十日間の憂鬱

※本編後わりとすぐの時期です※



 大海原で唯一の都市エデューマ。犯罪者も命知らずの観光客も海賊も、ここでは誰もが平等だ。島の掟はひとつだけ。組織間の抗争をするべからず。それさえ守っているのなら、おおよその罪は問題にされない無法者の街。

 この街を、最愛の相手に案内するつもりだった。せめてもの気分転換になればいいと願っている。

 上陸してまずやることは、馴染みの酒場に顔を出すことだ。魅朧は言葉少ない伴侶を気にかけながら、見知った路地に足を踏み入れた。

「やっだぁ! ケダモノの眼だわぁ、魅朧」

「最近おみかぎりじゃなぁい?」

「発散させてあげるから、寄っていきなさいな」

 夕暮れに閉める店もあれば、夕暮れからが稼ぎ時の店もある。エデューマでも特別な埠頭から続く歓楽街のさらに奥、娼館の女達が甲高い声で笑いながら声をかけてきた。

 海龍は生涯海で過ごすが、稀に陸で暮らす者もいる。大抵が港町に居を構えるので内陸に引っ込むことはないし、定期的に海に潜ったりはするけれど、船を下りる選択をした者たちだ。

 この娼館に住む雌龍たちは自由恋愛を楽しむために娼館なんて場所を作った。めぼしい繁殖相手を待ち構えている手強い女達だ。相手は同じ龍族に限るので、事情を知らない人間達はおいそれと近づけない。

「新しい子が入ったのよ。族長に仕込んでもらえるなら箔が付くんだけど」

「どうせ他の港の娼婦じゃ満足できてないんでしょ。アタシたちと遊びましょうよ」

 腕を取られて抱きつかれる。久しぶりの柔らかさでも、驚くほど食指が動かなかった。伴侶を得てしまえばここまで変わるのかと、ある種の感動すら覚える。

「遊ばねぇからそこ退きな」

「なあに? やせ我慢?」

「人間飼ってるなんて噂流れてるわよぉ? 族長、そんな悪食だったっけ?」

「噂もなにも、伴侶だっつの」

「ウッソでしょ!」

 露出度の高い金髪美女が豊満な胸を揺らしながら艶やかに笑っている。魅朧はたまらず舌打ちを返した。ひとりで行動しているならまだしも、今日はツレがいるのでこういう絡みかたは遠慮したい。

 案の定、すぐ後ろにいた伴侶の感情が散々に乱れて、かと思えば突然凪いだ。なんだと気を取られた瞬間、女たちに腕を取られる。その横を避けるように影が走り去った。

 金髪ばかりのこの地区では珍しい灰色の髪。しなやかでも雄龍に比べたら充分華奢だといえる体躯。魔術で姿を消さなかっただけ上等だが、足音もないのにあまりに素早い。

「おいッ、……カラス!」

 焦った魅朧の声など珍しい。娼婦たちが唖然とした顔で魅朧を見つめている。押しのけて追いかけてもよかったが、角を曲がった後ろ姿から強固な拒絶を感じて、咄嗟に足が止まってしまった。

「なによぅ。人間がいたのぉ?」

「馬鹿野郎お前ら、あれが俺の伴侶だっつーの」

「はぁ⁉」

 がっくりと肩を落としてつぶやく魅朧に、女たちが甲高い叫び声を上げた。一番後ろにいた年嵩の女が、煙管をくゆらせながらにんまりと笑う。

「あらぁ、デマじゃなかったの。ホントだったのね、あの噂」

「姐さん知ってたならなんで教えてくれないのよぅ! アタシ完全に悪役じゃないさ!」

「ちょっと見てりゃ、魅朧のマーキングに気付くってもんでしょ。甘ちゃんね」

 きゃんきゃん喚く雌達に、魅朧はたてがみのような金髪を乱暴にかきあげた。ただでさえ微妙な時期だというのに、追い打ちをかけてくれやがって、と頭痛がする。

「いいの、魅朧。逃げちゃったままよ?」

「よかねーよ……」

 黄金の瞳を細めた魅朧は、龍の感覚を最大限に拡げて己の伴侶の気配を追った。目的地だった酒場とは違う路地へ潜り込んでいる。まだ周知されていない状況で、この辺の地区をふらふらさせておきたくない。カラスの実力を侮っているわけではないが、混じり者がいたとしても大概が海龍だ。人間相手とは質が違う。

「ずいぶん面倒なのに手をだしたわねぇ。悪趣味ぃ」

「ほっとけ。好きでやってんだよ俺は」

「あぁら、我らが魅朧の口からそんな言葉が聞けるだなんて驚き」

 その辺にしておけよ。

 半分は威嚇を込めた怒りを向けると、煙管を咥えた雌龍以外が飛び上がった。面倒事に巻き込まれるのはごめんだと、くるりと背を向けて店の中へ戻っていく。

 最近はカラスという人間が側にいるので、感情を伝えることが疎かになっていた。元々苛立ちを抱えていたこともあるし、不要な波風を立てたくなかったのだ。だが、最初からこうやってアピールしておけば、彼女たちに絡まれることもなかった。すっかり牙を抜かれている。

「奪って犯して殺すのが海賊でしょう? 手綱を放すなんてあなたらしくない」

「オレの伴侶は繊細でな」

「それでも、どうにかしなさいな。あなた、そんな飢えきった気配のままでいるから、うちの子たちに絡まれるのよ」

 魅朧は何度目かわからない舌打ちを返した。彼女の指摘に反論ができない。

 確かに欲求不満だった。発散の手立てはあるのに、行使できないでいる。

「部屋使いたくなったら貸してあげるわ」

「どうせ全員総出で盗み見しにくるんだろ。勘弁しろよ」

「あらまあ、本当に伴侶に首ったけだこと」

 肩をすくめた魅朧は、それっきり応えずにその場を去った。足の向く先は己の伴侶が逃げた方角だ。

 さて。

「……どうすっかな」

 ここ十日というもの、性的な意味でカラスに触れていない。カラスにかけられていた呪術を解いて、何の憂いもなく蜜月期間を堪能しようかと思った矢先のことだ。突然お預けされて、行き場のない衝動が渦巻いている。

 正直なところ、めちゃくちゃにヤりたくてたまらない。毎晩伴侶が隣で寝ているのに、指をくわえて見ているだけだ。生殺しもいいところだった。

 カラスとセックスをするようになってまだ日は浅いが、本人の体調と体力を鑑みながら、ゆっくり丹念に愛を注いでいた。暴走しそうになる本能を諫めながら、誠心誠意優しく接することを意識していた。

 雄龍は執着心と独占欲が強い。手に入れた宝は滅多なことでは手放さないし、大事に大事にしまって自分だけが愛でられるように隠しておきがちだ。相手が同じ海龍ならうまく制御してくれるけれど、カラスはドラゴンの生態などまったく知らない人間だ。魅朧が自制しなければ限度もわからない。

 本当はカラスを船長室に閉じ込めておきたいのだ。手ずから食事をさせて、全身を舐めて、歩くのだって許したくない。強烈な支配欲が本能の正体だ。そういう行為が人間を困らせることは理解している。だから、ほどほどに行動に移していないつもりだったのだが、どうやら我慢できていたわけではないらしい。

 カラスはそれを優しさだと認識していた。そんなに甘い物ではないのだが、誤解したままでいてほしいとも思う。何にせよその『優しさ』が過ぎて、カラスは魅朧に抵抗をみせた。怖がられないだけマシだが、今回ばかりは明確に嫌がった。

 拒絶は駄目だ。

 それを出されると、一歩も踏み出せなくなる。

 雄龍は執着心と独占欲と支配欲の塊だが、愛の奴隷なのだ。伴侶の意思を何よりも優先する。

 不可抗力で無理矢理納得させて肉体関係を持った自覚はあるが、それでも今まで、カラスは本気で嫌がらなかった。嫌悪するという知識があったかは謎だが、少なくとも納得はしていた。

 カラスは、知識があっても自分が性的対象になるなんて想像もしていなかったのだ。そういう育ち方をしている。そんな真っ新な砂浜みたいな身体に、快楽を叩き込んで染め上げた。

 若い身体は貪欲で、彼は与えられるままあらゆるものを受け入れて、飲み込んだ。ろくな情操教育もされず、無価値で、使い潰しのきく奴隷だったと思い込んでいたカラスを、愛でどろどろに溶かして自我を与えた。

 おかげで最近のカラスは魅朧に反論することを覚えたのだ。それはいい。感情がダダ漏れなことを嫌がったので、遮蔽術を使うことも許してやった。それがいけなかったかもしれない。

 深層心理まで視てしまおうと思えば、他でもない魅朧だから造作もない。だが、だからこそ、無理矢理こじ開けるようなことはしたくない。一方的な支配で得られる快楽より、想われて求められる方が何倍も幸福なのだと知ってしまった。

 愛しているからこそカラスの意志を最大限尊重したかった。今更といえば今更であるカラスの困惑に、決着がつくまで付き合おうと思っている。セックスはしていなくても、それ以外は変わらない生活を送っていた。隠し事をするのが後ろめたいのか、俺の顔をみるたび怯えるような態度になるのも可愛らしかった。

 何かを可愛いと思う感情が俺にあることが驚きだ。だが、それ以外にカラスをなんと表現すればいいのかわからない。俺の伴侶はあまりに可愛らしくていじらしい。本気で閉じ込めてずっと愛でていたい。

 しかし、心の余裕と体の欲求は別らしい。直ぐ傍にいるのに触れられない不満は、徐々に蓄積されていた。今すぐ犯してしまいたいという凶暴な感情を、ひっそりと隠している。苛立ちをカラスに向けることはないけれど、それ以外に対して顕著に表れていた。だから、娼婦たちに嗅ぎ取られたのだ。

 若造でもないくせにと思いながらも、どれだけ齢を重ねても欲求が薄まらないのが龍という種だ。

 人間相手に愛情を感じたことなど皆無だ。欲にシンプルで感情を伝えあえる龍とは、思考回路からして全く違う。それでも面倒だとは思わない。罠を仕掛け陥れようとも思わない。

 自分は信頼と信用に足るのだと、カラス本人が理解するまで幾らでも待とう。

 何もカラスに性格を変えろと言っているのではない。あれはあのままだから惚れたのであって、龍を真似てほしくもない。龍の情が深く重いことに怖じ気づいたって構わない。

 ただ、認めてくれると浮かばれる。護ると同時に奪い続けることを理解してくれると嬉しい。対等に口をきいて、貪欲に奪い返してくれるなら幸せだ。

 カラスが求めることに慣れていないとわかっていた。些細な変化を羞恥と感じても仕方がない。なんて歯痒く、いじらしく、愛おしい生き物だろう。

 逃げたカラスを放置する気のない魅朧は、少し考える時間を与えようとばかりに、ゆっくりとした足取りで歩みを進めた。



◇◇◇



 娼館の立ち並ぶ路地を抜け、脇道に入って、ようやくカラスは立ち止まった。エデューマは初めてだ。それでも本能的に暗くて狭くてじめじめした建物の隙間を選ぶあたり、暗殺者だった頃の癖が抜けていない。

 補助魔術も使わずに走ったので息が弾んでいる。深呼吸を繰り返していると、なんだか目頭が熱くなって、奥歯を噛んで衝動を耐えた。

 魅朧を置いてきてしまった。追いかけてくる気配がないことに、安堵と落胆を覚える。今は思考を読まれたくはないから、隣にいないことは願ったりだ。だが、いつもべったりくっついているのに、逃げても追ってくれないことに動揺していた。なんて矛盾した感情だろう。

 自分はずるい。そして、とても面倒だ。自覚はあるが、どうしようもできない。

 そもそも、この十日というもの、なんとなくお互いにギクシャクしていた。

 原因はわかっている。俺が魅朧の愛撫を嫌がったからだ。たった一度の拒絶で、魅朧は一定の距離感をとるようになった。

 魅朧に抗ったきっかけは、行き過ぎた羞恥心だったと思う。出会った頃はまだ強引さがあったのに、ここ最近の魅朧はあまりに優しすぎた。優しいというか過保護というか、俺が動く前に先回りしてくる。

 穏やかで慈しむように抱かれると理性を飛ばせない。どこか冷静に自分の状況を把握できてしまって、どうしていいかわからない。腫れ物に触るような扱いと、上げ膳据え膳の状態が折り重なって、ついに耐えられる限界を超えた。

「いい加減にしてくれ!」

 そう、ほとんど反射的に叫んだ。嫌だ、やめろ、勘弁してくれ。そんなことを感情でいっぱいになっていた。

 けれどすぐに後悔したのだ。誤解だと訴えたかった。だが、嘘はついていないのだ。自分でも混乱していて、謝るタイミングを逃してしまった。

 魅朧のことだから、きっと俺を言いくるめて何もなかったみたいに事が進むのかと思った。それが、ただ安心させるみたいに抱きしめて、なだめられて、愛を囁かれるだけだった。それはそれで心地が良くて、連日の色疲れが出ていたカラスは安心して眠ってしまった。

 それから十日、ただ愛でられて眠る夜が続いている。セックスの最中に嫌だやめろと訴えたって止めてくれない時もあるのに、どうして今回だけは過剰反応するのだろう。理由を尋ねたくても答えが怖くて、カラスは感情に薄い遮蔽術をはっていた。不意打ちに感情を読まれたくなかったのだ。

 魅朧は不快感をあらわにするより、困ったなといわんばかりに苦笑を浮かべてカラスを許した。誰より感情に遮蔽を張られることを厭う魅朧が、悪態を返すこともない。こじ開けることなど造作もないのに、しないのだ。

 何かおかしいような気がしたけれど、気がついた時には後戻りができなくなっていた。ぬるま湯みたいな優しさが気持ちがよくて、警戒心を抱くことも忘れられる。けれど、それが物足りないと感じるのも事実だ。

 咄嗟に嫌がってしまったときに、無理矢理奪ってくれたらよかったのだ。いたわってくれなくたっていい。俺が自分から求めることなんて、できるはずもないのに。

「もう、どうしたらいいんだ……」

 十日も経てば、考えすぎて、こんがらがって、脱線して、何に悩んでいたのかわからなくなってくる。けれど悩んでいることは確かで、些細なきっかけで耐えられなくなった。

 だから、娼婦たちの言葉を聞いていられなくて、逃げ出してしまったのだ。

 漆黒の鱗スケイリー・ジェット号に乗っているあいだは、誰もがカラスのことを知っている。カラスが人間だろうが、海賊ではなかろうが、長の伴侶なのだと尊重してくれていた。

 だが、海賊船を降りてしまえばどうだ。自分では魅朧の格を落とすだけなのだと知ってしまった。人間じゃないものになりたいとは思わないけれど、人間であることがつくづく足を引っ張るのだ。

 魅朧は世界の頂点に君臨する海龍の長だ。漆黒を纏う海賊たちを束ねる者で、人間を下等だと見做す異種族だ。暗殺術しか取り柄のない自分が独占していいのかと、疑問を覚えてしまった。

 魅朧ほどの男が人間を伴侶にするだなんて、本当はいけないことではないだろうか。

 伴侶という言葉を本当に理解したのは、彼に愛されることを受け入れてしまってからだった。

 人間が作り出した結婚という制度とは違う。龍族のそれは、魂まで相手に捧げるという、ある種の呪いに近い。何の支配も受けず自由で、奪うことを尊厳にしているようなドラゴンが、たったひとりの人間に捕らわれてはいけない。

 もっと自分に自信があったのなら、こんな風に悩んだりしなかったのだろうか。選んだのは魅朧なのだから、外野がとやかく言うなと啖呵が切れたなら、どれだけいいか。想像しただけで、怖ろしくて身震いする。

 今まで、大抵の選択を魅朧に任せていた。愛を囁くのも、肌を重ねるのも、黙っていれば魅朧が全部満たしてくれる。ぬるま湯に浸かっているだけで、見返りもないのに愛してくれるのだ。

 彼を疑う必要はない。暴力を振るわれることもない。裏切られることも、利用されることもない。必要だと求められ、お前だけだと真摯な態度で接してくれる。この世界のどこを探したって、魅朧ほど自分を大事に扱ってくれる相手はいないだろう。

 心底、彼を自分のものにしたいと欲が出た。

 自覚したと同時に怖くなった。

 愛されれば愛されるほど、怖くてたまらない。

 だからといって、今さら彼を手放せない。捨ててくれなんて言えないし、捨てられたらきっと、そう時間を置かずに生きる意味を見失ってしまう自覚がある。

 流されているときは楽だった。愛していると言われて、それにうなずいているだけでよかった。強引に奪ってくれたら何も考えずにいられた。優しくされるのは嬉しいし安心する。けれど、腫れ物に触るような扱いをされるより、もっと身勝手に奪ってほしい。

 すっかりサイズがちょうどよくなった黒瑪瑙のバングルをいじる。これが唯一の証だ。それ以外は、何もない。

 自分はいったい、どうしたいのだろう。

 どれだけ自分が相応しくないかなんて、嫌というほど自覚している。だからといって、魅朧から離れようなんて選択肢は微塵も思い浮かばないのだ。依存なのか愛なのかもわからない。ただ、求められないことがひどく苦しい。

 ぐだぐだ御託を並べて袋小路をぐるぐる迷ったとしても、結局のところ、自分が思っていた以上に魅朧に惚れてしまっていて、それを自覚して動揺している。

 思考のドツボに嵌まってしまったカラスは、そのせいで気配に気付くのが遅れた。誰かがこちらにやってくる。

 魅朧の足音ではない。どこへ続いているのかわからないが、こんな路地にも人が通るのか。すれ違ったりしたくないので、足音がする方とは逆へ足を向けた。

「お、出てきた出てきた」

 だが、路地の出口には、金髪の男が二人立っていた。そうか。自分は相当に腑抜けていたらしい。後ろの足音が無関係ではないだろう。

 カラスは内心で舌打ちした。いくら魅朧のことで混乱していたからといって、あまりに気を抜きすぎだ。ここは無法都市なのに。

 マインドセットを切り替えて、感情に遮蔽を張り直す。おそらく相手は海龍だが、別の船の海賊たちに感情を読まれたいとは思わない。

「臭ぇと思いや、俺たちの縄張りに人間が迷い込んでやがる」

「雑種の癖に、黒装束とはな。誰の連れなんだ」

「こんな所に放置してるってことは、大した価値もねぇんだろうよ」

「なんだいお嬢ちゃん、怖くて声もでねぇってか?」

 下卑た笑い声はなんだか懐かしいものだった。石や汚物を投げてこないだけ彼らの方がマシだ。金髪と金色の瞳。肌の色は浅黒い。

 漆黒の鱗号が停泊している埠頭には、他にも黒い海賊船がつけられていた。きっとその船の海賊たちだろう。

 このあたりは海龍がたくさんいるから、不必要に魔術を使うなと注意されている。律儀に守っていたけれど、最悪の事態になったら補助魔術を重ねがけしてでもこの場から離脱しよう。

 ドラゴンは人間よりも強靱な肉体と、強い力を持っている。何より彼らには攻撃魔法の類が一切効かないときていた。もし彼らが下っ端だとしても、三対一でまともに戦って無傷でいられるとは思えない。

「放っておいてくれ」

「仕方ねぇな、はいどうぞ」

「なんて言うと思ったか?」

「通りたかったら、それ相応の対価ってもんがねぇとな」

 カラスの要求に瞳を見開いた海賊たちは、優雅な一礼をして通してくれるとみせかけて、足を壁につけて妨害の構えをとった。

「まあ、待て。黒瑪瑙を持っているな。誰の手付きだ」

「馬ぁ鹿、怖じ気付いてんなよ」

「人間にしてはなかなか上玉だぞ。味見くらいさせてもらおうじゃねえか」

 挟みうちにすべく足音を立てていた男が追いついて、カラスの腕を見咎めた。おそらく、囃したてている男たちより、この男の方が強い。咄嗟に武器に手をかけそうになる衝動を、必死に抑えこむ。

「待てと言っているだろう……。お前は誰の所有物だ」

 前後に挟まれ、近接戦闘をするにも路地は狭い。逃げるなら上だ。退路の確認だけしておいたカラスは、ゆっくりと唇を開いた。伴侶と言われるよりも所有者と言われるほうがすんなり納得できてしまった。

「魅朧」

 その答えを聞いた海賊たちは、互いの顔を見合わせた。手を出してはいけない相手だと理解した、なんて雰囲気ではない。一瞬後に返ってきたのは、蔑みの混じった笑い声だ。

 やっぱりこの反応も、悲しいくらいに納得できてしまった。

「そりゃあいい、傑作だ! 五体満足で帰す気が失せるわ」

「よりにもよって、魅朧とはな。噂を鵜呑みとは芸がねぇなあ」

「違いねぇ。あの族長が人間に手を出すなんざ、鯨が空を飛ぶほうが有り得るぜ!」

「大きく出たな、人間。言っていい嘘と悪い嘘くらい、その格好をするなら覚えておいたほうがいい」

「……まあ、そうなるよな」

 想定内の罵声に、むしろ安堵してしまった。

 一目置かれるような人間でもないかぎり、魅朧に近づくに値しない。面と向かって罵られるのは癪ではあるが、反論できる要素は皆無だった。

 馬鹿正直に魅朧の名前を出してしまったが、どうせ相手は海賊だ。誰の名前を告げようが、そのまま通してくれるはずはない。結果は同じだっただろう。

「助けてくれ~って叫んでみるか? 誰もきちゃくれねぇけどな」

「黒衣の海賊に憧れて、ってんなら、酌量してやってもいいぜ?」

「そのぶん、たあっぷり奉仕してもらわんと許しちゃやれねぇが」

 海龍でも同性を伴侶にする者はいるが、割合としてはとても少ない。繁殖を主とするなら当然だ。だから、娼婦はいても男娼がいるという話は聞いたことはなかった。

「ひとつ確かめたいんだけど、俺を女と間違えてないよな?」

 誰かのお手つきをからかうならまだしも、率先して男を慰みものにしたいというドラゴンは初めてだ。純粋な疑問が口を突いただけだが、男たちは侮辱とでも受け取ったのか、残虐な笑みを深めた。

「上と下に穴はあるだろ?」

「……なるほど」

 わかりやすい回答だ。彼らは正しく海賊だった。

 いくら自分は魅朧には相応しくないだろうと思っても、彼らにくれてやるほど自棄にはなっていない。逃げるのは癪だけれど、それが最善だろう。

「もう一度言うけど、俺は魅朧のものだ。それに手を出すことが何を意味するのかわからないほど、あんたたちは愚かじゃないと思うが」

 本人相手には言えない啖呵を、こういう時ばかり素直に口に出せる自分はずるい。やはり自分の性格はつくづく面倒だ。敵対者に向き合う度胸はあるくせに、魅朧の伴侶だと宣言する勇気はない。

「吹くなよ、小僧」

 海賊たちが殺気立つ。逃げるならこのタイミングをおいてなかった。

 だが、カラスは補助魔術を練りあげかけて、たぐり寄せた魔を霧散させた。こんな状況になって、それこそ、魅朧が黙っているわけがないのだ。

「疑うなら、本人から聞け」

 緊張を解いて壁に背を預ける。さっきの啖呵を聞かれていないといいけれど。

「つくづくお前は逃げるのがうまいな」

 呆れと安堵が混じったような声色に、海賊達がいっせいに振り返った。路地を出たすぐそこに、金髪をたてがみのように遊ばせた、長身の雄々しい美丈夫が立っている。

「ぞ、……族長?」

「ジェットが入港していたのか……」

「酒と雌の尻ばっか追ってやがるから鈍るんだ、馬鹿共が。鸚鵡インウーの下っ端が聞いて呆れるぜ」

 魅朧はわずかに瞳を細めた、たったそれだけで、海賊たちがカラスのそばから距離を取る。言葉ではない方法で威嚇をしているのだろう。カラスは人間なので感情を視たりはできないが、何かをしているのだとわかるようにはなってきた。

 あれだけ残虐な気配を漂わせていた男たちが、脂汗を浮かべてじりじりと後退る。どんな相手だろうと容赦のない龍族が、唯一畏れる相手はひとり。

「俺の伴侶に手を出したら、翼も手足も引き裂いて陸に転がして並べてやるところだ」

 魅朧が嗤った。

 それは、海賊たちの嘲笑よりも怖ろしい笑みだった。

「マジかよ」

「伴侶って、人間だぞ……」

「噂は本当だったのか」

 震える囁きを聞きながら魅朧に視線を向けると、彼はじっとカラスを見つめていた。怒っているけれど、その対象が自分ではないことがわかって安堵する。

 ああ、本当に自分はずるい。

「カラス」

 短く、ただ名を呼ばれただけだ。けれど、それだけで魅朧の要求が理解できた。逃げる気はもうなかった。

 カラスは足音を立てずに歩みを向け、魅朧の前に立った。所有物に相応しく、従順に。

 見下ろしてくる黄金の瞳が剣呑に輝いている。その強い視線に射貫かれるだけで、背筋がぞくぞくした。

 やっぱり俺は、大事に優しくされるより、少しくらい命令されるほうがいい。

 世界最強のドラゴンに求められる優越感と快楽を、簡単に手放すことなんてできやしない。

「魅朧の伴侶が、人間なんて」

「まだ疑うかよ。その根性は買ってやるから、じっくり見ていきな」

 吐き捨てるような魅朧の啖呵と同時に腰を抱かれる。娼婦達がけだものだとのたまった瞳が、ただぴたりとカラスを見つめていた。どうして触れずにいられたのか、今はもうわからなかった。

 金色の瞳が嗜虐を帯びて輝き、魅朧はカラスの唇を奪った。 

「……ッ、んぅ」

 舌先で唇をこじ開けられ、そのまま深くを貪られた。くちづけるのは何日ぶりだろう。肉厚の舌が絡みついて、痺れるような感覚に鼻を鳴らすだけで精一杯だ。外野がいるだとか、この男を前にしてしまえば、どうでもよくなってしまう。

 魅朧の傍若無人な唇は戸惑いの欠片すらない。手を出しあぐねていたとは思えない、情熱的で荒々しいくちづけだった。強引に奪われるような激しさが心地良い。見られているという羞恥は感じなかった。それこそ、魅朧の船に乗っていれば日常茶飯事だ。

 あんまりにも気持ちがよくて、カラスの膝が震えていた。くずおれないのは魅朧が支えてくれているからで、こちらからも腕を伸ばして縋りつく。

 与えられた快楽に抗えない。心の奥まで鷲づかみにされるような錯覚にくらくらした。

 やがて情交じみたキスから解放されると、すっかり息が上がっていた。魅朧の無骨な指の背が、唾液に濡れたカラスの唇をなでる。

 くちづけを解いても魅朧の腕は離れていかなかった。奪うような唇と反して、その腕はあまりに優しい。くすぐったくて、苦しくなる。強引で荒々しい海賊はどこへ行ってしまったのだろう。

「……優しく、な。お前はそう感じるんだな」

「優しいだろ。……違うのか?」

 魅朧は黄金の瞳を細めたまま、口角を片方だけ上げて笑っている。

「間違っちゃいねぇんだが、それはどっちかっつーと、副産物だ」

 優しさが副産物とは妙な物言いだ。意味がわからないまま、カラスは首を傾げた。意味を尋ねてもいいのだろうか。

「お前を閉じ込めて俺だけが愛でていたい。お前が指一本動かすのも許せない。飯も風呂も排泄も歩くのだってお前にさせたくない。全部俺がしてやりたい」

 ドラゴンの王は歌うように囁いた。カラスは最初、何を言われているのか理解できなかった。ゆっくりと内容を反芻して、驚きが遅れてやってくる。

「龍の独占欲と執着心を甘くみてただろ。必死に抑えた結果が、お前のいう優しさってやつだ」

「……あんた、そんなこと考えてたのか」

 雄龍の独占欲は強いとは聞いていたけれど、確かに想像以上だ。魅朧は本能を抑えようとして、俺はきっと抑えきれないものを察知して抗った。

「怖いか」

「怖くは、ない」

「じゃあ、嫌か」

「嫌でも、ない……けど、優しすぎると、どうしていいのか、わからない」

「そうか」

 相槌を返す魅朧は、カラスの反応が色よいものじゃないのに上機嫌だった。

 いつのまにか感情に張り巡らせていた遮蔽術は剥ぎ取られている。きっと、何を考えていたのかまで、全部視られてしまったに違いない。

 腫れ物扱いで優しく扱われることに困惑するだとか、魅朧に相応しくないんじゃないかとか、隠してしまったら後に引けなくなっただとか。流されていただけだったのが本気で惚れ込んでしまったからだ、とか。

 知られたくなかった。けれど、どうせ自分からは告白することなんてできないのだ。暴いてもらったほうが、苦しまずに済む。

 ただ、一方的すぎるのが嫌なだけだ。俺が理解できないことをするなら、ちゃんと説明してほしい。それに魅朧が本気でやりたいなら、優しくなんてしないで、そのまま実行してくれたらいいのだ。

 ……用を足すのまで世話をされたくはないけれど。

「そうか? 楽しそうだけどな」

「そういうとこばっか読むのは止めろ」

 喉を鳴らして笑う魅朧に、たまらず反論してしまう。こうやって気軽に話せるのが嬉しかった。

 この十日というもの、怖くてたまらなかった。娼婦たちのように大胆にはなれないし、龍族みたいな傲慢な態度で独占欲をひけらかすこともできない。

 自分で距離を置いておきながら、都合のいいことを言っているという自覚がある。それでも魅朧の特等席を誰かに譲る気はないのだ。

「……ごめん」

「謝らなくていい」

「遮蔽まで張って意固地になってた。だから、ごめん」

「葛藤はもういいのか」

「……うん」

 隠して逃げ回って先送りにして、そのくせ自分で傷ついて、面倒くさくて、ろくに満足もさせてやれないけど、それでも魅朧が俺を捨てずにいてくれてよかった。十日も我慢させてしまったのに、嫌われていなかったことが嬉しかった。

「あー……」

「魅朧?」

 ぐるぐると肉食獣みたいにうなった魅朧は、なんとも言えない笑みを浮かべていた。不快感を与えていないことはわかるが、煮え切らない態度の意味がわからない。

「……そもそも、お前の悩みは杞憂なんだよな」

 大柄の体躯を生かした龍の長は、納得できず眉間に皺を寄せたカラスの腰を引き寄せた。カラスだって極端に小さいわけでもないのに、腕の中にすっぽりと収まってしまう。緩い拘束は、それでも十二分に逃げを封じていた。

「俺にとっちゃあ、面倒くさきゃ面倒なほど、手間がかかればかかるほど、落としがいがあって燃えるんだ」

「は?」

「十日間、俺の顔見るたびに百面相してるお前とか、気が狂いそうになるほど可愛いかったんだぜ?」

 可愛い? 誰がだ。

 カラスは照れるよりもいぶかしんだ。ここ最近で一番意味がわからない。自分は可愛いなんて形容詞とはかけ離れている自覚がある。むしろ可愛いとは対極にいるだろう。ドラゴンの感性は、時折本当に理解するのが難しい。

 だが、理解はできないけれど、それでも、魅朧に嫌がられていなかったのならよかった。可愛いというのは横に置いておくとして、魅朧に鬱陶しいと思われていなかったのなら、もうそれでいい。

 どうやら俺は、自覚している以上に、彼に嫌われるのが怖かったらしい。安堵した途端に、身体から強ばりが解けた。

「そういう無自覚なとこが、たまんねぇんだよ。お前ほんと、俺を煽る天才」

 満足げに囁いた魅朧は、力いっぱいカラスを抱きしめた。苦しくならないギリギリの加減をしているあたりが、ちょっとだけ憎らしい。もっと強引に奪っていってくれたらいいのに。

「……俺みたいな海賊相手に略奪を願ってみろよ、まともに朝日を拝めなくなるぞ」

「あんたに付き合ってたら、どうせ昼過ぎまで寝るはめになるだろ」

 そういう意味ではないとはわかっているが、カラスにとっては同じことだ。自由なんか必要ない。魅朧という檻の居心地は、それなりに快適だ。

「……だから、奪っていってくれ」

 そう告げるのが、今のカラスの精一杯だった。求められないほうがよっぽどつらい。今はただ、魅朧が欲しくてたまらない。

 ざわざわと、殺気のような気配が肌を舐める。まるでドラゴンの舌なめずりだ。魅朧は喉を鳴らして笑った。

「船、戻るぞ。舌噛むなよ」

 言うが早いか、魅朧はカラスを抱え上げた。薄暗い路地には、下っ端の海賊たちの姿もとっくに消えている。

 人外の脚力が無法都市を駆け抜ける。


 カラスがエデューマの街を散策できるのは、もう何日か後になるだろう。

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