第10話 お疲れな主婦と真顔の息子

「先輩!そろそろ眠たいっすね!」


 先日野良うさぎの仲間入りをした後輩、ジョンソンは元気に言った。


「眠そうには見えないが」


 私は今すぐにでも寝たい。 

 朝の散歩の人が減っていき、通勤通学の波が来る。ざわざわしたこの空気の中では、ちょっと寝にくい。


「こんだけ人がいっぱいいるとこ見るの、面白いっすよねー」


「私はもう見飽きた」


「かっこいいっす!僕もいつか言えるようになりたい!」


「そのうち、嫌でもそう思えるようになる」


 返事がないので隣のジョンソンを見てみると、寝息をたてていた。


 ……ジェットコースターのような奴だな。


 つられて私も寝ていると、近づいてくる足音に目を覚ます。

 足音は1人分。それと、車輪のついた何かを押す音が連動している。顔を上げると、ベビーカーを押す主婦だった。

 疲れているのか、髪はぼさぼさでクマがすごい。ふらふら歩いていて、危なっかしい感じだ。


「あらあ」


 主婦は、私たちに気づいて立ち止まる。


 隣でジョンソンが目を覚ました。


「こんなところに、うさぎちゃんがいたのねえ」


「いますよー!うさぎちゃんでえす!」


 愛好を崩す主婦に、ジョンソンはぴょんぴょんと駆け寄っていく。


 登校できない女の子が持ってくるにんじんにも、私と違ってがっつくので、女の子はとても喜んでいる。前よりもたくさんのにんじんを持ってきてくれるようになった。


 結果、食べられるにんじんの量は1.5倍に増えたのだ。取り分が少なくなることを危惧していたが、まさかの増量。ジョンソンの性格には、最近感謝をしている。


「ほらリョウくん、うさぎさんだよ~」


 ベビーカーの中の子供はジョンソンを見る。が、徹底して真顔だった。


 なんて冷たい目だろう……。遠巻きに見つめながら、うさぎの弱めな心臓がバクバクしてしまう。


 でも、ジョンソンはめげなかった。


「リョウく~ん。僕ジョンソンです」


「いや聞こえないのに」


 思わずツッコミを入れるが、子供は返事をするようにニコッと笑った。


「聞こえてますね!リョウく~ん」


 ジョンソンがなおも話しかけると、息子は足をばたつかせて喜ぶ。


「わーい!歩けるようになったら遊ぼうねえ」


 ジョンソンはぴょんぴょんを跳ねた。


 息子の様子を見守っていた主婦は、何の脈絡もなく泣き始めた。


「え、ママさん、どうしたんっすか??」


「リョウくんが、笑ってくれて、嬉しくて……」


 まるでジョンソンの問いかけに答えるようなタイミングだった。


「ありがとうね」


 主婦はしゃがんで、ジョンソンをなでる。


「リョウくんね、全然笑わないの。夜泣きもすごくてね……。私が、なんか悪かったんじゃないかなって、思ってたの。でも、今日散歩に来てよかった。笑ってくれたから」


 主婦の涙は止まらない。


 仕方がない。私も慰めてやろう。しゃがんだ主婦の足元にいくと、私もなでてくれた。


「えへ、ありがとう」


 主婦は、頬に流れる涙を拭った。


「じゃあ、僕、もっとリョウくんを笑わせてあげます!」


 ジョンソンは息子の視界に入る位置に移動する。


「やっほー!リョウくん!最近どう?」


「どうもこうも、毎日ぼんやりしているさ」


 私は耳を疑った。


 聞き間違いか、とすら思った。


 息子の口は、動いていない。見たところ、まだ言葉はしゃべれないようだが……。


「ぼんやりするのもいいじゃないっすか」


 ジョンソン、お前適応能力高すぎじゃないか?人間としゃべれることに違和感はないのか。


「いいことはない。人に手伝ってもらわないと何もできないし。不快な思いでいることの方が多い」


 やはり、しゃべっている。


 人間の言葉はしゃべれないが、うさぎの言葉はしゃべれるということか……?


「ママさん、優しそうじゃないですか!」


「優しいが、要領が悪いのだ。オムツが蒸れて気持ち悪かったり、お腹が空いてる時間が長かったりして、不快なことが多い」


「大変そうっすねー」


 殿様か、お前は。


 自活をしている身からすると、身の回りの世話をしてもらえているだけでありがたいと思えるが。


「でも、楽しいこと、ひとつくらいあるでしょ?」


「……ああ、あれを見ている間は楽しい。アンアンマンって知ってるか?」


「自分うさぎなんで、分かりません!」


「ひもじい人間に餡子を配り歩く、丸い顔の生物の話だ。キンキンマンという、菌まみれの冷たい息で餡子をカチカチにする悪い奴と戦う」


 面白いのか?それ。


「面白そうっすね!僕も見たいっす!」


 ほんとかよ。


「そうか!ママと見ても退屈だから、ぜひ一緒に見よう」


 息子はキャッキャッと笑う。


 主婦はそれを動画におさめている。あんた、なかなかにディスられてるぞ……。


「ジョンソン、君が気に入ったよ。もしよかったら家にきてほしい」


「いいんすか??」


「ママが、君を家に迎えてくれるよう、なんとか操ってみるよ」


 恐ろしい子供だな。


 というか、ママさんを何だと思ってるんだオマエ!


 ムカついてきた。こういう身勝手な人間が、ペットを捨てる無責任な大人に育つのだ。


 そう思ったとき、神がくれたシロツメクサの首飾りが熱くなった。


 私はびっくりする。


 息子とジョンソンも異変に気づいたのか、こちらを見た。


 いや、いやいやいや。


 ライオンに変身しそうなムードじゃないか。


 まだ心構えができていないし、意思疎通のできる人間を食べるのはなんか嫌だし、何よりママさんの目の前で子供なんか食べたくない!!


 そう強く思うことが、私に怒りを忘れさせた。首飾りからは熱が去り、ジョンソンも息子も、何も見なかったとでもいうようにしゃべりはじめる。


 2人の楽し気な会話をBGMに、私は冷や汗が止まらない。


 危ないところだった。


 小さな子供を食うライオンと、泣き叫ぶ母親の姿が脳裏に浮かぶ。


 生々しく滾った怒りと、首飾りの熱を反芻して、ゾッとした。

 怒りの感情は、コントロールできるようにならなければ。


「それじゃあ、また来るね」


 主婦が私たちに手を振る。


「今いいところだったというのに……。まあ良い。また会おうな、ジョンソン」


「はい!また会いましょう!リョウくん!」


 人間を食べたい、とは思う。


 でも、いつか食べることになる人間のことを、大切に思う人だって、いるんだ。


 それが、登校できない女の子や、絵描きの少年だったとしたら……。


 立ち直れないほど、悲しませてしまうことになる。私は今さらになって、自分は恐ろしい力を欲してしまったと気づいた。


「先輩、僕、スカウトされちゃいましたよ!!!!」


 とジョンソンはハイテンションだ。


 私が悩んでいるのが分からないのか。


「近いうちに、野良うさぎ卒業しちゃうかもです……。あ!先輩も一緒に行けるように、頼んでみますね!」


 ちょっと考えてから、私は答えた。


「そんなことは、しなくていい」


「ええー。先輩も一緒の方が楽しいですよう」


「私はいつか、人間を食べるから。もう人間とは、暮らせない」


 覚悟がないと、できないことなんだ。


 私の顔つきはまたひとつ、野生に生きる動物らしく、きりりとした。



【本日の人間】

主婦…とにかく疲れており、かわいそうなので、食べない。


息子…横柄な態度に思わずライオンに変身しそうだったが、母親の目の前だったので思いとどまる。あと、意思の疎通ができる奴はちょっと食べたくない気持ち。

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