第25話 うさぎ、人間を食べる
雨音に紛れて、懐かしい足音。
少しひきずりながら歩くような癖。うさぎの小さな脳みそでも、覚えている。
公園の中に、何度もその足音を探したから。
何度も何度も、思い出していたから。
私は濡れるのもいとわず、彼女を待っていた。
やがて姿が見えて来て、心臓が静かに高鳴る。
元ご主人様の手に、傘は無い。
白いワンピースから、ぽたぽたと雫がしたたる。街灯の光に照らされ、暗闇にぼんやりと浮き上がっているように見えた。
私を探すでもなく、真っ直ぐここまで歩いてきた彼女が、立ち止まる。
伏せた目で、私を見下ろした。
「アイン」
私の名だった。
前世からずっと同じ。その名を彼女が、愛情をこめて呼んでくれることも。
「ごめんなさい。あなたを、捨てて」
彼女の声が、涙に震えている。
「でも、辛かったの。あなたといることが」
「どうして。あんなに、楽しい日々を過ごしていたのに」
私は彼女に問うている。
「こんなこと、信じてもらえないかもしれないけど……」
まるで私の声が聞こえたかのように、彼女は答えた。
「あなたが、人間になる夢を見るの。私は、あなたのことを心の底から愛していて……目覚めてからも、夢で愛し合った人とあなたが重なって。どうして人間じゃないんだろうって思った」
メスだって分かって、飼っているのにね。彼女は自嘲みたいに笑った。
「彼氏がいるのに、こんな夢を見て、ものすごく悪いことをしている気がした。でもあなたへの、人間に向けるみたいな愛が、止まらないの。あなたを撫でているときも、エサをあげているときも、恋人と過ごしているみたいで」
雨がひどくなり、弾丸のように降り注ぐ。
「辛くなった。友達に相談したら、馬鹿みたいって笑われたし。実際、ほんと、馬鹿よね。自分でも分かってるの。でも、頭で理解できても、気持ちは変えられない。ずっと、なんだか、辛かった」
彼女は、心臓の上で服を握りしめる。
「他の人に譲ることも考えた。でも、あなたが別の誰かに可愛がられているなんて、絶対に嫌だと思って。それで、それで……」
「捨てたのか」
彼女は、がっくりと崩れ落ちる。
シロツメクサの首輪が、じんわりと熱くなる。
とても、同情はできなかった。
前から不安定な人ではあったから、夢に辛さを感じてしまうのは、分かる。
でも、だからって、捨てることなかったじゃないか。
心臓が早なり、体がむくむくと膨れ上がる。体の中に、凶暴な本能が宿る。
泣き崩れた彼女は、ライオンに変身した私を見ようともしなかった。ただただ運命をさとっているかのように、首を垂れている。
私は彼女に、頭から食らいついた。
骨まで砕いて、飲み込む。喉が切れるが、構わなかった。
彼女との思い出が、走馬灯のように閃いては消える。せまい部屋の中で、追いかけっこをして遊んだり、誕生日を牧草のケーキで祝ってもらったり。彼女が涙に濡れる夜は、一晩中寄り添ったこともあった。
内臓の苦みも、歯触りの悪い爪も、全て味わいつくした。
するすると、体がうさぎに戻っていく。
辺りに飛び散った血が雨に押し流され、排水溝に落ちていった。
全身に浴びた、むせかえるような返り血が、雨の匂いにぬりかえられていく。
彼女が生きていたことが、跡形もなくなっていくようだった。
それは同時に、私が生きたことがなくなっていくということにも思えた。
……いや。
ジョンソンはきっと、私のことを覚えていてくれる。多分、彼が理想としていたような、温かい家の中で。
今まで私の元を訪れてくれた人も、時折思い出してくれるだろうか。
ちいさなうさぎが、公園にいたことを。
土砂降りの中でうずくまる。言いようもないくらい、疲れていた。
少しずつ、雨に体温が奪われていく。私は小さく、くしゃみをした。
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