は、シエルを推しているが、それは味方であるというわけではない。

「そういえば、セオルが君の舞踏会の参加を拒否したらしいな。」

「……お父様の言葉でないのですか?」

「いつもはそう言っている。だが、今回は許可しよう。」

シエルは驚いて父を見た。

「エイダン・マルエスと正式に籍を入れることが決まった。婚礼の儀はまだ先だが、舞踏会でそのことを発表する。」

シエルが目を伏せて、透き通った瞳に長いまつ毛の影が落ちる。

私は、幸せなのだ。

だから、嫌だ、なんて言わない。言えない。


戦士の条件、そして、聖女である条件は、独身であることだ。

つまり、シエルは結婚と同時に、戦士と、聖女それぞれの職を辞さなくてはいけない。

だから、シエルの結婚を望まないものは多くいる。そして、不審がるものも。

シエルにしてみても、父の思惑は未だ読めない。

「フィンレー。王室の舞踏会で着るドレスを見繕ってちょうだい。」

シエルは読書の片手間にそう伝えた。

ガチャンと、何かが割れるような音がして、シエルは思わず顔を上げる。

フィンレーがティーカップを落としたのだ。

「ご出席なさるのですか。」

「えぇ。お父様が、良いとおっしゃって。それより大丈夫?」

フィンレーは慌てて謝りながら床に散ったガラスの破片を片付ける。

「驚いたの?」

「はい……なぜ急に、と。」

シエルは静かに分厚い背表紙の本を閉じる。

「エドと、正式に籍を入れるそうよ。」

フィンレーは大きく目を見開いた。

シエルは装飾のない本の表紙をじっと見つめている。

沈黙が広がってゆく。

シエルの憂いた瞳をフィンレーはじっと見つめていた。

「シエル様、おめでとうございます。」

決して祝福しているわけではないのは、シエルにもはっきりと伝わってきた。

それでも、言ってくれたのだ。

「ありがとう。」

シエルは、フィンレーのほうを見ることができなかった。

「早急に仕立て屋をよこします。いつ頃が……」

「ドレスは、フィンレーが選んで。」

フィンレーの言葉を遮るようにシエルは言う。

珍しく、強い口調で。

「承知いたしました。シエル様に、似合うものを。」

消え入りそうなシエルの返事。

フィンレーは一礼すると部屋を辞した。

「ごゆっくりお休みください。」

フィンレーが部屋を出ると、静けさとさみしさが部屋に広がる。

シエルは窓を開け放つと、窓辺に腰を下ろした。

シエルの気持ちなんて知りもしないかのように、白い星が瞬いている。

動物の気配一つしない静かな夜。

透き通った空気を吸うと胸が苦しくなる。

私は結婚したくない。たとえ相手がエイダンでも。

どうして、そんなことを思ってしまうのだろう。

それならば、私はどうしたいのだろう。


あそこまで感傷的なシエルも珍しかった。

フィンレーはシエルの部屋を出て、小さくため息を吐いた。

もう夜も更けて、廊下ではろうそくの小さな明かりが影を一層濃くしていた。

ぐっと唇をかむ力が強くなる。

これまで公爵はシエルを利用してきた。

娘を聖女として、戦士として人気者に仕立て上げ、自らの地位を確固たるものにした。

同時に、娘の力を恐れ、厳しく監視もした。

公爵は彼女を一目にさらすことも恐れていたように感じる。彼女の美しさに感化された人々が、組織を作ることを危惧していたのだろうか。

もしかしたら、結婚を理由に人目にさらす機会をなくそうとしているのかもしれない。

形だけの婚姻で、この家に一生閉じ込めるつもりかもしれない。

彼女は父親への恩を少なからず感じている。

だから、いくら聡明な彼女でも、父親を疑うことはできない。

シエルの婚姻への疑問をいくらか減らすために、エイダンとの恋模様を捏造して、人々の共感を得ていることも、彼女は知らない。

あの男は、周囲の想像以上に残忍なのだ。

強大な力をもって生まれたために、不幸な人生を歩まなければならない彼女が不憫で仕方がない。

できることなら、自分の手で彼女を救い、幸福の道を歩ませてやりたい。

ふと、廊下の暗がりから、派手なドレスの裾が見えた。

派手なドレスを好むのは、シエルの姉妹のどちらかだ。

やがて長い銀髪が見え、それがスフィアであることがわかる。

珍しく使用人を連れていない。

「シエルのこと、聞いたかしら。」

フィンレーに会うためにここにいたのだろうか。

だとしたら、何の用で。

「はい。」

スフィアは卑劣な笑みを浮かべる。

「シエルが嫁いだら、あなた、私の傍仕えにならない?」

フィンレーの目元に少し力が入る。

「それは……シエル様を困らせるためですか。」

手に持ったきらびやかな扇子をゆらゆらと仰ぎながら、スフィアは言う。

「そうねぇ、あの子の傷ついた顔を見るのも一興だけど、あなたのこと気に入ってるのよ、私。」

「結構です。」

即答だった。

「あら残念。振られちゃった。」

シエルへの態度とは違って、余裕に満ちている。

「賢いあなたならわかると思ったのだけれど。」

笑み交じりの声でからかうように言った。

「なんでしょうか。」

それが不快で、フィンレーの言葉に不機嫌さがにじむ。

「あの子はもうじき用なしになるわ。そしたら当然あなたもね。」

どういうことですか、というフィンレーの問いに、スフィアはにやにやと笑うだけで答えなかった。

用なし。それは単に結婚することだけをさすのだろうか。

「あの子と一緒に地に堕ちる前に、私のもとに来なさい、と言ったのだけれど。」

スフィアは呆れたような表情を作って見せる。

肩をすくめ、フィンレーに言い聞かせるように言う。

「知ってるでしょう。あなたの前任者がどんな末路をたどったか。」

あざけるような表情、声。スフィアのすべてが醜悪だ。

「それでも、私はシエル様についてまいります。」

あなたがどこに行こうとも、私は、あなたを守ります。

たとえそれが地獄でも。

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どうしようもないあなたと、堕ちた私 りんごンゴ @YoidukiAka

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