大気圏流氷に暮らすナギサペンギンたちがかわいい理由

久乙矢

第1話 大気圏流氷と南の塔


 ビー玉みたいにまんまるな星。薄膜状の大気の層は、星を護る羊膜に似て、全球をぴったり覆う。その表面に、剥がし忘れたゆで卵の殻みたいに、流氷のひとかけらがくっついていた。北の極からすこし南に下ったあたり。大気の表層、宇宙との境を漂っている。

 かけら、といってもそれは、星の全貌に比べればの話だ。実際に流氷のうえに立つと、氷床は四方に広がり限りがない。真白な地平はどこまでも続いて、真空の黒に、鮮やかに星の輪郭をなぞる。分厚く、どんなに踏みしめてもびくともしない、頼れる大地だ。

 大気圏流氷は、たくさんのナギサペンギンたちを乗せていた。

 ペンギンたちはかわいらしい。

 身を寄せ合って、いくつものかたまりを作って、透徹の宇宙に向けてさえずる。星海に響く銀河クジラの遠吠えに応えるように、群れに新たに授かる魂たちを子守唄で揺らすように、文字通りに安息の地を謳歌する。

 かたまりの周囲にもペンギンたちは点在していて、カードやら、ペンジャラやらに興じたり、警ドロしたり、読書のふりをしてうたた寝したり、思い思いに過ごしていた。

 一大勢力をなすのは、流氷のへりで釣り糸を垂らすペンギンたちだ。が、彼らはペンギンとしては邪道といえた。釣り糸の先では、若いペンギンたちが流氷から大気層に次々に飛び込み、縦横無尽に泳ぎ回る。眼下にはオーロラが層をなしてゆらめいていて、その遥かな底には空があり、星の海と大地があって、地表を羊雲の群れが這う。

 雲は、生きているのか。

 いつかコペルニッケと議論をした。

 ペンタロウの見立てでは、あれは生き物だ。ナギサペンギンがいくつものコロニーを成し、別れたり集まったりするのと同じように、雲も、空の底で呼吸をして暮らしているに違いない。雲には種類があるから、互いに捕食しあってる可能性もある。言葉を持つかはわからない。

 ナギサペンギンは大気の表層、宇宙との境に生きている。だから、空の底は遠くに眺め降ろすばかりで、実際に何があるかはわからなかった。大気の層に潜りすぎると空に囚われ、戻ってこれたペンギンはいない。

 それでもペンタロウは、空の底、地上に立ってみたかった。

 もしかしたら雲だけじゃなく、点在する島々や、陸域に並ぶ几帳面な石の集まりだって、生きているのかもしれない。赤茶けた土。藻で覆われたみたいな緑のもこもこ。陽光をにぶく反射する、真鍮のように平らかな海。一度でいいから、じかに触れてみたかった。

 コペルニッケも、きっと同じ気持ちだと信じていたのに。


 ペンタロウは、ずいぶん沖まで泳ぎ出ていた。流氷はもうはるか先、星の輪郭あたりに、うっすら浮かんで見えるだけだ。

 それでもペンタロウは遠征をやめない。

 むしろぐんぐん速度を上げていく。くちばしを前に尖らせ、羽をぴったりと胴に沿わせて、おしりを振って舵をとり、身を磁場の流れに乗せ加速する。頭上を銀河が流れてゆく。

 奇妙な雷を見たのだ。

 ふつう スプライトは、発達した積雲から宇宙に向けて放散されて、大気の表層に至るまでにまばゆく光る。けれどもその雷は大気圏を突き破り、宇宙へ抜けて、どこまでも高く昇っていった。雷らしからず、その軌跡は伸びやかな弧を描き、丸い地平の果てまで飛び去った。

 その、過ぎてしまった雷跡を、コペルニッケにも声をかけずひとり、ペンタロウは追いかけてきたのだった。

 十分に加速したところで、ペンタロウは水かきを蹴って飛び上がる。あの雷よろしく放物線をなぞって跳んで、頂点あたりで星を見下ろす。空の底に沈む適当な小島に狙いを定める。そうして鋭く、一直線にダイブする。

 気圏を貫き通すのだ。

 大気の層はペンタロウを拒むように抱き留めたが、ペンタロウは怯まない。なんなら海まで割り破り、星の核まで突っ込んでやる。

 抵抗はみるみる重さ増して、ペンタロウの胸元に気相をつくった。気相は夕焼け色に輝き、綿飴みたいに腹を包む。圧し潰された光がやわらかにゆらめく。焦げた匂いが鼻腔に満ちて、羽毛の先が火花を散らす。

 でも、そこまでだった。

 大気は、飛び込みの衝撃をゴムみたいに蓄積すると、ぽーんと、ペンタロウを優しく宇宙に放逐した。ペンタロウはくるくると回転して、海が、宇宙が、視界の上から下へ、また上から下へと、現れては消え、現れては消え――

 ペンタロウは弾き出されたのだった。

 大気層を弾みにして宇宙に飛びあがるのは、大気圏サーフィンの醍醐味だ。大気の層は、一定の角度で入らなければ突き通せない。だからペンギンたちは加速して、水切りみたいに星の大気に跳ねて遊ぶ。もっとも、その一定の角度で入ってしまう、うっかり者のペンギンたちも後を絶たなかったけど。彼らは流星になって地上に降って、その先は知れない。

 そういう意味では、今日のペンタロウはずいぶん攻めた方だった。攻めた分だけ深く潜れて、高く跳べる。鼻をつくオゾンの焦げた臭いは、最初はくちばしがもげるくらいに嫌だったけど、慣れれば星の味が薫る。


 虚空で、ペンタロウは手足をぱたぱたともがいて、回転を止めた。

 この高さから見下ろす星はいつもよりもずっと丸い。

 流氷はもはや地平線の先に隠れてしまった。

 ペンタロウはひとりだった。

 そうして静けさのなかを過ごしていると、南に、いやに真っすぐな線が見えた。縫い針がぴーんと糸を引くように、星から宇宙に向けて伸びている。真っ暗な真空を背に、か細く強く輝いている。

 あの雷と、なにか関係があるのだろうか。

 線はひどく幾何的で、ペンタロウには、この宇宙にあってはならないもののように思えた。

 そのまま軌道に身を任せて漂うと、ゆっくりと糸に近づいてゆく。

 それは糸ではなく、塔だった。

 地上に根差し、気圏を破り、月を目指して伸びている。

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