サンプル『日日の止り木』5/19:文学フリマ東京38

丹路槇

日日の止り木

 四月一日(月)


  桜並木の細い道を足早に抜けていく。音を立てて吹く風に時折目を瞑りながら、木の根で盛り上がったアスファルトの上を踏み越え、駅から北に向かっていた。いつもの通勤風景ではないということが既に平生の落ち着きを削いでしまっている。大通りからカーブした先の、小川のような形をした一方通行車道の両脇に並ぶ古い樹木は、伸ばした手を絡めるようにして薄藍の空を隠していた。

 交差点にあるコンビニでパンとコーヒーを買う。短い横断歩道の向こうに歩行者信号の点滅が見えた。風が吹くと七分咲きの花弁が足早に舞う。明日は雨模様になる予報を思い出して、たしかに君等の気が急くのは分かる、と誰にでもなく独り言ちた。

 配置転換の辞令で、四月はじめの就業日に、これまでと違う事務所へ向かっている。外観は鴇色のタイルで覆われていて、この桜並木に自然に溶け込んでいた。新人の頃にあった職員研修でここを訪れた時、同期のひとりが「わっ、すごいピンク」とたじろいでいたことを思い出す。

 おそらくこの建物ができた頃には、まだ看護師という職は〝白衣の天使〟というイメージがひとり歩きしていたのだろう。当然に女性職と扱われていたし、数名の事務員以外の教育職員は学校長も含めて全て女性だったらしい。白のナースキャップにワンピースの白衣。それがこの学校で長く守られてきた聖職の象徴だった。

 道沿いに歩いていくと、校舎から出てくる実習着姿の学生とすれ違う。スーツにトレンチコートで身を固めた俺を今日から着任の教諭と思ったのか、一様に会釈しておはようございますと挨拶された。礼儀正しさと幼さが交じる男女の学生を見送る。今の彼らは紺地の半袖に濃紅のパンツという出で立ちだ。半袖はケーシーのように詰襟デザインで、ボタンとポケットの留糸を青かオレンジで好きな色を選択できるようになっているらしい。襟足を刈り上げている女子も、後ろ髪をゴムで括っている男子もいた。

 すれ違った学生を振り返り、後ろ姿を見送ってから腕時計に目を遣る。八時十三分。看護学生の朝は早い。

 今日からの配属先は大学に付置された看護専門学校だった。母体である学校法人に四年勤務してからの異動、いわゆる中古新人としての出直しだ。

 ドアに貼られた事務課の表示を確かめてから、ゆっくりとノブを下ろして押す。中へ入るとスタッフはひとりだけで、上司を含め残りの数名はまだ出勤していないようだった。

 先ほどの実習へ向かう学生とほぼ同じ調子で挨拶をすると、男性職員がパソコンのモニターから顔を出した。見かけたことはあるがどこで何のかかわりがあったのかを思い出せない。思い出せないということは、おそらく新人の頃にこことは別の部局にいた時に出会った人物だった気がする。数年前の新人研修中にローテートした部署を必死に思い出そうとしていると、手を止めて立ち上がった彼のオフィスチェアが後ろへ滑ってこつんと音を立てた。

「おはよう。はは、本当にすずしろれいが来たよ。ちょっとびっくり」

 軽く伸びをしながらにこっと笑いかけるその職員のストラップを盗み見る。ゴシックで書かれたフルネームと証明写真からかつての記憶がようやく呼び戻されていった。

「辞令が出たので。川留かわとめさん、今日からよろしくお願いします」

「や、まだいいよ。事務長もみんなも、始業の三分前まで来ないし。錫白の机はそこかな」

 先月の引継ぎでここへ来た時から荷物置きになっていた空の事務机を指さされ、多分そうですと言って鞄を下ろす。その日は事務長のあぜさんとほとんどの時間を会議室で話したからか、川留さんがここに配置されていることも聞いていなかった。人事課から定期送付されてくる事務局の配置表はたいてい最新の異動は反映されていない。彼も数か月前に附属学校へ赴任したばかりなのだろうか。

 仕事のことを質問しようとしたら、鞄の傍に置いていたコーヒーのカップに手を当てて少し溢してしまった。ぼうっとそれを見守ってしまうと、赤茶に透けた液体は机上に敷かれた透明のマットを滑って足下へぽたぽたと落ちていく。それでも何もしない俺を見かねて、川留さんがティッシュを箱から引き抜いてこちらへ差し出した。

「そんなに緊張しないでいいって。畔野さんと話したでしょ? あの感じ、いつもだから。のどかでいいところだよ、ここ」

 ティッシュを握った先輩職員の手は、太くて丸っこくて血色の良い肌で覆われていた。受け取って濡れたコーヒーを白い皺の中へ引き込んで染み込ませる。すぐに滴るほど液体を吸い込んだちり紙を屑籠へ落とした。借ります、と断って、川留さんの机にあるティッシュを数枚重ねてまたコーヒーを拭き取る。マットの縁まで広がっていた液の溜まりを吸い取らせていきながら、すぐに初日の朝の失敗がどうでもよくなった。茶色く萎んで重たくなったティッシュをまた屑籠へ投げる。窓の向こうに気配を感じて頭を上げると、ちょうど窓の向こうに立派に伸びた桜の枝が見えた。

 細くなった枝先が弾かれたように揺れる。ばさっと花弁が散った時に小さな影が横切った。

 あ、メジロ。

 口の中でできあがった言葉を咄嗟に呑み込む。

 

 事務所を出て駅のホームに立ったのが定時から一時半が過ぎた頃だった。スラックスのポケットから取り出したスマホに打ち込むのはほぼ予測変換でできた定型文で、ほどなくして相手からも簡潔な返事が戻ってくる。

 終わった、今から帰る。

 お疲れ。晩飯いつもみたいに適当でいい?

 まともな独り暮らしをほとんどしてこなかった俺からしてみれば、どんな形でも自炊をしているという日々の功績に頭が上がらない。少しの時間外業務と往復の通勤だけで気力が尽きそうになるような覇気の無さに自分でも呆れていた。業務の比重如何にかかわらず、とにかく手持ちの時間を削がれているという感覚が堪えるようで、口を開けば毎日疲れたと言っている気がする。

 事務員として採用されたとはいえ、そんな小綺麗なデスクワークだけしていればいいということは無論なくて、専門学校への配属初日から恒例の肉体労働があった。看護学生は大学の附属病院で臨地実習をする他、地域のリハビリテーション施設等で訪問看護の演習を積む。学生を預かってもらう各施設へ、大学の備品である自転車を期間中に搬入するのも事務課の業務のひとつだった。畔野事務長が運転する軽トラックに詰めるだけの自転車を乗せ、区内近郊の各施設に所定の台数を配達する。夏季休暇や実習期間外は盗難防止のため、その自転車をまた回収して学校で保管する、出したりしまったりの作業は年に何度も行われるらしい。

 畔野さん自身はこの搬出入の作業そのものをあまり苦に思っていないようで、むしろこれを若手職員に強いることで学校の業務が〝嫌われる〟ことを恐れているようだった。

「俺はさ、自分に子どもいないから、こういう仕事してると、学生さんの面倒見てやってるなって気持ちになるの。もう年だしね。でも川留や錫白くんは違うじゃない。面倒だろうなと思って」

 課せられる労働に相反して、ここの上司は終始穏やかな人物だった。もしかすると自席では大仰に振る舞ったり、碌に実務をしないような人間であったりするのかもしれないけれど、もしそこに何か信念のようなものがあるのであれば、怒鳴り散らされるくらいあまり大した問題ではない。無関心でも結構だ。いちばん避けて生きたいのは、自分と同じような部下を集めて徒党を組むようなタイプで、俺はそれを椋鳥と呼んでいる。幸いにも、ここの事務長は電線に群がってぎゃあぎゃあ鳴く輩とは少し違うようだ。

「面倒ですけど、平気です。次もやります」

「ありがとうね、無理はしないでよ」

「してないです。地図見てると、陣地攻略するみたいで、いいですね。でも次はジャージにします」

 その時の俺は、屈むたびに横髪が目や耳に当たるのが億劫で頭の上で髪束を輪ゴムで括っている。新調したスーツはジャケットもネクタイも座席にぞんざいにかけられ、肘まで捲った白いワイシャツにいくつもタイヤ痕をつけていた。背中を伝う汗が気持ち悪い。事務所に戻って再びネクタイを締める自分が全く想像できなかった。

 ほとんど空になった荷台にロックをかけて助手席へ戻り、最後の老健施設へ向かう。畔野さんは適当にかけているラジオのBGMに合わせてハンドルをとんとんと叩いた。

「錫白くんって結構太いよね。根性ある」

「……すみません」

「いやいや、頼りになるよ。年度末の入試業務で精魂尽き果ててる時に、新年度の入学式とオリエンテーション準備、怒涛でしょ。みんなくたくただから、仲間が増えて安心」

 そう言った事務長は、自転車配置の仕事が終わってから五時ぴったりに退勤した。仲間というのは事務課で協働する一員という意味ではなく、自分の下で残務をこなす仲間ということか、とそこでひとつ腑に落ちる。

 事務所には川留さんの他に二人の職員がいた。履修成績を扱う者、オープンキャンパスなどの入試広報の担当、課外活動や学納金の管理、国家試験の手続きを担う者と完全に業務が縦に分割されている。履修成績の業務はオリエンテーション前の時期、担当教諭とのやりとりや資料の準備で多忙を極めていた。

 少しずつ仕事を分けてもらって翌日の準備を手伝う。台車の上に水色のコンテナボックスを組み立てて、種類別にホチキス留めのプリントの束を積んでいく。日付と学年、印刷部数を書いた付箋をプリント束それぞれの目印に貼り付けた。配布資料の数だけでうんざりする分量だ。学生ポータルでデータファイルを添付すれば済む問題のような気もしてくる。

 川留さんが、コンテナの前で顔を顰めている俺に数が合わなくなったのかと声をかけにきた。プリントに被さった影の方へ振り向いてその男性職員を見上げる。棘のようにまっすぐ生えた硬そうな黒髪に、やや浅黒い健康肌、睫毛が長くて目が大きい。俺が知っている男性という像の輪郭とは違う形をしている。

 このひとは何からヒトに擬態したのだろうか。スズメ、ハト、いや、別種と混群を作るヤマガラが近いかもしれない。そう思うと、川留さんの顔が不思議と頬を膨らませて木枝にとまるヤマガラに見えるのだった。

「数え直す? 足りないところ刷ってこようか」

 囀りは可愛らしいが地鳴きを聞くと本音が見えるようなざらつきがある。木の実を啄む仕草がおみくじ引きのような鳥。

「大丈夫です。終わりました」

 見上げた川留さんの頭の先に、片方が消えかかってちかちかと点滅する蛍光灯が見えた。明日の朝、営繕の内線に電話して付け換えてもらおう。ちかちか、ちかちか。見たものがそのまま音に置換されたように、言葉がずっと思考の奥に残る。

 きっと早く家路につきたいのだ。代わり映えのない情景の中にいたい。自分の手で触れていないと、明日には同じものではなくなってしまう気がする。

 

 最寄り駅に着いて、ロータリーからまっすぐ伸びた県道の路肩を歩く。神社の参道へ行く手前の十字路を西に折れて三ブロック、砂利の駐車場と道路を挟んで向かい側にある薄灰色のマンションのエントランスへ入った。ポストを覗いてチラシと配管修繕の広告マグネットを取り除く。一階の通路をいちばん奥まで進み、鞄から鍵は取り出さず呼び鈴を押した。カチッと通話が始まるスピーカー音がするが、中から応答はない。すぐに通路側の窓からこちらへ向かう足音が伝わる。

「レイくんおかえり」

 立て付けの少し悪い、鉄紺のドアが内側から押し開かれた。入って三和土をあがるとすぐあるキッチンの暖色のランプ灯を見て肩から少し力が抜ける。

 ドアにチェーンをかけ錠をして、ん、とかむ、とか日本語にはならない何かを発しながら部屋へあがった。駅徒歩八分、間取りは2DK、庭はないがベランダが少し立派で収納が多い。そろそろ四度目の更新と言っていたので賃貸契約なのだろう。住人は洗面所と浴室へ先回りして電気をつけながら「思ってたより早いら」と笑っている。

「乗り換えうまくいった?」

「……わかんない。来たのに乗っただけ」

「ご飯、ちょっと待つかもしれないで。風呂入ってきな」

 とんとんと脇から尻を叩かれ、薄く睨み返すと男はまたあははっと声を上げた。当人は料理を始める前にシャワーを浴びたのか、半袖のTシャツにボクサーパンツを履いただけの姿で家の中をうろついてる。

 ダイニングを抜けて磨りガラスの引き戸を開けて居間へ入った。明かりが落ちた部屋に点けっぱなしのテレビの四角が浮かんでいる。鞄を床へ下ろし、外した腕時計をカラーボックスの隙間に適当に置いた。脱いだコートとスーツを掛けるためにそのまま寝室へ行こうとすると、コンロの換気扇の下でおーいと声がかかる。

 呼べばそろそろとやってくるのを、街路でパン屑を撒けば寄ってくる留鳥のようだと思われているだろうか。ネクタイを緩めて適当にシャツのボタンを外しながら呼び声の後ろへ立つと、幅広のスプーンを差し出された。中に琥珀色をした漬けダレがひと口入っている。

 ふうと軽く息をかけると薙がれて薄く伸びるタレを、ほとんど吸い込むみたいにして飲み込んだ。

「美味い、なに」

「鶏の手羽元と卵の甘酢煮」

「絶対好きじゃん。米も食べたい」

「そう思ってさ、今日は三合炊いた」

 もうひと口、と強請ると、鼻面についと匙が突き出される。銀のなだらかな深みに唇を沿わせて今度は喉を鳴らして飲んだ。口の中にじんわりと広がる甘酸っぱさが堪らない。これだけでも先に白米を一杯いただいて待っていたい気分だ。

 着崩したスーツからネクタイを抜き取りながら、しゅうと湯気を上げる炊飯器を横目で確かめる。ラップのかかったレタスにプチトマト、ネギが散らしてある冷奴は、あとは鰯節をまぶして醤油を回しかけるだけになっていた。

 俺が帰宅して風呂から出る頃合を米の炊けるだいたいの時刻に設定していたらしい。とすれば、未だ少しだけ炊飯を待つ時間はある。

 飲み終わった匙を咥えたまま離さない俺に、男は何も言わない。こちらも居た堪れなくなり彼を上目遣いに見られなくなった。噛んだままのスプーンからちりちりと痺れるような苦味が伝う。持ち手を軽く引かれると匙は呆気なく口から抜けていった。コンロのスイッチがカチンと押されて火が止まる。シンクにスプーンを置いた手が、既にほとんど着ているとは言えない恰好のスーツの生地をさらりと撫でた。

「懐かしいなぁ、きみ、はじめにここへ来た時、まだ就活生だった」

「そうだね」

「……ほら、風呂冷めるから、な」

 スーツに触れたのを誤魔化すように、ぽんぽんと頭や腰とあちこちに手を当てられる。ジャケットの肩を摘まれて袖を抜かれ、手に巻きつけていたネクタイを解かれて取り上げられた。

 俺が「瀬崎さん」と呼ぶと、彼もちょっと目を逸らしてから小さく頷いて応える。次の言葉は浮かんでいるのに、言い出す前に少し迷ってしまうとみるみる語気は萎んでしまった。

「チンしよ、布団で」

 消え入りそうな声で告げたのがかえって気恥ずかしい。家政夫みたいにかいがいしく服を脱がせている瀬崎を押し除けて、戸が開いたままの寝室へ向かった。

 スラックスを脱がされた足が敷布団のシーツに擦れる。ボタンを全部外したワイシャツの裾を垂らし、黒のリブソックスを履いたまま座り込む恰好はなんとも間抜けで洒落っ気も何もない。瀬崎がちゃんと後をついてきて、手に持ったジャケットとスラックスをラックの空いたハンガーに手際よく掛けていった。そういえば彼が未だサラリーマンをしていた頃は、同じように毎日スーツ姿で通勤していたのだろうか。

 相変わらず半袖にボクサーパンツだけの男は、癖でうねった襟足の毛を掻いてから、シーツの布地に手を下ろした。この部屋は少し寒いと言ってエアコンのリモコンに触れる。そちらにはほとんど視線を送らず、尻餅ついて立てた膝を揃えた俺の脚を丁寧に開いて体を潜り込ませた。

「怖い顔して、照れてるの、レイくん」

 

 いつか、レンジのチンみたいな味気ないセックスでもいい、と言い始めたのは俺の方だったらしい。

 その時の記憶は全くなくて、次に瀬崎から「チンしよう」と誘われた時にきょとんしたのをひどく笑われたことだけはっきりと憶えている。

 この誘い文句は同居生活において覿面の効果を発揮した。面倒な支度を省いて互いの体を触り合うだけでも許されたし、前日の名残で性行為がしやすい時にも手軽におかわりを強請れる。

 愛にセックスは必要だけど、セックスの頻度と重量は愛の深さと相関しない。発散するなら独りでシャワーに紛れてするよりもちゃんと人肌に触れられて互いの反応を見合うことの方が好きだった。最中には素直に気持ちいいと言える。好きだと口走っても後悔することはない。

 瀬崎が俺の近くにいるのはきっと、ごく一般にある恋愛感情とは別に、限りなく弟に近い相手への責任みたいなものだと思う。昔から他人の面倒を見るのが好きなひとだった。目についた中でいちばん周りから面倒をみてもらえなさそうな俺のことを、相手に困ったり損をしたりしないために世話をしてくれているだけだ。何度考えても答えが出ないから、いつからかそう解釈することに決めた。



〈中略〉


  

 六月二十三日(日)

 

 梅雨入りから半月、毎日降り続いていた雨が、昨夜からぱったりと止んでいる。部屋干しの洗濯物を手で押し除けながら窓の外を眺めると、薄く幕を張ったような曇天からじりっと陽光が漏れ出ていた。五月でも根負けしそうだった厳しい暑さを思い出して、無意識に口呼吸をしてしまう。

 密閉して除湿機を回していた寝室に瀬崎も入ってくると、「レイくーん」と大げさに呼びかけられた。

「……何」

「はは、面倒そうな顔。雨上がってるうちに散歩でも行かない? 外で昼食べようかって思ってるけど」

「どこ」

「ニシヤかな。こないだきみ、また行きたいって言ってた」

「ニシヤ?」

「そうさ、ハムカツの店。忘れた?」

「思い出した。あそこ、ニシヤっていうの。行く」

 押入れの中の収納ボックスから適当にTシャツを抜き取り、そそくさと着替えを始める。袖を通してからすぐそこに立つ男と同じような、黒のVネックにダークグレーのジョガーパンツという恰好になってしまった。せめて靴の色は違う色にすることにして、着替えたばかりの服の入れ替えは思い留まることにする。

 涼感のあるさらさらの布地でできた薄いポケットに財布とスマホを入れると太腿が不自然に膨らんだ。瀬崎は俺の無頓着な様相を見て、うーんと葛藤に唸りながら渋々ボディバッグを肩にかけている。

 家を出て駅とは逆方向へ並んで歩く。濡れたアスファルトから上る気発のせいか、一面にむわっと強烈な湿気が臭った。じりじりと羽が擦れたような音がするのは虫の声だろうか。電柱も街路樹の傍にも野鳥の姿はなかった。時折晴れ間が見えると、がっと頭頂が熱くなる。久々の日光は浴びればすぐに厭になって、恨めしく薄青の空を見上げては降雨が再び始まるのを祈るのだった。

 小学校の校庭をフェンス越しに眺めながら穏やかなスクールゾーンを抜け、竹林や小さな神社が見える横断歩道を渡り、国道へ出る交差点の手前で左に折れる。歩く距離の割に凉をとれそうなコンビニなどは見当たらなくて、赤い自動販売機を見つけた時にふたりで分ける用に炭酸水を一本買った。

 歩道のない細道にも市境の看板が立っている。

「あっち、もう上尾か」

「読めないら、アゲオなんて」

「戸田をヘダって読むよりは親切でしょ」

「ヘダは有名。雪降るの、五十年に一遍だもの」

 確かその話は何度も瀬崎から聞いたなと思いながら、戸田へだが吸収合併された沼津の一体どのあたりだったかをすっかり忘れてしまった。祖母は数年前に他界し、高齢の祖父は未だにひとりで沼津に住んでいたが、もう半年以上顔を見ていない。学生時代は盆と暮れに母が帰省するのに合わせて日帰りで訪ねることもあった。しかしこの頃はその単日の都合をつけることも億劫になっている。

 母は「別におじいちゃんは黎の親ってわけじゃないから、暇な時だけでいいのよ」と慰めに言うが、その貴方が俺の親なので、彼女がしてほしいと思うことは無理のない範囲でしてやらなくてはと思っていた。

 離婚後すぐに父が失踪して、拠り所の無くなった母は俺を連れ、しばらくの間沼津へ帰って生活した。数か月間そこで身内の知り合いも友人もいない中学に通い、母は地元で就職先を探したが、選択肢が豊富な就業と恵まれた就学環境のある首都圏に彼女は強烈な未練を覚える。時間が経過するごとにその後悔は募るばかりで、結局、離婚前に住んでいた浦和からさほど離れていない近郊に舞い戻ることになった。

 その後の進学や今の就職を考えれば、確かに沼津へ居たままだと実現しない分岐点へ出会うことが何度もあった。当時彼女が覚えた焦燥は全くの見当違いではなかったと思える。

 手のひらを返すような決断に、当時の祖父は理解を示したが、敷地内に住む伯父一家は良い顔をしなかった。当然、母は伯父と兄妹だし、ある程度の確執もこれまでの長い歳月の中である一点というだけかもしれないが、それ以来、嫌味と皮肉ばかり言う伯父のことが疎ましく思えてならなかった。祖父の家に行かない理由がそれというのも侘しいが、願わくば次に彼と対峙することになる日は、戸田に降雪がある年まで先延ばしにしておきたい。

「ごめん、レイくん」

 俯いて返事をしなくなった俺を見とめて、瀬崎はぱっと手を取った。普段は割合気を配ってくれる方だが、部屋着みたいな恰好で近所をぶらぶらと散歩する時だけ、彼は俺と手を繋いでもいいと思っているらしい。

「楽しい話がしたかった。悪かったよ。……柿田川にしよう、鳥の話。川の水、きっと未だ冷たいまんまだで」

 あの時よりも目尻の皺を濃くした横顔が、いちばん古い記憶を引き出して微笑む。昔のことを思い起こして、幾度も同じ科白でひとつひとつの出来事に触れ、正しい記憶が保たれていることに安堵する儀式だ。俺と瀬崎が回帰するところは其処が最果てで、その先には結びつくものが何も無く、欲張って深追いすると、事実ではない嘘の回想を作ってしまいそうになるのを、互いが必死に堪えている。

 沼津というところは昔からなんとなく好きだった。今でも街中の道はほとんど記憶できていないけれど、知っているいくつかの切り取られた景色は、ありふれていて、静かで、懐かしかった。スナップにおさめた思考の中の小さな四角い記憶のひとつに、瀬崎がはっきりと映っている。もう十年以上も前のことになるだろうか。初めて瀬崎を見たあの時、田舎のマクドナルドで偶然出くわした年上の男性相手に、臆することなく好奇心だけを頼りにひた走った当時の自分を、今ならちゃんと褒めてやれると思う。

 

 自宅から歩いて十八分、大きな流木の看板が掲げられた定食屋に着いた。西町にあるからニシヤで、週末だけ夜は飲み屋をしているらしい。蒲鉾板みたいな札に手書きで並ぶメニューは道場の門下生が名を連ねているみたいだなと思った。テーブル席で水をもらう流れでそのまま注文する。愛想のない女将さんに「ハムカツ、ライス大盛りね」と頼んでもいない気遣いを伝票に書き込まれた。

「そんな顔しないでも、僕が少し貰うから。やっぱり普通盛りがいいですって言う?」

 思いきり顔を顰めて頬杖をつく俺を面白そうに見て、瀬崎はそっと腕時計に目を遣る。スマートウォッチの点灯した画面は既に消えていたが、おそらく為替の値動きを報せるものだろう。

 俺が大学を卒業する少し前、彼は唐突に勤め先を退社した。準備が整ったとかいい時期だったとか言っていたけれど、それが具体的にどんなことだったかをほとんど理解していない。前からやっていた株式投資、その中でもデイトレードをメインで専業に転換することにしたという。フリーになったばかりの時は、前職でやっていたライティングや校閲の下請けみたいなことも時たましていたようだが、この頃はその様子は見られない。

 平日日中、九時から十五時は彼の本番の時間だ。その他の時間で情報収集や、今のように為替の動向を確認する。夜にはニューヨークダウのチェックもしていて、中長期投資で資産を分散して運用している。

 俺が知りうるのはこのあたりで限界だ。彼らの用語で〝ヒアシ〟とか〝ギャクサシネ〟とか言われても意味は理解していない。瀬崎に〝プシコ〟とか〝ステった〟とか言ってもその医療用語に耳馴染みがないのと同じことのように思う。

「学食でもそう。定食を頼むと毎度ライスが勝手に大盛りになる」

 小声で悪態をつくと、男はコップの水を飲みながら声を出して笑った。

「なんだろうね、みんなレイくんが細くて心配なのかも」

「まさか。腹も少し出てるし、普通の体型じゃん。毎朝走ってるあんたの方が、食べさせ甲斐ある気がするよ」

「そうかな? 飯の担当としては、きみに何か食べさせたいって気持ちは分かるで。女将さんも母性擽られてるってこと」

「母性」

「はは、たぶん、僕にもある。それで欲が出る」

 笑うのをやめた瀬崎の前に、プラスチックの黒盆が運ばれてきた。すぐにこちらも同じ形の盆が配膳される。米も大盛りだったがキャベツの千切りも随分な嵩があった。添えられたプチトマトに亀裂が入って中から果汁が滲み出ている。味噌汁に箸を入れるとぷかりと油揚げが浮かんだ。学食の元気で大味な印象とは違う、武骨で尖った感じの膳が好きだなと思う。

 カウンターに寄りかかる無愛想な女将さんを視界の隅に置きながら、揚げたてのハムカツを齧った。ハムは厚切りではなく、市販のハムと同じ形のものが三枚重ねになっていて、その間にスライスチーズが挟んである。前に来た時の場面と矢庭に重なって、今と全く同じくらい感心したことを思い起こして短く声を漏らした。

「すごい」

「それ、言ってることが前と全く同じ」

 伏せた顔に笑みが戻っている。同じものを頼んだ瀬崎の茶碗には米が適量だし、裂開するほどわんぱくに熟したプチトマトはいない。彼がハムカツを齧るとサクサクと景気のいい音がした。箸の持ち方が綺麗だ。前に母と話をした時、箸と鉛筆を持つ手が好きかどうかはかなり重要だという見解に熱心に同意したことを思い出す。思えばその頃彼女は新しい恋人と交際を始めたばかりで、相手の良い所を隅々まで見つけ出しては列挙するという女子の儀式に付き合わされただけなのかもしれないが。

「そういえば、お母さん元気?」

 思案を読まれているような質問がぽとんとテーブルに置かれる。嫌味のない咀嚼のサクサクが静かに続いた。茶碗の前で先を交差させたまま箸を止める。言葉を探す時に自分の視線が左右に往来する癖が出るのが、その時の視界の揺れで自分でも分かった。

「……彼女、ずっと忙しそうで。異動の話もしてない。夏に会うから、良いかと思って」

 つまらない嘘をついた。これはそうであってほしいというただの願望だ。向こうが連絡を寄越さないのをいいことに、この頃にいたっては電話はおろかメッセージのやり取りもまともにしていない。

 黙ってきつね色の衣に齧りつく。瀬崎が立てるような陽気な音はしない。温かい油とパン粉とハムとチーズ。別々に食べたらちっとも美味くないだろうに、一緒くたにすれば病みつきになるのが不思議だ。

 噛み痕の穴ができたハムカツをキャベツの上に戻して白米を頬張る。家で炊く米よりも粒が小さくて互いがぺっとりと粘着しているみたいに感じる。けれどもこれも不味くない。調子が出てそのままぱくぱくと食べていると、向かいの男が不意にテーブルから端末を取り上げ、シャッターボタンを押した。

 齧ったハムカツを口から離しながら上目遣いにそれを見る不細工な男が撮れているのだろうと容易に想像できる。瀬崎の長い指が器用に伸びてスマホの各辺に関節をかけて持ち直した。今度はテーブルの外へ腕を伸ばしてインカメラを俺と瀬崎の間に向けている。

「ふ、全然笑わない、可愛い」

 画面に切り取られた静止画が浮かび、すぐにシャッター脇の小窓に吸い込まれるように小さくなった。液晶画面の上を長い指がするすると滑り、撮影した二枚の写真を俺のアカウントへ早くも送信したらしい。尻ポケットがブッと短く震える。無視して口に頬張った白米を丁寧に咀嚼する。木の梁に沿って打ち付けられたメニューの札を見上げ、ビールでも飲んだら格別だろうと思いつつグラスの水を飲んだ。男は油揚げの味噌汁を少し残したまま箸を置き、口端をおしぼりで拭う。

「今の写真でもくれればいいら。子どもなんて何しててもいいんだよ。仕事の話だって無理に報せないでも分かるさ。きみはもう少し不真面目になった方がいい」

「なった方がいいって、なに」

 なんとなくそれが変な口調に聞こえてしまって、復唱するとますます可笑しくて我慢できなくなった。濡れたおしぼりで口を押さえても吐息がぷうぷうと漏れる。だめだ、と堪忍して声を出すと、久々に腹が痙攣するほど笑った。

「レイくん、泣いてる」

「あんたのせいだよ」

 不用意に笑ってしまうともう全く食指が動かなくなってしまって、俺は齧ったハムカツと半分ほどの白米を残した。瀬崎がそれを少しばかり減らそうと箸を伸ばしたが、小さい口で衣を噛んだか噛まないかくらいで「うーん、無理だ」と呆気なく降参した。

 帰りは途中まで国道沿いを歩く。消防署の前を通り、ホームセンターのブロックを越えたところで、行きとは逆方向に市境に交わった。さいたま市北区の看板は改称のためか、白い字消しが貼られている。曲線を使った平仮名の地名はその文字以上の何の意味も含まれないそっけない形に見えた。かといって別段、上尾や戸田が浦和や沼津より格好良いわけではないのだけれど。

 

 束の間の雨上がりの匂いを嗅ぎながら、この頃の仕事についてぽつぽつと話した。看護学生が戴帽式を終え、臨地実習が始まったこと。ワクチンの集団接種の会場で針刺しの事故があったこと。

 昨日は初めてのアルバイトで病棟に入る学生の付き添いのため、遅番の業務があった。大学の各附属病院で実習をする学生は、日中と同じ建物の中、同じ恰好をして、夜は違う役割を果たす。小児病棟で親から離れひとりベッドで休む患者ひとりひとりに付き添って〝寝かしつけ〟をするのが学生看護師の業務のひとつだった。専門学校で看護師の資格取得を目指す学生は、四年制の学士を取得する看護学生と異なり、さまざまな経済的事情がある。一度社会に出て別の業種に従事した経験者、育児をしながら就学する者、生活保護を受けながら決死で通学する者。新規アルバイト学生を連れて入院棟の六階までの引率をすると、必ず誰かがおずおずとこう口に出した。

「こちらが勉強する立場なのに、楽な事だけして、お金貰っていいのかと心配になって」

 楽な仕事ではない、と思う。他人の子を、その養育された背景や疾病の重さも知らず、時に力任せに泣き叫ばれるのを、宥めて寝かさなくてはならないのだから。

 振り上げられた小さな腕には点滴のルートが通っている。副作用で毛髪が一本も生えていない子もいる。不随意に体が動いてしまう子、泣くことも話すこともしてくれない子。格子の内にある躯体は総て小さい。意識は大人のようにはっきりとしているのに、その存在の矛盾に眩暈がしそうになる。

 そのうちの誰かひとりでも、俺と姿が重ならなかったことを幸いに思った。境遇はともあれ肉体は健康に生育したことをこの病棟で知り、密かに親に感謝したこともある。感情の機微に聡い学生がひとり、ここでは働けないと号泣したところも見たことがあった。該当者には別途大学の史料室か図書館、病棟薬剤部でのアルバイトを斡旋することになっている。

 昨夜は新人の中に割合しっかりした学生がいて、初めての寝かしつけに室内の三人の幼児を見事に眠りに誘っていた。立ち合いの夜勤看護師も感心していて、今度は彼女が不在の夜に泣かれるようになると言って笑う。

「錫白さんは、お父さんになるっていうイメージはまだないですか」

 普段はほとんど対面することのない、病棟の看護師に問われたのでなければかなり繊細な内容を、ニシヤからの帰路では有り体に話した。元々、瀬崎に隠し事をするのはあまり得意ではない。こういう不躾な言動でも彼は俺を咎めないと過信している。その後の男が俺の拙い独り言をどう解釈して何を言及するのかということの方に関心があった。ただ、そうやって極限まで膨らました期待の塊は、大抵はどうにもされず、ただ時の経過によって萎みゆっくりと朽ちていく。

「雲が分厚くなってきた。これはすぐ降られるで。急ごうレイくん」

 そっと引かれる手を振り解きたくなる衝動を何度押し殺しただろうか。道の真ん中に大きな水溜まりを作ったアスファルトをばらばらの歩幅で大股に踏んでいく。スーパーの前を通る時、買い出しは要らないかと声をかける暇もない。ひょうたん形に立派に延伸した水溜まりには、烏の羽が一片、音もなく溺れている。

 

 夕方からぱらぱらと再び小雨が現れ、その夜は予報通りの長雨になった。重く垂れこめた曇天がリビングにも影を落とす。鼻の奥まで纏わりつく湿気のせいで屋内の活動も儘ならない。翌日からまた仕事があるから、今日は早く夕食と風呂を済ませてしまおうと話していたのに、いつの間にかふたりしてソファで昼寝をしてしまっている。

 起きた時、カーテンの隙間が真っ暗なのを見てしまったと思った。明かりが落ちたリビングに目を慣らすために手で擦ったり何度か瞬きしたりする。俺が外だと思った窓の隙間にある黒は遮光カーテンの生地だと分かった。しかし実際の空も日没に向かって浅紫に染まっている。山鳩の胸の色に少し似て、朱にも鼠にも傾かない半ばの熱が日暮れを囲んでいた。

 傍で眠っている瀬崎の腕が何かを探している。寝返りを打ちたいのか、肩をすくめてもぞもぞと背もたれを這うように動いた。薄く開けられた双眸はまだ寝足りないと無言のまま主張するとすぐに閉じられる。

 ソファの座面から足を下ろし、床に落ちていた肌掛けを引き上げて男の背に被せる。リビングは除湿でエアコンがついていたので半袖でじっとしているとやや肌寒かった。掛布の生地が頬に擦れたのが心地よかったのか、瀬崎から沈み込むようなため息が漏れる。エンジンをかけた時の車みたいだ。雨の日の車に乗り込む時の冷たさに怯える感覚が好きだった。エンジンをかけて走り出ししばらくすると、足元のエアコンが効いてきてじんわりと暖気が出てくる。フロントガラスが結露で真っ白になる。ワイパーがつかえてガラスを掻くような音を出す。その行先はたいてい自宅までの送迎だと頭では理解しているのに、助手席へ座ると何処かへ逃げたきり戻ってこなくていい気がしてくる。

 肩にかかる肌掛けの端を掴み、体をふたつに折って男の傍に頭を突っ込んだ。たぶんそれが瀬崎の匂いだという感覚が確かに伝播する。日頃はそれをほとんど感じていなくて、もし本当に瀬崎のことを無臭だと思えれば、匂いを察知できないということは自分と類似の体臭を持っているという意味だと理解した。匂いのしない匂い。矛盾みたいな姿形のないものに、安心して縋っていられる。

 肌掛けを腕で幌のように突っ張って広げられると薄い影ができた。寝惚け声においでと誘われる。折っていた膝を伸ばして、狭いほら穴に爪先をすべり込ませた。散歩に出た時のジョガーパンツを履いたままの足がソファのたわみに擦れた。添い寝の恰好になるのを待たずに肌掛けごと体を返して瀬崎がこちらへのしかかってくる。

「レーイくん」

「だらしないな、まだ寝るの」

 返事の代わりに癖毛がさらにひどくうねった頭に肩口が撫でられた。肌をくっつけ合っていると、顔を伏せている男の鼓動だけが鮮明に伝ってくる。走った後みたいに速い。少し緊張しているのか、それとも何かに揺すられて心緒が逸るのか、それが少し羨ましく思う。時折彼はそれを確かめるように繰り返し同じ言葉を口にしていた。

「随分前に、こんな気持ちになることはきっとないと諦めてたんだけど。僕は今、胸が焦がれる思いというのはこういうことかって、ようやく分かった気持ち」

「そうだね」

 今ではすっかり馴染みになったその決まり文句に、静かに相槌を打つ。あまり真面に受け取ると、その言葉の質量と感触に呑まれてしまいそうになるから、この頃は宣誓が始まると及び腰になった。当たり障りなく受け流そうと努める俺に、瀬崎は毎度のようにへそ曲がりなことを言う。

「知ってる、きみがさほどそう思ってないってさ」

「そんなこと言ってないじゃん」

「ねえ、ここでオナニー見せて」

「唐突だな、いいよ」

「はは、もう、いっつもいいよしか言わないよね。可愛い」

 くしゃくしゃの頭を押し返そうとしたら、旋毛の近くに白髪が生えていた。断りなく引っ張って抜いても怒らない。摘んだ毛を目の前に持っていってからテーブルの傍へ手を伸ばして屑籠に捨てた。瀬崎はいそいそと起き上がり、肌掛けを肩に負ったまま背を丸くして俺を後ろから抱え込む。耳朶に当たる吐息が温い。まるで大きな綿製の動物でも腕に挟んでいるように、力任せに体を密着させられた。俺が熊にしがみつきながら無心に腰を振るのと、していることは大概変わらない。



〈中略〉


 

 リビングでテレビを見ながら早めの晩酌を始めていると、珍しく窓の向こうから物音がした。雨に紛れて何度も引き摺るような気配がして、もしやあれが久々に、と期待を抱きながらグラスを置いてカーテンを捲る。

「あ」

 声を上げると瀬崎も傍へ寄ってきた。作り直したハイボールとピクルスの皿を持ったまま窓辺に立つと、「コナツ」と呟いて目を細める。

 瀬崎の家のベランダには何年もの間、雨晒しになった段ボール箱が置いてあった。底に古布が敷いてあり、側面に何が描かれていたのかはすっかり褪せて見えなくなっている。それが昔は夏みかんの文字と簡単な果実のイラストが刷られていたのだそうだ。

 きっかけは、今夜のような長雨の晩だったらしい。

「ずぶ濡れの猫が一匹、迷い込んできて。ベランダの格子をやすやす通れるくらい痩せてた。こっち寄ってきて、口から何か吐いたから鼠かと思ったら、仔猫でさ。母猫はまたいなくなって、またしばらくすると仔猫を連れてくる。四匹いたかなぁ、棲家がなくなったんだろうと思った。情が湧いてさ、三毛猫は好きだし、それに綺麗な顔してたから。珍しく手を貸したの。車の荷台にあった空箱持ってきて、要らないタオル詰めてベランダの隅に置いただけだけど。その箱が甘夏って書いてあったから、母猫はアマナツって名前だで」

 アマナツ親仔がここへ身を寄せていたのは俺が瀬崎の家に来るさらに一、二年前の話のようだ。その後もアマナツは次の代の仔を産み、少し育った幼猫を連れてきては、ベランダの隅の段ボールを仮住まいとしていた。

 雨の夜の避難から三度目の育児の時、仔猫の中でひときわ小さく、競争に負けてばかりで餌にありつけない一匹がいた。心配になって、兄弟を蹴散らしながら瀬崎が缶詰をやろうとしても、体の大きなやつが図々しく獲りに来る。

「躍起になって、首根っこ掴んでその兄弟をベランダの外へ投げるの。でもすぐにすっ飛んで戻ってきてさ、今度は囮に別の餌やって、チビにはネコチュウチュウくれるら。食べるのが遅くて、また兄弟に引っかかれる。ああこの子は大人になる前に死ぬんだろうなと思った。アマナツも何もしなくてね、そのチビは母親と同じ三毛猫だった」

 それが、今し方ベランダで段ボールを引きずっていたコナツだった。成体になり繁殖ができるようになると、彼女も母と同じように仮住まいに顔を出すようになったのだという。

 俺の手に渡したハイボールを好きなだけ飲んでいいとか言いながら、キッチンに引き返した瀬崎は猫用のおやつを持ってきた。絨毯の縁に腰を下ろし、カーテンを端まで引き開けると、大きく見開かれた幾つもの双眸がぱっとこちらへ向かう。

 仔猫たちは毛艶も良く、順調に成長しているようだった。きっと初めてコナツがここへ来た時よりも大きいのだろう。瀬崎がネコチュウチュウを持った手を窓越しに振ると、勇ましい三毛猫の仔がガッと網戸に爪を立てて牙を剥いた。

「わ、はは、生意気なやつ来たで」

「食い意地も凄そう」

「どうかな。意外に小心者じゃないかと思うよ」

 半液状のおやつを小皿に少し捻り出して、窓を開けて兄弟猫の鼻面に差し出す。生意気な三毛以外の連中はヒトの手から貰うものに躊躇いを見せない。しかしコナツも仔猫たちも人間の餌付けで生きているという肥え方はしていなかった。この家にいる人間にだけ母猫が許していることなのか、今はコナツは甘夏の箱の中で丸まって目を閉じている。

 残りのネコチュウチュウをパウチのまま手に持ち、なおも網戸に爪を引っ掛けている三毛猫に瀬崎が差し出してやる。蛍光灯の明かりが漏れ出る窓辺でも、三毛の仔猫の瞳孔は開いたままだった。こちらをじっと睨んで微動だにしない。ひとりと一匹の押し問答はしばらく続いた。兄弟猫はあっという間におこぼれまで食べ終えて丁寧に小皿を舐めている。

「チビナツがこんなに怖がりとはね。レイくん、代わりにくれてやって」

 長い節ばった指に埋もれそうなパウチのスティックを受け取り、窓際へにじり寄った。チビナツと呼ばれた三毛猫の三世は大きく口を開けて尖った歯を網戸に食い込ませている。頭を振って窓まで揺らしてくるので、網戸越しに鼻先を爪で掻いてやった。大袈裟に慄いてひらっとベランダの格子まで後退する。尻を上げて背をいからせ、猫らしからぬアオアオという声で鳴き出したので、こちらも図らず狼狽えることになった。

「だめかも、同族嫌悪に近い」

「うそ、そんなことある? 可笑しいな、レイくんはこの小悪党とは全く別物じゃあ」

 まだどんぶりにすっぽりと収まってしまいそうなくらい小さな体をいっぱいの怒りで満たし、ぶるぶると震え続けるチビナツと目を合わせた。目頭に大きな眼脂が付着している。相手が瞬きするのに倣ってこちらも瞼を動かす。爪を隠した丸足が、ぽつぽつとアスファルトを辿ってこちらへ向かってくる。

「チビ、飯だよ」

 ぽってりと黒目が膨らんだ双眸に掠れ声をかけた。鼻孔がひくひくと動いてから、やおら口が開き剥き出しの歯が見える。

 咥えようとする口にパウチを寄せてやる。今度は瀬崎が「あ」と呟いた。力任せにぱくりとやられ、手の甲に三毛猫の歯痕がつく。

「くそ、本当に厭、こいつ俺と一緒だ」

 世話などしてやらなければ良かったと悪態を吐いて手を引っ込める。窓際から落ちたパウチの口に三毛猫は両足を伸ばしびゅんと飛びついた。どうしてそんな形で伸縮するのかと思うほどに胴が自在に変容する。仔猫は液状の餌をぱくぱく咀嚼して、半ばまで腹に入れると残りを引きずって母猫のところへ届けに行った。

 箱の中では、コナツが呑気に大欠伸をしている。

 

  

 九月十日(火)

 

 夏季休暇明けの専門学校は、講義科目の全科考査から始まり、校外実習の手続き、更に翌月の学校祭の準備と終日慌ただしく過ぎ去っていく。

 単科の専門教育課程であるため、ふらりとやってきては履修科目を受けて五月雨に解散していく大学とは少し毛色が違う雰囲気がそこにはあった。入学からずっと同じ顔ぶれの学生と教員が一蓮托生となって目下の課題に取り組んでいく姿は、高校の部活動に似ている気がする。そういう意味で、在校生は同世代の若者よりもやや幼く見えるし、つまりそれは外界に揉まれて擦れた人間が既に失ったり手放したりしているものを未だ当然に持っているとも言えた。

 昼休み、再試験の受験手続きにやって来る学生の応対をする。既にポータルサイトで個別に配信している試験日程と細則を窓口で手渡し、証明書発行機で試験料を入金するのを案内する単調な業務だ。さらに、学生証を紛失して発行機が使えない者や、パスワードを忘れて手続きが滞った者の世話がおまけでついてくる。学籍簿が管理されている基幹システムでパスワードを生年月日八桁に初期化するのがこの頃のルーティンだった。

 今も、派手な装飾を首や指につけた女子学生が以前設定した英数字を失念して再発行申請を書いているのを、カウンターの対面からじっと待っている。ひと昔前に設計された学校の事務所だからか、窓口は旧式の薬局みたいにガラスの引き戸で仕切られた独特な雰囲気を醸し出していた。時折用紙の書き損じで「あ」と声を上げる彼女に、そこは二重線で、とか下に書き直してください、などと機械的な応対をする。

 背を丸めてボールペンを走らせる彼女の後ろを、講義室で実習のオリエンテーションに参加する級友の群が通った。大抵は互いに顔見知りで、ぽんと肩を叩いたり無遠慮に顔を近づけたりしてちょっかいを出しては過ぎ去っていく。

「よっ」

「梛木ちゃん、再試またじゃん」

「席取っとくよ」

「今日の髪かわいい」

「ほんとだ、かわいい、私もそろそろ切らなきゃー」

 たった一枚の申請書をいつまでも埋められない彼女は、友人のひとつひとつの言葉にきちんと手を振り、笑顔を返していた。おそらくこの医療者の卵に必要なのはこういう丁寧なコミュニケーションの方なのかもしれない。されど現代の高度医療の進歩に彼女たちに一寸の足踏みも許されなかった。文献を読み、時に自らが症例報告し、学会で演題発表する場面もゼロではない。看護師という職種は今や医者の小間遣いという立ち位置から完全に脱却した。臨床で患者に向き合い、時に財政・物質・人員を管理する役を担い、他職種との相互交流を怠ってはならない。彼女たちが国家資格を得た後に社会に課せられる職務の重みの分、低学年の座学時間と課題が堆く積み上がっていく。

「スズシロさん、待たせてごめんね」

 歩き去る級友の見送りをひと通り終えてから、彼女は本当に申し訳なさそうな顔をしてこちらを上目遣いに見た。エアコンの効いた室内でも学生の鼻には小さな汗粒が浮かんでいる。途中で、あまりに汚いから書き直した方がいいかと尋ねられ、「ただの控えなので」と言って記入の続きを促した。

 元々、自分には営業や接客を生業にして暮らすことはできないだろうと思って事務職についた。こうして窓口に立ち、顔と名前をなんとか把握している程度の薄い関係である学生の相手をするよりも、自席でゆっくり履修システムや統計データと向き合っている方が気楽だ。軽トラックを走らせる事務長との定期配送業務が苦ではないのは、物言わぬ自転車の扱いに答えを見出しやすいからかもしれない。

 それでも、時たま出現する、俺を事務員ではなく固有名詞で認識している人間に、スズシロさん、とやや舌足らずに呼ばれるのはくすぐったかった。不慣れな発音をされるたびに、相手は悪いひとではないのだと思えるのが、この名前の数少ない良いところだ。

「あ、スズシロさんだ。こんにちは」

 受験手続きをする学生の後ろから、また別の女子学生がひょっこり現れる。今度の若者は入学時からクラス委員を務める成績優秀者、大学の行事や課外活動にも参加する、いわゆる絵に描いたような優等生だ。手入らずの黒髪をひっつめにして、慎ましいムーンストーンのピアスを耳に飾っている。勿論、彼女のことは再試でも実習手続きの不備でも呼び出しをしていない。何か困りごとがあって訪ねたのかと聞くと、俺の肩越しに窓口の向こうを軽く見回してから「川留さんからポータルもらったんですけど」と小声で返された。

「すみません、その件は申し送りがなくて。通知見て分かれば、私が受付しますが」

 応答しながら、はじめの学生に差し出された書面を受け取る。ところどころ失敗を恥じるように黒塗りにされたプリントを自分の方へ向け、ひとつ頷いて受付を告げた。一時間後に暗証番号が初期化することをしつこく言い添えると、「ごめんなさいってば、もう怒んないでよ」と苦笑しながら走り去っていく。その背中を見送る間に、後から来た学生がメッセージを表示させた自分の端末をこちらへ傾け、指で画面をさした。

「うん、スズシロさんで大丈夫だと思います。ほら、部活の特別スポーツ共済金、ここで預かりって言われてるので」

「スポーツ共済金?」

 おうむ返しする俺に彼女はずいっと端末の画面を拡大した。横幅にレスポンスして文字ポイントを上げながら器用に折り返しをするテキストには、確かに部活動に所属する学生の臨時共済加入が云々と書かれていた。徴収はひとり三千円、締切は次週の月曜日。

 専門学校の学生は、母体の大学キャンパスでサークルや部活動に専念することができる。特に運動部はウィンタースポーツの強豪が何種目もあり、学校の垣根を越えて入部する新入生が多くいると聞いていた。彼女も大学の部活動に参加している学生のひとりであることは、わざわざ本人に聞かなくても当然のこととして周知されている。

「これ、二年の子たちでまとめて、五人分です」

 手に持った封筒を差し出された。メモ欄には該当の五名分の学籍番号と氏名が記載されている。受け取る前に制止して、もう一度ポータルの通知を見せてほしいと促した。

「連絡、五人に配信されてるんですね?」

「いえ、代表の私宛に。発信者の署名が川留さんだったので、お渡しすれば用件分かると思います」

「詳細とか、添付ファイルは」

「いえ、これが全てで。あの……催促もされてないし、また出直しましょうか?」

 こちらから発信したものにも関わらず、彼女から説明された共済については全く把握していない案件だった。大学の部局に在職していた頃も正課外の活動や行事について殆ど経験する機会はなかったが、異動後のこれまでで名称くらいは聞き知っているものばかりだったので、個人的な動揺が出てしまったのかもしれない。ただ納入をするだけの手続きで二度足を踏ませるのはさすがに不憫だと思い、何かあれば連絡を入れるかもしれないと断って、その封筒を受け取ろうとした。

 窓口の目の前にある通路をひとが走ってくる。遠くから、「それ、俺の件」と慌てて駆け寄るのは、ちょうど昼休憩から戻った川留さんだった。品行方正な女子学生は、こちらへ迫ってくる事務員にもせっせと腕を振り、俺に向けたのと同じ笑顔で「カワトメさん、こんにちはー」と挨拶した。

「阿部ちゃん、わざわざごめんね。錫白ももういいよ。あと、引き継ぐから」

「いえ、受け取るだけならここで預かります。当番の交代まであと三分ありますし」

「じゃあ今上がって、また三分前に昼から戻ってくればいいじゃん、な」

 それはいったいどういう理屈だ、と思いつつその場から立ち退くと、俺を蹴散らした川留さんにそれきり声をかけることはできなくなった。封筒に入った現金を受け取るだけの用件なのに、そのままカウンターを占拠して長々と立ち話をしている。

 どうもこの件に関して踏み入るなと弾かれている気がしてならなかった。煮え切らないまま自席の引き出しから財布とスマホを取り出し、のろのろと裏の通用口へ向かう。

 昼休憩が明けて一同が各自の定位置に戻ってからも、川留さんの不自然な笑い声に事務課の面々は無関心だ。事務所を出て背中の後ろで古い鉄扉が閉まる。ぶわっと外気の熱に煽られた。早くも汗が伝う襟足をシャツ越しに擦りながら、蕎麦でも食べてさっさと戻ろうと校舎を出る。

 



〈中略〉


  

  

 一月十九日(日)


 ふと目を開けると、仄白い視界からは知らない匂いがした。触り心地でそれがベッドのシーツだということを思い出す。旅館もホテルも、あてがわれる寝具はどうしていつも必ずごわついて冷たい掛布ばかりなのだろう。独り余所へ連れてこられた気分になってやおら体を丸めた。もう一度目を閉じたところで次に目覚めた地点の時と場所を随意に飛躍してくれるはずはないのに、思考が現実を直視しようとしていない。

 こちらの気配を察したのか、傍にあった塊がのっそりと動いた。

「悪い、起こした?」

 声にはっきりと輪郭がある。今ではなくしばらく前から起きていて、スマホを弄っていたら寝直すタイミングを逃したところだったかもしれない。俺とは違って彼は夜の眠りが浅いし、朝は時間になると目覚めた瞬間からきびきびと動ける性質の人間だった。冬の寝入りでも手足があたたかくて、挟み込むように抱きつかれるとこちらもすぐに眠ってしまう。今もそうやってまた俺を寝かしつけようとしているのを、手で軽く押し退けて「その前に気づいてた、もう起きる」と返した。

「正気? まだ五時だで」

「……そうなの。雪は?」

「レイくん寝てすぐだよ、けっこう積もってる」

 掛布団を押し上げてふたつの小山がベッドの上に並ぶ。型を取ったみたいに立ったままの布団がその場で佇むのが面白くて、そっと背を離しながら褥から抜け出した。脱いだ場所に残っている不織布の薄いスリッパを履いて窓辺に近づく。先にカーテンに手を掛けた瀬崎がそっと目を細めながら「みて」と囁いた。

 都心での積雪は社会人になって二回目だった。前回も入学試験の実施日で、交通ダイヤの乱れによって試験時間を三時間遅らせる対応をした。今回は試験終了後の予報だったので、昨日の専門学校で実施された一般選抜試験は、逆に開始時間を一時間早める措置を取っている。

 瀬崎が車で学校の近くまで迎えに行くと連絡を寄越したのが、試験問題の採点が終わる目前の午後四時。彼は移動中に気象庁から発出された大雪警報で、すぐに試験場の近くにあるホテルの予約を取った。自家用車は毎冬スタッドレスタイヤを履いていて、万一の降雪でも走行に不安はなかったが、首都高の交通規制を見込んで即座に動いてくれたようだ。

 結局、実施後の合格判定から手続き書類の発送準備などの処理で、学校を出たのは午後十一時を回っていた。近くにある附属病院の外来棟もとっくに照明が落ちている。厳しく吹き続ける北風に負けそうになりながら、端末を握り、履歴の先頭にある番号に発信した。コール音が始まる前にぷつっと疎通の音が耳元で鳴って、瀬崎の嬉しそうな声を聞いた時、目頭がじわりと潤む。

 後からベッドを抜け出して窓際に寄ってきた男が、寝起きで具合の悪い俺の後ろ毛を手で撫でながら、ふっと安堵の息を吐いた。

「よかったなぁ、昨日。テッペンいってたら、ワイパーで雪かきながらここまで来ることになってた」

 脛より上あたりまでの高さに柔らかく積もった雪に、夜が明けた今も小さな綿帽子がふわふわと降り続けていた。アルミ色をした頑丈なホテルの窓枠の下あたりがびっしりと結露で覆われている。遠くに見える駅前の大通りとデッキには、それでもぽつぽつと人の姿が見えた。

「……瀬崎さん、雪だ」

「今、そう言ったで。レイくんの好きな雪。前に聞かせてもらったよな、きみのお母さん、沼津じゃまったく降らないから、積もると雪かきで途方に暮れてたって」

「そうだったね。瀬崎さんには話してた」

 夜半に覚えたじんわりと痺れるような不安が、寝起きの意識に再び溶けだして濡らし始めている。白く曇ったガラスを指先で掻いて遊ぶと、何かを描こうとする前に男に手を取られた。あまり綺麗なものじゃないと苦笑されながら濡れた手先をティッシュで拭われる。

 声に出して名前を呼んでいないと辛抱堪らないほど、昨日までの労働に疲れ切っていた。連日の終電間際までの残業、どんなに前日の帰宅が遅くても変わらない起床時間、碌に昼休憩も確保できず、合間に急いで呑み込む作業をするだけになっている食事、全員が苛立って殆ど会話をしなくなって久しい事務課の重苦しい空気。

 雑用は総て部下に押しつける畔野さんですら、年明けから会議資料の作成や催事の準備に勤しんでいた。午後七時を過ぎると、待ちくたびれた教員たちが苛立ちながら催促のために事務課の鉄扉の中へ入ってくる。何が大変というわけでもないのに、何もかもが終わらない焦燥だけがそこにあった。繁忙期の過重労働は母体の医科大学の時から慣れてはいたが、専門学校では、処理する業務の分量よりも、他の部署と完全に閉ざされたような孤独が鋭くゆっくりと精神を削いでいく。



〈後略〉

 

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