第4話『機巧技師とエリス』




 ふと目を覚ました壮年の男は、隣にいる美しい少女を見て目を細めた。


 感情を表現できるようになってまだ短い、微かな、しかしはっきりと分かる笑みを湛えた端正な顏。いつまで経っても色褪せることのない碧い瞳。

 意匠の凝ったアンティークドレス。


 男を起こすためにベッド脇に立つ姿は、さながら妻のようだった。

 別段、そういった関係性でも何でもないのだが。


 加齢と共にやや重くなりつつある上体を起こし、男──ジニアは首を鳴らす。


「おはようございます、ジニアさま」


 にこにこと嬉しそうに告げるのは、機巧人形であるエリス。

 彼女は人であるジニアと違って歳を取らない。十年近く経って、ようやく少しは感情表現ができるようになった以外は、出会った時そのままの顏だ。


「……なんだ、朝っぱらから」

「はい。ジニアさま、お誕生日ですよね」


 そこでジニアは、エリスが嬉しそうな表情をしている理由に気付く。


「……祝われるような歳でもない」

「三十三歳ですね。おめでとうございます」

「この十年で、お前は人の言うことをまるで聞かなくなったな」

「ジニアさまはほとんど私に命じてくださらないので。ですが、命令されれば応じますよ。何か、私にして欲しいことなどはございますか?」


「……なら、私の頭を撫でるのをやめてくれるといいんだがな」

「それは、命令ではありませんよね」


 エリスは微笑みを湛えたまま、手を優しく動かし続ける。


 その手を払う気にもなれず、「…………ち」と舌を打ち、ジニアは立ち上がる。

「なら、別の命令だ。朝食を作ってもらおうか」


「先ほど用意しておきました」

「……なに? それで、私が起きるまでに冷めたらどうする気だったんだ」

「ジニアさまは起こせばすぐに起きるので、冷めないと判断したのです」

「…………」


 暖炉の部屋まで向かうと、確かに机の上には美味しそうな朝食が並んでいた。

 こんがりと焼かれたトーストに、サラダとウィンナーの皿。

 それから空のコーヒーカップが置かれている。


「カップが空のようだが?」

「コーヒーは淹れたてが好きだと、以前仰っていたので」


 そう言って、エリスは古い型式のドリップポットを取りに行く。

 そこで焙煎したコーヒーをポットに入れ、濾してカップに淹れる。ジニア好みに深く焙煎されているのが、空気中に漂う香りで分かる。


 エリスの所作はさながら機械のように無駄がなく、美しくすらある。

 十年前とは大違いだ。機巧人形自体がそういうもの──というわけではなく、彼女がどれだけ真剣にジニアの与えた仕事をやってきたのかが分かる。


 そうして一連の動きを眺めていると、エリスは不思議そうに首を傾げた。

「その。顏に、何かついているのでしょうか?」


 両の頬ををぺたぺたと触り、そんなことを聞いてくる。


「……いや、何でもない」


 ジニアは、頂きますも言わずにカトラリーケースに手を伸ばした。

 ケースを手元に引き寄せ、磨かれた銀食器の中からバタースプレッダーを手に取ると、トーストにバターを塗りたくる。


「ジニアさま、今日のお仕事はどうなさいますか?」

 大口を開けてジニアがトーストを頬張っていると、エリスが訊ねてくる。


「今日もどうもない。誰かが訪ねてくれば壊す。それだけだ」


 湯気の立っているコーヒーに口をつける。ジニア好みの苦みの強い味わいに、繊細で酸味の薄いすっきりとした後味が、尾を引くことなく舌で溶けていく。

 懐かしいような素朴な香りも含め、もう少し長く堪能したい気持ちもあったが、熱いうちに飲むのが無上の美味しさだとジニアは知っていた。


 ことりとカップを机上に置くと、エリスの方を見やる。

 彼女は手持ち無沙汰になると、じっとこちらを見てくる癖がある。普段は何とも思わないのだが、こうして静かな日は、それが何ともやりづらかった。


 ジニアは、焦げ茶色に縁取られた白い底の見えるカップをエリスに差し出す。


「おかわりを淹れてくれないか。アールグレイが飲みたい気分でな」


 すると、驚いたようにエリスは目を見張り、こてんと首を傾げた。小動物のようなどこか愛らしい仕草だが、どこで覚えてきたのか。


「駄目なら構わないが」


「いえ。最近は紅茶はあまり飲まれないので、少し驚いただけです。今淹れてきますね。コーヒーと同じで、砂糖とミルクは入れない方がいいですか?」


「……ああ。それで頼んだ」


 ぱたぱたと靴を鳴らしてティーポットを取りに行く背中をジニアは見守った。

 いつもの通り、どこか苦しそうに表情を歪めて。




     ◇




 この日は、昼が来ても誰も訪ねてこなかった。


 機巧技師の仕事は長くて半日ほどかかる場合もある。またジニアは連絡手段を持っておらず、予約もとっていないため、客は昼までに来ることが多い。

 何も知らない客はそもそもジニアの元を訪れないため、昼までに誰も来ないということは、そういうことなのだろう。別に珍しいことでもない。


 代わりに、エリスと過ごす時間が長くなった。

 彼女の方は掃除や洗濯、家の周りの手入れなどをさっと済ませてきた。


 平常時は特段、何をするわけでもないが、今日はジニアが誕生日だということもあってか、エリスはいつも以上に世話を焼こうとしてきた。


「お昼はジニア様の好きなボンゴレビアンコです。昨日、買い出しに行っておいて良かったです。どうぞ召し上がってください」

「今日は風が穏やかで、心地がいいですよ。少し外に出てみませんか?」

「そういえば、プレゼントもあるんです。……あとでお渡ししますね」

「お誕生日ですので、ケーキを焼いてみました。間食にいかがでしょうか?」


 そんな風に、事あるごとに話しかけてきて。その度にジニアはあしらっていた。

 しかしそんなジニアの態度にも、エリスはどこか嬉しそうにしていた。


 小さくふわっとしたケーキは、砂糖をほとんど使っていないのかそこまで甘くなく、甘いものを苦手としているジニアの口に合った。


 元々、エリスは物静かで用事がなければ話はしない性格のため、今日のようにあまりに世話を焼いてこられると、調子が狂った。

 何をするにもエリスが先に立って、雑用なら何でも取って代わるのだ。


 また、ジニアが整備道具の手入れをしている時は、じっと眺めてきて。

 ふとそちらを見やると、「誰もこない日にもお手入れを欠かさないのが、ジニアさまらしいですね」と嫌みのない口調で告げてきた。




「ジニアさま、他に、何かして欲しいことはありますか?」


「……もういい、分かった。好きにしろ」

 疲れ切ったジニアは暖炉前の椅子に深く腰掛け、手をひらひらと振った。

 目を瞑って、数秒かけて深く息を吐く。


「では、好きにしますね」


 観念したジニアを珍しそうに見て、エリスはジニアの隣に立った。

 片目を開いて、ジニアはその佇まいを流し見る。


「何をしている?」

「ジニアさまのお傍におります」


「好きにしろと言っただろう」

「はい。ですから、そうさせていただいています。ジニアさまはこのままお休みになられますか? でしたら、暖炉に火をくべましょうか」

「いらん。少し、目を瞑っているだけだ」

「分かりました。では、少しお話ししましょう」


「……私から話すことは何もないぞ」

「では、私から話しますね」

「…………」


「──私は、ここに来る前は、出来損ないと呼ばれていました」

 エリスはそう、切り出した。


「私は給仕用に作られたはずが、失敗ばかりで。紅茶も満足に淹れられずに。そんな私のことを、前のご主人様は疎ましげに見ていました」


「…………」


「お屋敷には他の機巧人形も働いていて。皆さん、良く仕事のできる方で。……ですから、床に躓いてご主人様にコーヒーを被せてしまったあの日。ご主人様はもう我慢がならないと。お前を壊してやる、と言い放ちました」


「……ふん。機巧人形だからといって初めから何ができるわけもない」


「はい。ですが、前のご主人様には許されませんでした。翌日、私を壊すようにと技師へ連絡を取ったから、あの丘の上へ勝手に行けと。ご主人様は言いました。私はその命令に従って、ジニアさまの元へとやってきたのです」


「……なるほどな」


「今思えば、ジニアさまが『壊す』専門の技師だったから、前のご主人様は私をここへ寄越したのだと思います。……ですが、ジニアさまは私を壊しませんでした」


「丁度その時、身の回りの世話をする者が欲しかっただけの気紛れだ」

「何であろうと、結果は同じです。だから、私は──」


「お前は。その、前の主人とやらを恨んでいるか」

 エリスの言葉に割り込むようにして、ジニアが冷たく告げた。


 息を詰まらせたエリスは、口の中の言葉を飲み込み、別の回答を口にした。

「ここに寄越してくれたことには感謝しています。……ですが、少しは」


「そうか」


 ジニアの言葉の真意を読み取ったのだろう。

 目を伏せ、エリスは続ける。


「もし仮に──私が『再動』したとして。私は前のご主人様を手にかけたいと思うのでしょうか。……それは、分かりません」


 エリスが歯切れの悪く告げた言葉に、ジニアはふんと鼻を鳴らした。

「……そうならないようお前は私が壊す。決して、遺恨の残らないようにな」


「ありがとうございます」

「……壊す、と言ったのは前の主人と同じことだろう」


「ですが、ジニアさまのお言葉は温かいです」

「……身勝手な解釈だな」

「はい。そういうことにしておきます」


 ジニアは再び目を瞑り、椅子の背もたれに体重を預ける。

 眠るつもりはなかったが、話し込むうちに眠気は徐々に増してきた。


 エリスが足音を殺して移動するのが気配で分かる。恐らく、ジニアを起こさないようにして暖炉に火をくべにいくつもりなのだろう。

 ──全く以て、必要のない気遣いだ。


 そう、考えていた時だった。




 ──バキンッ、と金属が力任せにねじ切られたような音が轟いた。

 はっと目を開け、エリスがまだ部屋から出ていないことを確認する。音の出所は、おそらく家の入り口だ。エリスが立てた音ではない。


 脳が警鐘を鳴らす。心臓がそれ以上に大きく鳴り響く。


 嫌な予感がした。ドアがきぃ……と軋む音が遠くで聞こえる。

 そこから消すつもりもなさそうな足音が、ゆっくりと近付いてくる。


「……ジニアさま、私が様子を見てきます」

 そう言って、そっとドアノブに手をかけようとするエリス。


「勝手な真似はやめろ。……ここで、じっとしているんだ」


 エリスを命令で縛り、ジニアは立ち上がった。

 その瞬間──。




 凄まじい勢いと音を立てて部屋のドアが蹴破られ、ドアのすぐ前に立っていたエリスが巻き込まれ、後ろに倒れ込む。

「きゃ……!」


 そこから突入してきた男は、エリスの腕を持ち上げると、その顔を眺め──そのまま視線を上げて、ジニアの方を見た。


 高い身長。男にしては長めのさらりとした黒髪に、整った目鼻立ち。

 その顏は驚愕や怒りを筆頭として、様々な感情に歪んでいるのが見て取れる。

 灰色のロングコートを羽織っており、片手はそのポケットに入っている。


「……。なんだ、お前は。人の家に勝手に上がり込んで」


 ジニアの言葉など一切意に介さずといった様子で、男が歯を食いしばる。


「……見つけたぞ、ジニア」

 男はエリスを羽交い絞めにすると、怒り心頭といった口調で告げた。

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