7月15日 雨だか曇りだか

自分の淹れたコーヒーに値がつくようになってしばらくが経つ。

今でも俄かに信じがたい。一杯で¥700とか¥1000とか。

マクドナルドのセットは買えるし、いい感じのランチも食べられる、そんな値段。


ブランドの力といえばそれはそうなんだけど、毎日何気無く自分のために淹れている一杯。同じ自分の両腕から淹れられた一杯にそれだけの値がついて提供されている。自分の淹れたコーヒーは好きだ。日常に寄り添う優しい味がする。提供はというと、技術的にもコミュニケーション的にも妥協なく提供している。


それでも、


「一杯¥1,000を払えば日本を代表するコーヒーロースターで、トップクオリティのロットが飲める」


それはこれまでコーヒーを愛して過ごした、3年間の自分の価値観や相場観として間違いなかった。だいたいどのロースターに行っても、一杯¥1,000を払えば、人生やコーヒーに対する価値観が揺らぐほどのコーヒーが飲める。あの憧れの雲の上にいるようなロースターが試行錯誤を重ねて、たどり着いたレシピで淹れる一杯。


それと同じ値段でコーヒーを出している。

では、私が淹れた一杯は他者の人生を変えているか。


はじめは、変えてやるんだという気持ちで一杯一杯提供していた。自分の持てる全ての技術を出し、自分が持つ全ての知識を提供する。それはそうだ。これだけ愛を込めて淹れて、コミュニケーションして、そんな一杯には人生を変える力があるだろうと。


ただ、提供する前の味の確認は相当量が少ない、考える間もろくにない。加えて、この豆の適正な抽出はこういう味がするという、先入観のあるテイスティング、あまり当てにならない。


気になるから声をかけてみる。


「お味どうですか?」「お口にあいますか?」


と。


同じ問いをされた自分がそうであったように、口を揃えて「美味しいです。」と答えられる。この質問はコーヒーを淹れた自分を安心させるための問いなんだろうと思った。それはそうだ。この問いに対して「イマイチ」とか「美味しくない」なんて言えるはずがない。自分が提供した一杯、味確認のわずか数ミリリットルでは美味しく感じるけど、一杯350ミリリットルを通して飲むとどうだろう、自信は持てない。


月日は経ち、自分の淹れたコーヒーに値がつくようになって暫くが経過した。あまり良くない意味で慣れた気がする。このコーヒーはこういうコミュニケーション。そんな形式ばったコミュニケーションくだらないと心では思っていた。実際やってみると余裕がない。どんどん溜まっていくオーダー。いつも通りの味、ルーティンを目指して行う抽出。100点満点の抽出ではなく、アベレージの及第点を求める意識。


やがて自分はコーヒーが好きなのか、と疑問に思うようになる。妥協してはいないか、昔はもっと熱を持っていなかったか、と。好きだ、今までの3年間の経験がそう答えていようと、今の行動はどうだろうか。自信が持てない、胸を張って提供することも難しい。


好きなことで生きていく。


これを実現することは難しいな、とつくづく思った。

理想を求めれば益を欠く、益を求めれば元を失う。

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コーヒーに彩られた私の生活 @cafe_diary

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