預者に一杯

黒心

蔵の中の虚構

 朝日が眩しい九月の終わり、まだまだ暑い残暑の憎たらしい夜が遺した汗がびっしょりと首元に残っている。


 薄っぺらい雑巾のような布団を押しのけて立ち上がりさっさと服を脱いで洗濯籠に投げ込んだが汗の気持ちわるさは耐えがたい。


 シャワーをひと浴び、それか水風呂でも欲しい。鏡をみると腐った果実と見間違える褐色の肌がくっきりと映っていた。


 そうだ。


 往年の友と気分の乗らない海浜公園でやいのやいのと遊んだばかり、ナンパ男子の綺麗なシックスパックを舌なめずりをしながら鑑賞したではないか。


 日焼け止めの一滴も塗らなかった?

 そんなことはない。


 私はしっかりと、これを……これを。


 化粧の束から出てきたのはアルコールの入った消毒液だった。


 どうやら私はほんの一滴も日焼け止めを塗っていなかった、間違いない。灼熱原因の太陽コロナと紛らわしいウイルスは思わぬところで私に被害をもたらしている。もう三回目だ。


「どうにかなってぇ」


 ファンデーションやらクリームやら、荒廃した大地に似合うメイクはなかなかに挑戦的、困難と言うかスペランカーを必死にやっている気分になる。あのちょっとした段差で死んでしまう緊張感だ。


 朝イチに私は何をしてるんだ。

 おかしい。


 さっさと乾いてしまった体に綺麗な服をきてフルーツ盛りの朝食を汚し、振り切った髪をクリームで整えながら結んだ。一人、一人と数えて指が割れていないか確認する。


 それから一時間未満、儀式めいたルーティンが済むと私は自分の世界から飛び出して自己稀薄概念の降り注ぐ地獄へと踏み込んだ。この時ばかりは死人を羨んでしまう。


 ロクスウェルの言葉がいつから現れたか知らないが、学校ではよく話題になった。

 笑ってしまう話題でもない。それは救済の書のような内容だったからだ。


「ねぇこの一節にね」


「私はここ、だってハマるもん」


 良く分からない。

 分かってしまってはダメな気がする。


 今日いつもの集まりは、私が含まれるグループではない方の、学校で一冊だけのロクスウェルを手に入れたらしい。昨日は髪のぼさぼさな男子がたった一ページをずっと読み込んでいた。


 それを覗き込んだ時、弓の唸る音が聞こえた。


 申し訳ないことをしたと思う。その子は読書が中断されて結局いじめられっ子に戻ってしまったし、一度読んでしまったからには救われることはもうない。


「いい、あァア」


 後ろで唸ってるグループは本をぱたっと閉じて涎を垂らしている。

 見るに堪えなくてその子のポケットに入っていたハンカチで全員分の涎をふき取って上げて、本をちょっと拝借。


 はてさて、ロクスウェルとは。


 心臓が高鳴って腕がいつになくぶるぶる震える。足は持った時点で動かないしまたびっしょりと汗がだらだら首筋を流れ落ちた。ネイルが剥がれて顔がヒリヒリする。


 不思議と高揚感だけは無くならなかった。


「ね、ねぇ。どうなった?」


「ほら、ほら」


 覗いで頷いて帰ってきたのは手に入れた。代わりにその子は自分の髪の一部をあげた。また生えるからと、長くしなやかな髪は始めからなかったようにキラキラと反射している。その子はかばんから鬘を取りだして慣れた手つきで被りなおした。


 二回目、三回目、もしかしたら四回目なのかもしれない。


 捲れない。捲らせない。


「お前は捨てるものをもっていない、こぎれいな世界を手に入れるために捨てたのだ」


 本が語るに私は振り返るのが怖くなった。




 起きるとべっとりと汗がシーツに染み込んでいるのが見なくても肌で分かる。太陽の焦がすダニの匂いがつんとつんと鼻につく。不愉快さは死体の味だけで、汗はたいして、シャワーの一分でも浴びれば消えていく変なものだ。


 ぐろりと視界が歪む。


「偽りとは、偽りと気付か意味がない。一生の果たした結末は一瞬の死となる。錯乱した魂に真実が舞い込んでも閉ざして塞いで見て見ぬふり続けるから、意味がないとはまさにこのことだといえる」


 机の引き出しを開けると古くさい写真盾が何十とあって一個一個に透明なガラス細工の写真まがいがくっつけられており、ベールを剥していくと無色透明な生き物になった。


 床に落ちている雑巾味がマシと思える腐乱匂を掴む。


 焦げた壁にべっとりと付着する赤茶けた何かに頭を擦りつけてむせび泣くと、本が開いてやっぱり弓の唸る音がぎんぎろと聞こえてくる。


「一番大事なものを覗いてみた気分は捨ててしまえと自分で言った記憶、も捨てたのか。全く絶えないもの、ロクスウェルも万能ではない。綺麗な目を以ても消せる過去は存在しないと同義、一生知己と共に思い出せ、失った塩はいまだ床についているぞ」


 バンダナを眼帯代わりに取りつけてもらい。私はふさぎ込むことに決めた。


「おととい来た、またなくせるものが増えた」


「それは他者だぞ。捨てるのは記憶だけ、残って、酷い味になる」


「これは、これは?」


「本当になにも分からない。おいにゃロクスウェルが生んだ幻影、みえる幻影。目がない代わりの目の代わり、奇麗だろう、綺麗だろう。誕生にお前の塩を使ったんだ」

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預者に一杯 黒心 @seishei

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