他人の恋路に巻き込まれる話
「カラス、見つけたぁああ!」
「ぐえっ」
タックルを仕掛けられる勢いで首をホールドされたカラスは、蛙が潰されるみたいな声でうめいた。犯人はジビェだ。そのまま人気のない場所まで引きずっていかれる。
船橋へ向かう廊下での出来事に、居合わせた者が呆れた視線を向けた。それもそのはずだ。この船でここまで大胆にカラスに触れられる者は、命知らずの馬鹿か、何も考えていない馬鹿のどちらかだ。残念なことにジビェは両方に該当している。
「苦し……、はな……せ、って」
ふわふわの金髪と人懐こい顔に騙されてはいけない。ジビェの馬鹿力は人型になっても健在だ。カラスは腕を叩いて必死に解放を願った。酸欠になりそうだ。
そういえばいつだかノクラフにも同じ事をやられたのだが、あのときは身長差もさほどきにならず、むしろいろいろと柔らかかった。谷間に顔埋めるなんて、きっとものすごい幸運だ。俺もやっぱり男だよなぁ、とか虚しく思ったものだ。
なんて意識を遠くにやっていたカラスを、ジビェが慌てて解放した。
「うわ、わ! ごめん! マジでごめん力加減忘れてた!」
「拳で顎砕いたってデマかと思ってたけど、ホントなんだな……」
「カ、カラス?」
何かにつけてジビェの怪力の噂は聞いていたが、実際体験するとは思わなかった。
「それで、どうかしたのか? 俺に用が?」
「ああ、うん。あのな、お前に聞きたいことがあってさ」
ジビェは魅朧と同じくらいに背が高い。ただ、ふわふわした金色のくせ毛と童顔のせいで、どことなく大型の犬みたいな印象を受ける。その彼が背中を丸めてしょげかえった態度でいるから、何か重大な問題でもあるのかと心配になった。
「……カラスってさ、週に何回くらいすんの?」
「は?」
するって、何をだ。主語はなんだ。俺はドラゴンじゃないから、感情を視て会話するなんて芸当はできないんだぞ。
思わず睨みつけるような表情になってしまうのは、どうしようもない。むしろ人間相手だとわかっているのに言葉を端折る方が悪いのだ。ただまあ、ジビェはあまり感情の送受信が上手ではないらしいけれど。
「えーと、ごめん?」
「いいけど。それで、何が言いたいんだよ」
先を促してやると、ジビェは金色の瞳をうろうろとさまよわせた。面倒くさいな。言う気がないなら俺は行くぞ。
「あ、あ、待って待って。えーと、ほら、カラス、キャプテンと寝て……セックスしてるだろ? 蜜月期過ぎてても、キャプテンのマーキングすごいし」
なるほど、そういう話か。
そうなれば『週に何回』云々の主語も理解できて、だからこそ無言で顔をしかめるはめになる。海賊たちに揉まれてきたとはいえ、カラスは本来その手の話題が得意ではない。相談されて答えられるほどの経験もない。
「悪気はないっす」
だからそんなに睨まないで、と困った犬みたいな愛嬌をふりまいて身を縮められると、カラスは溜め息と共に呆れるしかなかった。
ジビェは悪い奴ではない。船員としては一番下っ端らしいけれど、戦闘力は高い。ノクラフより年上だが、それでも充分に若い。おそらく人間で換算するなら、カラスとも年齢的な差はそこまでない。だから、ちょっと距離感はあるけれど、友人の部類に入れてもいいような相手ではある。
それに、元々別の海賊船にのっていたところを魅朧に拾われたことと、この船では珍しい同性の伴侶持ちなので、なんとなく親近感のようなものはある。ただ、お互いの伴侶が伴侶なので、二人きりで話すという機会がそうないだけだ。
「あ、そういえばキャプテンは?」
カラスの感情を正確に読めるわけではないが、ジビェにも群のボスに関する思考は感じられるのかもしれない。今さらといえば今さらな気付きだが。
「さあ? 起きたらいなかった。艦橋にいるんじゃないか?」
「……一緒に寝てんのいいなぁ」
からかっているのではなく、ジビェは本気でカラスをうらやんでいた。嫉妬や妬みではない。憧れに近いものを向けられ、カラスは呆れを通り越した。身構えていたせいで緊張していた肩の力を抜く。
「それで? 週何回だっけ? 教える気はないぞ。聞きたいのは本当にそれか?」
「んえ、う、いや……まあ、本気で回数知りたいってわけじゃなくて、別にセックスの内容聞きたいんでもないんだけど……。カラスって、キャプテン相手で疲れるとかしつこいとか、回数多いとか、前戯雑だとか、中出しやめろとか、そういうのある? キャプテンに言う?」
そういえば、ジビェの評判にはデリカシーに欠けるという項目もあったような気がする。半眼でにらみ上げると、ジビェは太い眉を情けなく歪めた。
「ごめんって。でも俺さ、聞けるあてがカラスしか思いつかなくて……」
これが惚気の類なら、仕方ないと思いながらも聞いてやってもいい。けれど、彼の問いかけはむしろ惚気とは逆の部類だ。さすがにクトレトラに同情してしまう。
ジビェの伴侶であるクトレトラは、最強の海賊船である漆黒の鱗号の航海士だ。それも、船上から海流と海底の地形を感じ取ることができる貴重な能力を所持している。血気盛んな雄龍の中において、非戦闘員としても一目置かれている彼の事情を、こうやって知るべきではないと思う。
「クトレと喧嘩してるのか?」
「え。喧嘩は、してない」
「じゃあなんで、そんなこと俺に聞くんだよ。本人に聞けよ」
カラスが仏頂面でつぶやくと、ジビェは金眼をぐるりと回してから肩を組んできた。内緒話をするみたいに顔を寄せてくる。
「……クトレトラって俺にもあんまり感情さらけ出してくんねぇからさ。カラスだったらわかるかなーって」
瞬間的にジビェをぶん殴りそうになって、しかしその衝動をぐっと飲み込んだ。
抱かれている側ならわかるんじゃないかと、ジビェはそう言っているも同然だ。それは伴侶にもカラスにも侮辱と取られてもおかしくない発想ではないだろうか。
「えっと、ご、ごめん?」
言語として感情を読めなくても、不快感は視られるらしい。咄嗟に腕をどけたジビェは、弾かれるように廊下の先に視線を向けた。
「あ、クトレ」
決して雌的ではないけれど優美でほっそりとしたシルエットは、クトレトラその人だ。己の伴侶を一瞥し、カラスにはわずかに瞳を細め、彼は深海のように冷たい圧力だけを残して通り過ぎる。その眼光の鋭さにジビェが震え上がった。手を振ろうと上げた腕がだらりと萎れていく。
「うう、なんで……、クトレトラぁ……」
彼らはカラスと魅朧が恋人関係になる以前から伴侶だったはずだが、よほど遠回りをしているらしい。こんなふうにすれ違っていて、いつもはどう仲直りしているんだろう。
クトレトラとはそれほど話さないので彼のことはよく知らないが、おそらく両方に原因があるんだろうなとカラスは思った。
「頼むから俺を巻き込むな」
◇◇◇
クトレトラが艦橋に入った瞬間、魅朧は眉間に皺を寄せた。小綺麗な無表情は相変わらずだが、感情が冷え切っている。
特に重要な用事もないし、難航する海域でもない。針路は鷲に任せているから、船長の仕事もなかった。一日一度は顔を出して、そのまま暇つぶしをしつつ居座ってしまう。いつものメンバーは各々好き勝手に過ごしていた。クトレトラが凪いでいようと気にする者はいない。船長以外は。
「どうしたよお前。また何かあったのか」
「ありません」
クトレトラの即答に、魅朧は片方の口角だけを上げる。この優秀な航海士が感情を漏らすことを厭うていても、海龍の長の前では無駄な努力にすぎない。
「何でもねぇ奴の態度じゃないだろ。機嫌悪ぃなら部屋に戻んな」
冷たい言葉だが魅朧の表情は苦笑だった。ちらりと視線を向けたクトレトラは、ばつが悪そうに奥歯を噛んでいる。
「……カラスを放し飼いにしないでください」
ぽつりと漏らした内容に、艦橋の全員が凍り付いた。他人の伴侶に口出しをするのは御法度だ。冗談なら問題ないが、クトレトラの感情は完全に負の物だった。超えてはいけない一線は、案外近くにある。
「いくらお前でも怒るぞ」
クトレトラの冷たさなど凌駕する魅朧の冷酷な声と視線は、若い龍を泣かせるには充分な威力を発揮する。さすがに泣きはしなかったが、クトレトラはうつむいた。
「……すみませんでした」
わかってる。船長に八つ当たりをしたところで、意味はない。
素直な感情が流れ込んできて、やっぱり魅朧は苦笑を深めた。クトレトラがここまで弱っているのも珍しい。溜め息をひとつついて、魅朧は船長席から立ち上がった。
「顔かしな」
優秀な航海士は逡巡をみせつつも海図を睨みつけたままだ。どれだけ逃げたかろうが、逃がす気はない。
「クトレトラ」
「……はい」
逆らうことをやめたクトレトラは魅朧の後に続いた。船長と海図担当航海士がいなくなった艦橋では、誰もが胸をなで下ろした。
「それで?」
甲板の端で足を止めた魅朧は、紙煙草を咥えて火をつけた。一本勧めてやると、珍しくクトレトラは黙ってそれを受け取った。吸い込んで噎せたりはしないけれど、思いっきり顔をしかめる。煙草は好きじゃないが、己を痛めつけたい気分なのだろう。うらぶれた感情が流れ込んでくる。
太陽の位置は昼には遠い。心地よい風と温かさ。遙か遠くに無人島の島影が見える。
「キャプテンは、カラスが他の雄とじゃれあってても気になりませんか」
「なるに決まってんだろ。雌でも腹立つぞ俺は」
「……そうですか」
小さく呟いたクトレトラを見下ろして、魅朧は笑いながら煙を吐き出した。癖のない金髪をかき混ぜてやれば、若い雄は嫌悪感を剥き出しに唇を押さえる。
「俺でも嫌か」
「……雄は嫌いです」
「でもジビェなら許せるんだろう?」
するとクトレトラは、もっと顔をしかめた。
こいつはカラスよりも偏屈でやっかいで頭が固い。感情の流出と同じで言葉も多くない航海士を見つめながら、魅朧は胸中でうなった。
「経験豊富なおじさんに話してみな」
「誰がおじさんですか。思ってもいないのに」
実際にけっこうな年月を生きているが、確かに魅朧は己をおじさんだとは思っていない。煙を吐き出しながら、クトレトラがじと目で見つめ返してくる。笑顔は浮かばなかったけれど、多少気はほぐれたらしい。
話してみろと、あごを上げて先をうながした。煙草の苦みを味わって、心が決まるまで待ってやる。
「……俺は、自分の役割に誇りを持っています」
「知ってる」
「起きていても眠っていても海を感じる。ずっとそうあってきた。けれどジビェといるとき、たまにその感覚が遠くにいってしまう」
「セックスで?」
直球で指摘すると、クトレトラは唇をへの字に歪めた。他人の猥談なら気にならないが、己の性生活を表に出すのは苦痛らしい。
だがまあ、その表情が答えのようなものだろう。
クトレトラは外見のせいで雄龍に散々揶揄されてきた。それが劣等感となって偏屈な性格を形成し、感情を伝えることを忌避するようになった。この船に乗せてからはクトレトラが迫害されるようなことはないが、トラウマは根深い。
そんなクトレトラが得た伴侶は、まったく真逆の雄龍だった。身体はでかいし、成獣になったばかりで若く経験も少ない。だが、戦闘力だけは高く、素手で雄龍の顎を砕くくらいの馬鹿力だ。無邪気で、他人の機微に鈍感で、だからこそたちが悪い。
彼らが伴侶になるまでのアレコレを見て見守ってきた。どうせなら、うまいことまとまってほしい。ある種の親心のようなものを抱いている。
「あいつ選んで後悔してんのか」
「それは、ありません」
「じゃあなんだよ」
「それは……」
伴侶を得るまでにあった葛藤は誰にも漏らさなかったし、後悔しているわけではないけれど、時折自分が怖い。ジビェの無邪気さと尽きない献身に感化され、懐に入れてもいいと安堵したのは初めて抱いた愛情によるものだ。自分が望んでも持てなかった物を持っているジビェを見ていると、愛しているのに憎いとも感じる。彼の態度でこんなにも心を荒らされる。嫉妬心や独占欲なんて自分には存在しないと思っていたのに、腹の底に重たく居座っていた。意識するたび、自己嫌悪に陥る。それが嫌でたまらない。
「おお……」
クトレトラがこんなに感情をもらすなんて初めてじゃないだろうか。魅朧はあふれ出たものを視て、その若さに笑みを浮かべた。
「それで結局、何を悩んでるんだ」
伴侶に対する恋の葛藤で、俺のカラスを引き合いに出すのは何故だ。そう思考を送ってやると、短くなった煙草を握りつぶしたクトレトラが荒んだ瞳を向けてくる。
「カラスは、セックスを嫌がったりしますか」
「するぜ?」
蜜月期はすっかり落ち着いている。求めれば求めるだけ応えていたカラスも、今では魅朧に慣れきっていた。乗り気じゃないときは遠慮なく誘いを突き放す。それで波風を立てていた時期は通り過ぎて、信頼と信用と愛によって大抵のことはなんとかなる。
「……それで、あなたは? 誰かを引き合いにだしたり、しますか」
そこまで聞いて、魅朧は面倒になった。
できればあまり口を出したくない話題だ。セックスを他人と比較しても、どうなるものでもない。
ジビェは若い。魅朧から見ればクトレトラも充分若造で、ジビェとクトレトラの差はほとんどないに等しいが、クトレトラはジビェに比べると成熟していた。クトレトラが嫌がればそれを素直に受け取って、裏を読むことができない。
「思っていたとしても、口には出さねぇだろうな。読ませもしない」
「……そう、ですか」
おおかた、カラスならそんな事を言わないのに、とかなんとか口を滑らせたのだろう。とんだ馬鹿野郎だ。だが、誤解するとわかっていても、自分を曲げないクトレトラもクトレトラだろう。
「だがまあ、俺とカラスとお前らじゃ、立場がまるっきり違うからな。お前さんはジビエ相手にもあんまり素を出さんだろ。腹ん中まで見せてやりゃぁ、あいつだって少しは落ち着くぞ」
この二人に何が足りないと言えば、絶対的に会話が足りないのだ。高揚した感情だけで過ごす蜜月を抜ければ、後は深いいたわりと理解の再確認である。本来相手の深い部分を好んでしまったからこそ伴侶にするのであって、熱が冷めて怖じ気づくことはあまりない。
「依存しそうで怖いんです。俺は雌じゃない」
「してやんねーとジビェが可哀想だろ。ましてや伴侶相手に性別なんざ関係ねぇ。俺に喧嘩売ってんのか」
「そういうわけじゃありません。ただ、あいつが、カラスと肩組んで顔付き合わせてるところに苛立つなんて、自分が信じられない」
ようやく漏らした本心にやっとかと思った魅朧は、しかしその内容に眼を剥いた。
「待て、何つった」
「いつの間に親友みたいな付き合いをし始めたんですか? 俺が逆に聞きたい」
カラスが他の雄とじゃれ合えば腹が立つと断言したその通りに、魅朧は顔を引き攣らせた。
「あんの駄犬……。お前がしっかり手綱引いとかねぇからだろうがッ!」
「俺のせいにしないでくださいよ! カラスの警戒心が薄いんじゃないですか⁉」
余裕ある理解者と悩める青年の図が、あっさり覆った。
「第一、俺にはあんなことしないくせに、とやかく言えませんよ恥ずかしい!」
「お前スキンシップ嫌いじゃねぇか!」
「そんなもの相手に因るにきまってんじゃないですかっ!」
ほとんど口喧嘩に近いところまでいってお互いを睨みつける。そして、会話の内容を反芻して、途端に冷めた。
「馬鹿馬鹿しい」
「……そうですね」
魅朧は短くなった煙草を甲板に投げ捨てた。もう一本吸うかと懐の箱を取りだしかけ、舌打ちをする。鬣みたいな金髪をかきむしった。
「仲良く上がってきやがって」
「ジビェとカラスですか」
「ジビェのスキンシップは無垢だが無害じゃねぇ。お前がもうちょっと心開いてやりゃあ、アイツも安心するだろ。意地なんぞ捨てちまえよ」
「俺は、カラスのように変われません……」
クトレトラは瞳を伏せた。こんなしおらしい姿を俺じゃなくて伴侶に見せてやりゃあいいんだ。そうは思うが指摘するつもりはない。代わりに、意趣返しを思いついた。
「クトレトラ」
何度目かわからない舌打ちをした魅朧は、まだ説教をされるのかと意気消沈している航海士を呼んだ。しぶしぶ顔をあげたクトレトラに腕を伸ばす。
そして。
「ぎゃあああ!」
甲板にジビェの悲鳴が響き渡った。
◇◇◇
至近距離で叫ばれたカラスは耳を押さえながら、無駄にでかい体躯の隙間から甲板を覗きこんだ。ジビェが邪魔だ。固まってないで動いてくれ。
艦橋の連中が顔を出して、あきれ顔で引っ込んでいく。そのメンバーの中には魅朧はおらず、ぐるりと見渡せば甲板の端に黒衣の長身を見つけた。
「……どういう状況だあれ」
カラスが思わずつぶやいたのは、魅朧がクトレトラの肩を引き寄せて抱き合っているからだ。いや、抱き合っているというのは語弊がある。魅朧がクトレトラの頭部を自分の肩口に埋めさせていた。慰めているように見えなくもないが、クトレトラに限ってそんなことは絶対にしないだろうとカラスは確信を持っていた。
「クトレ……、なんで……」
混乱して頭を抱えているジビエを押しのけて、カラスは魅朧の元へ足を向けた。黄金色の瞳を悪ガキみたいに細めた魅朧の態度はどうでもいい。動きを止めているクトレトラの方が問題だ。
彼は他者との接触が苦手だと聞いている。特に雄が嫌いなのだと教えられた。船員に絡まれて嫌悪を剥き出しにしている姿も見たことがある。普段なら、触ろうとした途端に避けるか手をはたき落とすくらいするはずだ。
表情がわかる距離まで近寄って、咄嗟にカラスは駆けだした。クトレトラを引き剥がし、魅朧の胸ぐらをつかみ上げる。
「何してんだあんた!」
露出度の高い龍族にもかかわらずクトレトラはあまり肌を見せない。かろうじて見える首筋には鳥肌が立っていた。心なしか顔色も悪い。
「うーわ、お前マジで雄嫌いなんだな」
「試すな! 仲間いじめて笑ってんなよ! クトレトラに謝れ!」
「……雄臭い」
今にも吐きそうな様子で手の平で口を覆ったクトレトラは、ふらふらとよろけながら欄干にもたれかかった。介抱してやりたいが、だからこそ触れられない。カラスが近づかないようにしている理由は、そのほうがクトレトラのためだからだ。
「何で俺、ジビェじゃなくてお前に怒られてんだろな」
困ったように笑う魅朧は、胸ぐらをつかまれて屈んだ体勢を利用し、そのままカラスに顔を寄せた。ちゅう、と場違いに可愛らしいリップ音が響いて、思わず赤面してしまった。
こんな状況でキスをされるなんて予想外だ。後退ろうとして、逆に腰を抱かれて逃げられなくなる。離してほしいが、いくら暴れたところで腕の力が緩むはずもない。
「まったく、簡単に他の雄の匂いをつけてきやがって」
「俺の意志じゃない」
「だからなんだよ」
そう返されるとカラスは黙るしかなかった。理不尽が許されるのが魅朧だ。もっとも、彼が傍若無人な態度でいるのは、カラスを信頼しているからだ。ついでに、ジビェをからかっているのだろう。それがわかるので、カラスも抵抗しない。
魅朧はカラスを抱きしめたまま、首筋にキスをした。まるで見せつけるように触れ合ってくる。カラスとしてはすぐそばにクトレトラがいるので、気が気じゃなかった。
「気にすんな。俺に任せとけ」
そっと吐息を吹き込むように、魅朧が耳元で囁いた。そのくすぐったさに首筋がぞわぞわして、カラスはたまらず肩をすくめた。だが、そうだな。この手のことはドラゴンに任せておいたほうがいいだろう。
「おい、ジビェ。お前、俺のカラスに気安くじゃれるんじゃねぇぞ」
船室から甲板への出入り口に囓りつくジビェに、魅朧は割と本気で喧嘩を売っていた。
「……キャプテンに言われたくねぇっす」
そして、ジビェは遠吠えに近くとも喧嘩を買った。さすがのカラスも、ドラゴンじゃなくたってわかる。
魅朧が口角をつり上げ、黄金の瞳が細められた。
ああもう、面倒だな。俺は無関係だろう。これ以上修羅場に巻き込まないでくれ。
カラスは天を仰いで、魅朧の腕に体重を預けた。
◇◇◇
どうしよう。
俺のクトレトラに触るなって、キャプテンを殴りにいっていいのか。めちゃくちゃ殴りたい。なんで俺の伴侶に手を出すんだ。いや何かされてるわけじゃ、なさそうだけど。でも、クトレはつらそうだ。ああ、クトレトラ、なんでキャプテンのそばになんているんだよ。
抱きしめに行きたい。でも、べたべた触るなと言われている。やりすぎると怒られるし、クトレトラの嫌なことはしたくない。あいつは本当に雄が嫌いなのだ。かろうじて俺には打ち解けてくれているけど、……俺じゃだめなんだろうか。クトレにふわさしくないのだろうか。
それとも俺みたいな子供で馬鹿な男はプライドが許さないのだろうか。俺はキャプテンのようにはなれない。こんなにクトレトラのことが好きで心配でたまらないのに。愛してるのに。クトレしかいらないのに。
もどかしい。こっちを向いてくれ。俺を呼んで。まさか愛想尽かされたのかな、そんな……。
ジビェの垂れ流す感情に、魅朧は呆れた。
隣にいるクトレトラですら、口元を覆っていた手はそのままに、顔を上げて己の伴侶を凝視している。唖然として、恥ずかしくて、馬鹿みたいで、愛おしい。こちらはこちらでそんな感情が流れこんできて、胸焼けしそうだ。
「ジビェ」
クトレトラが呼ぶと、尻尾を股の間に入れて怯えきった犬みたいなジビェがよろよろ近寄ってきた。
「クトレトラ、俺のこと捨てないで」
涙目のジビェが伴侶に情けを乞うた。
魅朧は何もかも馬鹿らしくなって、若い伴侶たち両方の頭を叩いた。
「キャプテン⁉」
後頭部を押さえながら、クトレトラが不満を訴えてくる。うるせぇな、お前も同罪だ。反論をぶつけてやると、優秀なはずの航海士がぐっと唇を引き結んで、それから小さく溜め息をついた。
「あの……、二、三日休んでも、いいですか」
「むしろ纏まるまで顔だすなアホどもめ」
魅朧はカラスの肩に腕を回して、艦橋へ足を向けた。付き合ってられん。どうせやることはなかったが、海図担当官がいなくなるなら、それなりに仕事は生まれる。
「クトレ、大丈夫か? 気持ち悪い?」
「いいから、置いていきますよ」
「待って! え、あ、……いいの? 俺、たぶん我慢できないけど」
「そんなの今さらでしょうよ」
「ん、……うん! 好きだよ。大好き」
尻尾を振り回して喜ぶ犬みたいなジビェが、クトレトラの背中に抱きついていた。他のどんな雄龍が嫌いでも、伴侶だけは許せる。いや、伴侶だからこそ、雄だろうが受け入れられるのかもしれない。
だが、魅朧にとっては、どうでもよかった。彼らの感情のやりとりを、これ以上覗き見するつもりはない。
「結局なんだよ。俺たちは噛ませ犬扱いか」
船室へ降りていく二人を横目で見送りながら、カラスがつぶやいた。まったく、彼の言う通りだ。
「あいつら、何年たっても成長しねぇ」
定期的に揉めてはくっついて、それを繰り返している。クトレトラはともかく、あれはジビェが雄としてもう少し成熟しなければ落ち着かないだろう。そのうちまた、懲りずに痴話喧嘩が始まるに違いない。
「まったく、お前の方がよっぽど素直だったな」
「誰かを引き合いに出すと、あの二人みたいに揉めるっぽいけど?」
「そりゃ勘弁」
鼻を鳴らして笑った魅朧は、己の伴侶を引き寄せてこめかみに唇を押しつけた。カラスはくすぐったそうに笑うだけで、触れ合うことを厭わない。
「適当に目的地を決めて、俺たちもしけこむか」
「あんたはジビェの謙虚さを見習えよ」
は、と魅朧は吐息で笑う。
「……確かに、引き合いになんか出すもんじゃねぇな」
それで怖じ気づくより、闘争心が湧き上がるのが雄龍というものだ。己の伴侶が他の雄の名前なんて出せなくなるくらい、全身全霊で愛を刻みつけたくなる。
ぐるぐるとうなった魅朧は、せめてもの味見とカラスの耳を甘噛みした。
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