第5話

「田浦さん、田浦さん、」

 何度となく名前を呼ばれ、彼は薄霞に沈んだ意識を狭く暗い酒場へと浮上させる。

「大丈夫ですか?」

 悪魔のような獰猛な顔をした店主が眉を寄せ、気遣うように顔を覗いてくる。

「えっと、あれ、」田浦は曖昧な記憶を手繰るが、気付けにと飲まされた琥珀色の酒を飲んだ時点を境に、どうにも上手く思い出せない。


「おや、まだ酔いが回っていらっしゃるようですね。先程までの饒舌が嘘のようだ。」

「饒舌?」微睡むような記憶では店主の言葉を理解することができず、田浦は首を傾げる。「何かオレは話しましたか?」

 余計なことを口走っていないか、田浦の心に再び不安が兆す。

「たくさんお話しいただきましたよ。」マスターの目が細くなり、鋭い眼光が田浦を射抜く。「特に、殺人事件に巻き込まれたお話は、お気の毒です。」


「ええ、まあ、」

 酒に酔っていたからとはいえ、そんなことまで話していたのかと田浦は後悔に苛まれる。

「それで、水上楓さんを殺害した犯人は分かっているの?」

 暗い店の奥から、少女の姿をした人物が疑問を挟んできた。黄色味の強い瞳は好奇心に彩られ、薄暗い店内の照明よりもより明るく輝き、田浦の顔をまじまじと見詰めている。その眼力に気圧され、彼は上半身を反らして距離を取ろうとするが、アルコールに侵された脳味噌がぐらりと揺れ、視界が回る。

 揺らぐ世界の中で、店主の顔と少女の顔がまるでにたにたと笑うこの世ならざる者のように見える。


「大丈夫ですか?」

 店主の声に、再び霞に溶け入ってしまいそうな意識が舞い戻ってくる。

「オレは、あらぬ疑いをかけられたんです。」酔って多くを語ってしまったのならば、いっそう自分の意識のもとに言葉を紡ごう。そう決心をし、田浦は店内にいる二人の人間を見渡す。「どうにか、オレの疑いを晴らすことはできないでしょうか?」


「簡単だよ。」


 返ってきたのは、思いもしない言葉であった。

「あなたの疑われなくするなんて、簡単だよ。」少女は抱えたパンダの人形の前足をパタパタと動かしながら、微笑む。


「簡単って、どうやって、」

 酔っぱらいの繰り言を聞いただけで、どうやって疑惑を解くというのか。そんなことが可能であれば、あの時、教室からわざわざ逃げる必要もなかったのではないか。田浦はその答えを知りたくてならなくなった。

「うーん、でもただで教えるのはなぁ、」今度は人形の足をバタバタと揺らし、まるで駄々をこねるような仕草をパンダにさせる。「そうだ、ここにある飲み物を何か奢ってよ。」

「奢るって、でもここは酒場だし、」

 年齢は定かではないが、目の前の少女の見た目はどう見ても成人前だ。腐っても教員の自分が未成年にアルコールを振舞うわけにもいくまい。田浦が迷っていると、店主が優しく助け舟を出してくれる。

「安心してください。お酒以外の飲み物もここにはございます。」

「そうですか、じゃあ、」

 まるで促されるように、田浦は少女の提案を受け入れ、頷いた。


「決まりだね。」少女の唇がぐにゃりと歪み、怪しげに微笑む。「じゃあ、さっそく貴方の疑いを解くね。」

 パンダのぬいぐるみをカウンターテーブルの上に置き、少女はゆっくりと人差し指を持ち上げる。その指は細く、まるで骨と皮だけでできているような、不気味な形をしていた。そして、その鋭利な指は、じっと田浦を指し示す。


「貴方が、水上楓を殺害した犯人ですよ。田浦昭さん。」


 にたにたと口角を吊り上げながら、彼女は言う。

「ちょっと待ってくれ。何を言っているんだ。オレの疑いを晴らしてくれるんだろう?」それなのにオレを犯人呼ばわりするなんてどういうことだ。期待していた分、裏切られたショックは大きく、田浦の口から次々に何の言葉が紡がれる。

「何を言っているんですか?」しかし、少女はそんな言葉は意に介さず、小首を傾げてみせる。「ですから、疑いではなく、確信させたんですよ。あなたが犯人だって。」


「へ、屁理屈だ、そんなの。大体、何をもってオレが犯人だなんて、君は言っているんだ。」

「何をもってと言われても、ずいぶんと酔いに任せてずいぶんとべらべらお話しされていましたよ。例えば、水上楓の死体が横たわる景色で、夕陽が差し込む様子をおっしゃっていましたが、大館さんの清掃が終わったのが正午過ぎなのに、ずいぶんと時間が経過していますよね。それに、うつ伏せの死体の衣服が乱れて胸がはだけていることや、扼殺されたことも知っていました。いったい、貴方は教室で水上楓とそんな長い時間、何をしていたのですか?」


「なにをって、」

「下手な嘘は言わなくていいですよ。水上楓のパパ活の相手が貴方であることも分かっていますから。」

 彼女の手にはいつのまにかスマートフォンが握られていた。その機種は田浦の良く見知ったもので、カバーも間違いなく彼のものであった。


「さっきうとうとされている時に、お借りしました。」細い指が画面をタップする。「酷い写真ばかりですね。こんなものを見て、心を和ませていたんですか?」

 液晶画面に映し出されているのは、田浦がデートと称して金銭の授受で水上楓と一緒に過ごしている時撮影した卑猥な画像。成熟していない少女の胸や腿、臀部にうっすらとした陰毛に隠れる陰裂。

「何でその画像を開ける。ロックをかけていたはずだ。」

「暗証番号も貴方の感情と同じく駄々洩れだからじゃあないですか?」スマホの画面を消すと、少女は放り投げてそれを田浦に返した。「水上楓が他の男と会っていないか心配したり、男子生徒が彼女へ告白するかもしれないと聞いて不安になったり、恥ずかしいですね。」


「何で君はそこまで、」

「隠しているつもりだったんですか?」馬鹿にするように、少女は深い溜息を吐いて肩を竦める。「『アクロイド殺し』の焼き直しにすらなっていませんよ。」

 黄色い瞳は弓なりに細められ、まるで獲物をいたぶって楽しんでいるかのようだった。このままここにいるわけにはいかない。幸い、一番の証拠となるスマホは自分の手にある。田浦は二度と話さないように携帯電話をきつく握りしめ、気取られないようにゆっくりと地面に足を下ろす。そして、一目散に床板を蹴って店から飛び出せば、図体の大きい男や身体の小さい少女からならば逃げられると踏む。いざ、と田浦が身体の向きを変えた瞬間、そこには壁のように大きな男の身体が立ち塞いでいた。


「お代がまだ支払われていないですよ。」

 マスターは低く獰猛な声を鳴らす。

「気付けだから、お代はよろしいと言ったじゃあないですか。」

「ええ。ですが、彼女への支払いがまだですよ。」

 疑いを晴らしたら、飲み物を奢ると言った分。その報酬がまだ支払われていないと、店主は訴える。あんな屁理屈に約束など果たしたいとは思わないが、眼前に詰め寄ってくる大男の威圧感は圧倒的で、拒むことを許されない。


「分かった。何が飲みたいんだい?」

 下手に逆らうよりも、素直に従っておいて、隙を衝いて逃げ出そう。そう心積もりをつける田浦であったが、残念ながらその隙は永遠に訪れることはなかった。


「貴方の血を頂戴。」


 囁くように言うと、いつの間にか少女の唇は男の首筋に触れ、硬い歯が柔らかい皮膚を嚙み千切っていた。痛みは一瞬だった。次の時にはただただほとばしるような熱が首を中心に広がり、ショットグラスを仰いだ時のように意識が霞の中へと徐々に徐々にと落ちていく。


「何で、」

 田浦の口から微かに疑問の言葉がこぼれる。それは、何でこんなことになったのかというものなのか、はたまた何でこのようなことをするのかというものなのか、その続きを発する力は本人に残ってはいない。

「貴方が悪いのですよ。」少女に血を吸われる男を見下ろしながら、マスターは首を左右に振る。「獰猛な神が宿る場所に入ってくるのですから。」


 店主は振り返り、扉を見詰めて入口に掲げた店名を思い返してみる。mojinsya――漢字にすると『猛神舎』。よくよく迷い込んでくる人間がいるが、はて意味が伝わっていないのだろうか。首を傾げながら、店主は空となったショットグラスを痕跡が残らぬように丁寧に洗った。

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二人の獣――夕陽の教室 乃木口正 @Nogiguchi-Tadasi

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