第19話 実る恋たち

 悲鳴が耳に突き刺さる。


 太った男が、目の前で金切り声を上げる。


 血しぶきが舞うと、高揚感が胸を占める。


 人の肉の味は、格別だ。私は今まで数々の肉を食らってきた。が、これほどまで甘美な肉を他にはしらない。


 上質な脂。ほんのりとした甘み。そして何より、高い身分にふんぞり返っている奴を蹂躙するのがたまらない。


 私は強者。


 口元がニタリとつり上がっていくのを、止めることができない。もう間もなく、人間を食べることが叶う。興奮でダバダバと汗が流れる。


 それでも、作業の手元を狂わせることはできない。内臓を切ったら全てがパアになるからだ。


 濃厚な血の匂い。酒を飲んだように、脳の血管が太くなり、心臓が胸を叩く。


 いや、酒よりもっと、上質なものだ。


 肉が焼ける匂いをかぐと、体の奥底から興奮が駆けあがってくる。私はよだれのしたたる口を開け、肉にかぶりつく。


 冷たい月の光。私は土を掘る。枯れた木の上で、カラスが目を光らせている。


 食べた後になると、体にしみついた悪臭が鼻をつく。ミントをかみながら、私は穴に内臓や骨を放り込む。土をかぶせて、深い溜息をつく。


 全身に疲労感が満ちて、私は座り込んだ。あの高揚の代償なのだろうか。ミントでも、においはごまかせない。私は食べたばかりのものを、内臓から吐き出した。


 いつものことだった。


 人を初めて食べたあの日。過ちのはじまり。自分を忘れて人を殺し、貪り食うようになってしまった。


 地面に拳を打ちつける。


 胃液で焼けた喉が強烈に痛む。渦を巻く後悔の中心には、いつも同じ思い。


 だって、食人ほどの大罪を犯さなければ、あの人は諦めてくれなかったから。


 私との間にある、燃えるような恋を…………。



★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★



 ――はっ!!!!!!!


「大丈夫っすか?先輩。うなされていましたよ」


「嫌な夢を、見てな……」


 私の呼吸は、めちゃくちゃに速くなっていた。心臓が破裂してしまいそうだ。


 ちなみにうさぎは汗をかかない。人間だったら、汗びっちょりな場面だろうが。


「もしかして、人間を食べる夢ですか?」


 勘の良いヤツめ。小さく頷く。


「そりゃサイナンでしたね。お口直しに、クローバーでも食べましょう」


 日の落ちかけた広場へ、ジョンソンは駆け出した。


 私はうさぎであることに安堵していた。シャキシャキクローバーの甘酸っぱさよ。肉を食べる生き物だったら、思い出してしまっていたことだろう。


 あの後味は最悪だ。色んな意味で。

 こんなんで、私はいつか人間を食べられるんだろうか……。


 元気に口を動かしていたはずのジョンソンが、舟をこいでいた。地面に鼻をぶつけ、ハッと顔を上げる。


「起こして悪かったな」


「いえ!たまには早起きもいいですよ。暗くなってきましたし」


 ジョンソンは垂れ耳をピクピク動かした。


「この辺りだったよなあ、うさぎがいたの」


「そうですね!」


 自転車を引く音と共に、楽し気な会話が近づいてくる。


「この声は、登校できない女の子と野球部?」


「そうですね!」


 似たような会話を交わして、私たちは2人を待つ。


「練習長引いてごめん。暗くなってきちゃったね」


「いいんですよ!私が好きで待ってるだけですから」


「好きって、俺のことが?」


「あ、え、えっと……」


「おやおやおやあ」


 ジョンソンが鼻をひくひくさせる。


「いい感じじゃないっすか」


「ずるいよ……」


 女の子は、小さすぎる声で言う。うさぎにはばっちり聞こえているぞ。


「甘酸っぱいっすねえ」


 にんじんの前菜にはもってこいだな。


「あ!いた!」


 女の子が駆け寄ってくる。


「わーい。久し振りっす!」


「最近来れなくてごめんね。にんじんどうぞ!」


 おお、にんじんよ。忌まわしい人間の味を上書きしてくれる、根菜の甘味。


「食いつきいいなー」


 さわやか野球部は、目尻を細める。


「お腹空いてたのかもしれません。最近来てなかったから」


「学校、行くようになったんだっけ?」


「はい……。保健室登校、ですけど。行きたい高校があるんで」


「偉いじゃん!俺応援してるよ」


「あ、ありがとうございます。……わ、私も、先輩の応援、行きますからね!」


「まじか!嬉しいな」


「ひひっ。お幸せに!」


 ジョンソンが、ひそかにウィンクした。


 久々のにんじんを堪能した私たちは、人気のない広場で追いかけっこをしていた。


「だから……ジョンソン、手加減してくれよ……」


 私は半分くらい小さいので、ちっとも追いつかない。


「いい運動!まだまだ行きますよ!」


 無茶言うな。こっちはもうヘトヘトなんだぞ。


 ジョンソンは走り出したが、足音を聞いて一瞬止まる。私たちは、逃げるように茂みへ駆けこんだ。


 近づいてくるのは、男女の楽し気な話し声。


「またっすかあ」


 今度は、もっと親密そうな感じだ。年齢も上っぽいし。


 わざわざ人の少ない道にやって来るとは……なかなか通だな。

 街灯の下で明らかになった顔を見て、私は思わず飛び跳ねた。


「知り合いっすか?」


「ジョンソンが来る前に、公園に来てな……。残業終わりで疲れ果てて、私のことを昔飼っていたうさぎと勘違いしたサラリーマンだ」


「面白いヤツですねえ」


 なかなか気持ち悪かったけどな。


 あの後、介抱してくれた女性といいカンジになっていたが……。隣にいるのは、まさにその女性だろう。サラリーマンは、前よりも顔色が良くなっていた。スーツも髪型もピシッとして、風体のあがらないサラリーマンだったとは思えない。


 今なら食べ応えがありそうだな、なんて考えてしまって、私は頭をブンブン振った。


「ここだったよね、君と初めて出会ったのは」


 街灯の下で、サラリーマンが立ち止まる。


「ふふふ。そうね。びっくりしたわよ。朝からぶっ倒れてる人がいるんだもの」


 2人は顔を見合わせて笑う。


「俺、前の会社は本当にブラックで、死ぬことばっかり考えてたけど、君のおかげで、思い切って転職することができた」


「何よ、あらたまって」


 女性が、キラキラした瞳でサラリーマンを見上げる。


「今の会社はホワイトで、仕事もやりがいがあって……。家に帰ったら君もいるし。信じられないくらい、毎日が楽しいんだ。ほんと、夢見てるみたいで。君には、感謝してもしきれないよ」


 サラリーマンが、ポケットから箱を取り出す。


「返事、今じゃなくていいから。俺の気持ちを、受け取ってください」


 パカッと開けたら、指輪が現れる。街灯の細い灯の下でさえ、スポットライトを浴びたみたいに輝いていた。


「おおおー!!!」


 ジョンソンが身を乗り出す。


「え、ちょっと……。ほんと?」


 女性が、何度も瞬きをする。声が震えていた。


「本当です。結婚を前提としたお付き合いをさせてくだい!」


 サラリーマンが頭を下げる。


 女性が、そっと指輪を手に取る。右手の薬指にはめ、その手を差し出した。


「こちらこそ、よろしくお願いします」


「わ、わああ……。よかった!」


 サラリーマンが泣き出す。


「もう、ここは私が泣くところでしょ」


 と細めた目に、涙が光っている。


「まだ付き合って2ヶ月くらいだからさ……早すぎるって言われるかもってさ……」


「私も、全く同じこと考えてた」


「そうなの?」


「うん」


 サラリーマンが、女性の手を握る。2人は、ゆっくりと歩き出した。


「今日のごはん、ちょっと豪華にしようか」


「ぐす。高いお肉買おうか」


「この時間なら、割引されてるかもしれないしね」


「ちゃっかりだなあ」


「当たり前でしょ。オトクにおいしいものを買って、その分ケーキを食べましょうよ」


「いいね!明日行こうか」


「おやつにね」


 2人は、ピッタリと身を寄せて笑った。


 おそらく、現在世界で最も幸せな2人が去った後、どちらからともなく溜息をついた。


「やっぱ、先輩、ホンモノじゃないっすか?」


「何が?」


「とぼけないでくださいよ!本当に、恋愛成就の神様でしょ」


「そんなわけないだろ。神様が捨てられてたまるか」


「分かりませんよ?動物愛護の神様だって、だいぶいい加減だし」


「まあ……」


「今度は、僕たちにも、なんかいいことあるかもですね」


 いいこと、って、なんだろう。


 やっぱり、安心できる家の中で、暮らすことだろうか。安心できるパートナーと。


 サラリーマンたちに影響されているのか、私は元ご主人様の顔を思い浮かべていた。


 今も楽しいが、やっぱり、家にいた頃が良かった。


「先輩?」


「はっ」


「考えごとっすか?」


「いや、なんでもない」


「今度は、どんなカップルに会えるっすかねえ!楽しみっす」


 ニコニコするジョンソンが、元ご主人様の笑顔に重なった。

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