タブリラス -後-

 人間に擬態できてよかった。

 魅朧メイロンは生まれて初めてそんなことを思った。龍の身体は強いが繊細な動きはできない。大きすぎる指と爪ではカラスを安静にしたまま運べなかっただろう。

 魅朧はカラスが撃たれてすぐ、副船長のエルギーに思考で命令を放った。状況説明と要求は一瞬ですむ。仲間たちにも指示を伝えてしまえば、あとは自分の船に戻るだけだ。

 急接近する漆黒の鱗号に飛び乗って、駆けつけてくる仲間の姿を視界に捉えて息をついた。船はそのまま高速で大砲の射程圏外へ駆けていく。エルギーは命令以上にこちらの心境を汲み取った。さすが相棒だ。

「魅朧! アトレイアス連れてきたよ!」

「回復、魔術、っても、私は……、純粋な、人間じゃ、ないんだから! あんま期待しないでよ?」

 タオルや樽を抱えて走り寄ってくるノクラフの背後から、くすんだ金髪のアトレイアスが息を切らして怒鳴る。

「かまわねぇ。内部損傷の修復ができりゃいいが、出血を止められるなら、とりあえずそれでいい」

「その、くらい、なら、……待って、息が」

 アトレイアスは両手を膝につけて肩で深呼吸を繰り返した。必要な道具を取りに行ってここまで全力疾走だったらしい。感情を読んだ魅朧は彼女の呼吸が整うまで大人しく待った。

 彼女はこの船で唯一の船医であり薬剤師だ。四分の一だけ人間の血が混じっていて、しかもその混ざった部分がそれなりに優秀な能力を発現させていた。補助も攻撃にも才はないが、外傷の治療には長けている。ただ、龍に回復魔術は効果がないから、もっぱら彼女の役割は薬剤師としての能力に振られていた。

 海龍としては龍体になることもできず、体力もないけれど、能力の優秀さで魅朧の麾下としてそれなりの地位を与えられていた。一部の混血の船員たちのためにアトレイアスを引き入れたが、彼女を手元においていて本当に幸運だった。

 魅朧は抱え込んでいたカラスを甲板に寝かせ、汗で張りついた髪を額からよけてやった。乱れた浅い呼吸が怖い。喚きたくなるような、死にたくなるような恐怖と混乱を、外部が読んでしまわないよう無理矢理に押さえ込んで心を閉ざす。

「絶対、大丈夫よ」

 ノクラフが魅朧にさわらず声をかけた。今魅朧にふれてはいけないと、本能的に怯えているのがわかる。

「悪ぃな、ノクラフ」

 族長である自分の余裕のなさを悟られるのは気恥ずかしいが、そんな小さなことで見栄を張っている場合ではない。アトレイアスが処置の用意しているあいだに、魅朧はカラスの傷口をじっと見つめた。かすかな違和感。瞳孔を細めて血と肉の奥を覗き込む。

「……ぅ、ッ」

 びくりと痙攣したカラスに、ノクラフとアトレイアスが魅朧をにらみつけた。彼女たちには何をしているのかわからないのだ。

「卑金属……、いや、魔核を鉛で覆ったのか」

「何それ」

「錬金銃の弾だ。魔と金属の混合物。肉は旨いが肝が猛毒のフグみたいなもんだ」

「うぇ」

 舌を出すノクラフを尻目に、魅朧はカラスの戦闘服を裂いた。消毒液をぶちまけ、愛する者の苦痛のうめき声に胸を痛めながら傷口に手の平をあてる。異物がどこに残っているのか、その正確な位置を読むために精神を集中させる。

 苦しむカラスの感情を読みとってしまったノクラフは魅朧を止めようとしたが、何をするか察したアトレイアスに遮られた。

「取れる? キャプテン」

「取るさ。こんなもん、こいつの中に残しておけるかよ」

「何よ、何んなのさ。ちょっとシカト?」

 すぐに違和感を見つけた魅朧は、パニックで叫ぶノクラフに視線を合わせた。

「ノクラフ、カラスの足押さえつけとけ。意識飛んでる怪我人の馬鹿力舐めんなよ、蹴り飛ばされんぞ。アトレイアスはすぐ術をかけられるように待機」

「……わかったよ」

「アイアイ、キャプテン」

 両足はノクラフに、腕はそれぞれ魅朧とアトレイアスが膝で押さえて暴れられないようにする。それから魅朧は、己の前腕をカラスの口に突っ込んだ。アトレイアスが眉をひそめる。

「ちょっと、肉噛み千切られるわよ」

「だから何だ」

 魅朧は即答した。カラスが舌を噛むよりマシだろう。

「……何だ、って言われても。……いいわよ黙るわよ」

 アトレイアスが魔力を集中させるのを確認して、魅朧は右腕の肘から先を龍化させた。長く伸ばした黒い爪は、鋼鉄も切り裂けるほど鋭い。体温を操作して一瞬で高温殺菌し、血のあふれる傷口に爪を立てる。

 狙いは外さない。無駄に臓腑を探って傷をつけることもしない。強大な力を繊細に制御し、魅朧は意識を集中させた。

「――ッ?」

 カラスが激痛に意識を取り戻した。苦痛の絶叫をあげようにもできず、痛みに耐えようと歯を食いしばる。

「カラス、呼吸を止めるな。ゆっくりと息をしろ」

 魅朧の声はカラスに届いていたが、深呼吸を意識してもすぐに痛みに塗りつぶされてしまう。

 痛い。痛い。熱い。苦しい。止めて。痛い。助けて。耐えられない。助けて。

 感情を読みとる海龍の能力は、こういう時に不便だ。感情が強ければ強いほど、触れられそうな質感で感じとれてしまう。

 足を押さえていたノクラフは、うめきと感情の悲鳴を聞いていられずぎゅっと瞼を閉じていた。それでいい。わざわざ同調する必要などない。

 魅朧は腕に歯を立てられる痛みを完全に無視して、そっと異物を引き抜いた。実際には一瞬だったのに、何倍にも長い時間に思えた。

「アトレイアス!」

「あいよ」

 血が噴き出す傷口に両手をかざしたアトレイアスは、文言を呟きながら織り込んだ魔術の網を慎重に移した。瞬時に再生させるような高度な術は使えない。

 彼女の回復魔術は患者の治癒能力と魔力に依存したものだ。魔力と生命力は密接に繋がっていて、人間は肉体を生かすために魔力を代用することができるのだ。アトレイアスは傷を負った細胞を癒やして修復し、元あったように繋げていく。失った物は作れないが、逆を言うと、肉体に繋がっているものであれば修復できる。

 魔を排除する海龍にはまったく意味をなさない術だが、人間のカラスには充分効果を発揮する。傷口は残るかもしれないが、死にはしない。

 ただ、再生にそれなりの時間がかかるので、そのあいだずっと苦痛が続いた。鎮痛剤を与えている余裕はなかったから、耐えてもらうしかない。

「カラス、俺を見ろ。大丈夫。お前は死なない。痛みに意識を向けるな。俺を見ていろ」

「ッ、ふ……う、っ……!」

 涙を流す青磁色の瞳は焦点が定まっていなくとも、たしかに魅朧を見つめていた。痛い、助けて、何度も訴えられているが、変わってやれないことがもどかしかった。

 お前に自由を与えるのは、苦しませたいからじゃないのにな。

 船橋でのやりとりを思い出しながら、魅朧は静かにカラスの瞳を見つめ続けた。やがて内側から順に塞いでいった傷口が最後の皮膚に到達し、魔が浸透する。それを確認したアトレイアスは長嘆した。

「いい子だ」

 もう耐えなくていい。魅朧がうなずいてみせると、糸が切れたようにカラスから力がぬけた。噛ませていた腕を抜くと、彼の唇に血が滲んでいた。カラスの血ではなくて、魅朧の血だ。

 龍血は毒にも薬にもなる。少量なら回復を早めるが、多量なら害になる。魅朧は意図的に出血を減らしていたけれど、全てではなかった。

 覆い被さってカラスの唇を舐め、口内に溜まった龍血を吸い出す。窒息されてはかなわない。そのまま床に吐き捨てて、ようやくまともにカラスの顔を確認できた。瞼は閉じられたまま、青白い顔色が悲壮感を漂わせている。

 だが、生きてる。

 魅朧は強張っていた表情を緩め、首筋にふれて脈を確認し、カラスの頬をなでた。

「び、びっくりしたぁああ」

「あーもー、魔力かつかつよ。しばらく立てそうにないわよ」

 足を押さえていたノクラフは飛び退いて離れ、アトレイアスは床板にひっくり返る。胡座をかいた魅朧は、歯形のついた腕をべろりと舐めた。骨までは達していないから、飯を食って寝るだけで明日には治っているだろう。

「すまん。助かった。感謝する」

 素直にふたりへ礼を伝えれば、アトレイアスは床に寝たままぱたぱたと手を振った。ノクラフは得意気に鼻を鳴らし、血を吸ったリネンを拾って樽に突っ込んだ。

「傷は塞いだけど、銃創は熱出るわよ。解熱剤、後で取りにきて」

「おう。借りは返すから要望があれば言え」

「あら太っ腹じゃない。考えとくわ、キャプテン」

 アトレイアスは間延びした笑い声をあげた。

 魅朧がいち船員の願いを無条件で叶えることは稀だ。だが、伴侶の命を救ったのだから、どんな無理難題をふっかけられても龍の長として叶えようと思う。

「ノクラフ、カラスの様子見を頼めるか。俺は先にやることがある」

「あんたの部屋まで運んでくれたらね」

 当然だ。今のカラスには誰にもふれさせたくない。

 魅朧は口端を吊り上げ、残忍な笑みを浮かべた。



◇◇◇



 船の欄干に肘をついたジビェは、沈んでいく海賊船をつまらなそうに眺めていた。

 あの船高かったんだろうなとか、不法投棄だよなとか、思わなくもないが、海の底で魚たちの住処になるだろうとも考えた。今回の海賊戦は楽しかったな。終わってしまえばさみしい気持ちになる。戦利品で何を買おう。

 血の匂いを落とすのに、ひと泳ぎするのもいいかもしれない。どうせならクトレトラを誘いたいけれど、彼が船橋を離れてくれるかはわからない。なんにせよ、船長が自由行動を許してくれてからだ。

 日が傾きかけた夕暮れ前の美しい空の下、漆黒の鱗スケイリー・ジェット号の甲板の片隅で、ちょっとしたショーが開かれようとしている。ジビェはあまり興味がないから、視線を向けるだけで参加はしない。

 ズタズタに引き裂いた敵の海賊旗を床に敷いて、その上に人間がひとり転がされていた。男は旗ごと両手足を金具で固定されている。周りを囲むのは、船長の魅朧と数人の龍たちだ。

「なんつったっけ? ルーサー? 俺を倒すんだったか」

「船がッ、俺の……船! ば、化け物が……!」

 それは、敵海賊船の船長だった。魅朧を楽しませることに成功した人間だ。そして、魅朧の伴侶を撃った男だ。

 カラスの姿消しの術マラベーリスを見破ったのか、偶然だったのかはわからないが、課程はどうでもいいのだ。カラスを撃ったという事実だけで結末が決まる。

「安心しろ。お前も後を追う。すぐ、じゃねえけどな」

 魅朧の忍び笑いに、仲間たちが同調した。底冷えするような笑いが忍び寄ってきて、ジビェは鳥肌の立った腕をこすった。

 ちょうど欄干のない場所で拷問するのは、沈没を見せるためだろう。龍が数体、長い首を突っ込んで何かを放り投げて丸呑みしている。殺したてなので鮮度はいいだろう。

「ねぇキャプテン、アタシ、腕が欲しいわ」

「僕は頭がいいなぁ。新しい彫刻を試したいんだ」

「肝臓は俺にくれ。今晩のアテにするから」

 俺がクトレトラに何かされたらその場でブチキレる自信あるんだけど、船長は仲間に楽しみを分けてくれるんだから、心が広いよな。

「喰うのはかまわんが、頭は一番最後だぞ」

 喉を震わせて笑いながら、魅朧が大ぶりのナイフを取りだした。棘状の突起がついた、なんだかすごく痛そうなナイフだった。わざと見せつけているのは、相手の恐怖を引き出すためだろう。必死に膝を動かして暴れようとする人間は、瀕死のエビみたいだった。

「食うって何だ……、喰うって……、待て、殺せよ」

 俺の船を壊すアレは何だ。あいつらが食っているのは、あれは、あれは俺の部下じゃないか。待ってくれ。俺はこれからどうなる。

 伝説なんて糞食らえだ。俺が頂点に名乗りを上げるのだ。そして散るなら華々しく、しぶとく、錬金機関を暴走させてでも奴らに一矢報いてやろう。

 それなのに、それなのに、食う? 食うって、なんなんだ。こいつらは、何なんだ。獣の血が入ってるだけじゃないのか。人間ではないという噂は知っていた。その程度の噂しか知らなかった。違う。奴らは根本的に、人とは違う。化け物だ!

「俺らって知名度ないんだなぁ」

 男の混乱と恐怖は、離れた場所にいるジビェにまで届いてきた。そういえば、カラスも最初はドラゴンの存在を信じていなかった。カラスが特別疑り深いわけじゃないんだな。

 ジビェが感心しているあいだにも、拷問の前菜は続いている。

「ブラッディング? インペイルメント?」

「タブリラスだ。足が終われば手指、次は腹を捌く。猿轡は忘れないようにしないとな。舌噛んで自殺されちゃあ、つまらない。イルトルヴ、靴を脱がせろ」

「やめろ、……やめろやめろ、やめてくれ」

 呪文のような拷問名の内容は知らないが、気持ちのいいものではないだろう。ジビェは船長の後ろ姿を眺めていた。

 かっこいいなぁ。俺もいつかあんな、冷静な雄龍になりたい。

 必死に喚いていた男は、凄艶な笑みを浮かべる魅朧によって口を塞がれてしまった。うめき声と鼻息だけで抵抗しているけれど、何にもならない。靴を脱がされる。身体をよじる動きが、寝たまま踊っているように見えた。死にかけのエビが生きのいいタコになった。

 ささやかな抵抗をあざ笑い、魅朧は男の耳すれすれにナイフを振り下ろした。床に刺さったそれが、鈍く光る。

「足の指を、一本一本潰していく。安心しろ、急がない。ゆっくりやってやる。足が終わったら手の指だ。腑分けするまで、気絶するなよ?」

 まるで、できの悪い生徒に教えるような口調だった。なるほど、タブリラスは指を潰す拷問か。ジビェは想像して首をすくめた。

「聞いてるだけってのは、つまんねぇか。じゃあ、一本試してみよう」

 焦らすような足取りで、龍の長は男の周囲を歩く。底が分厚くてごついブーツが、小気味良い音で床板を鳴らした。やがて辿り着いた男の足の一本を見下ろし、魅朧は親指だけを軽く踏んだ。

「ヤジャ、顔を上げさせろ。こいつがちゃんと見られるように」

「アイ、サー」

 男は目を瞑った。けれど、満面の笑顔を浮かべるヤジャに無理矢理こじ開けられた。ヤジャもイルトルヴも顔はいいし強いけど、ちょっと、ああいうところが苦手なんだよな。ジビェは半眼で溜め息をこぼす。

「……っ! ……!」

 見たくない。やめてくれ! 頼む、いっそひと思いに殺ってくれ。このナイフでいい、だから。俺が何をした。海賊なんだ。奪うのも殺すのも当然だろう!

 恐怖が振り切れたのか、男からは怒りの感情も流れてきた。

「何をしたって?」

 取り囲む龍たちが、生の恐怖をうっとりとした表情で味わっている。あの場にいるのは特に残虐性の強い龍たちだ。懇願に胸を痛める者など誰ひとりいない。

「あいつを撃っただろう?」

 海龍の王は嗤って、踏む力を強めた。

 男の壮絶な悲鳴は、魅朧の張った感情障壁のおかげで、ジビェの元には届かなかった。詳しく楽しみたいのなら近づけばいいけれど、やっぱり拷問には興味を持てない。

 じわじわ殺すのはもどかしい、殴って潰して数を積み上げるほうが楽しいのに。

 日が暮れるまで終わらなそうだから、血の匂いを落とすのはひとりで我慢しよう。ジビェは欄干に体重をかけて、そのまま海へと身体を投げ出した。



◇◇◇



 甲板の上では、戦利品の仕分けを片手に宴会の準備がされている。海賊戦は祭りと同じだ。色々と汚れた甲板の一角は潮で洗い流されて綺麗になっているが、そのままだったとしても怖じ気づく者は誰ひとりとしていない。

 魅朧はアトレイアスから受け取った解熱剤を握りしめ、船長室へ向かった。拷問のあいだも意識の一部はカラスを探っていたから、彼が安静にしていることはわかっていた。それでも、早く顔を見たくてたまらない。

 大きな音を立てずに扉を閉めるだけの分別はあるが、それだけだ。早足でベッドに近寄れば、直前でノクラフに窘められた。鼻に皺を寄せる威嚇の激しさに足が止まる。

「風呂入るくらいは待っててやるよ。色々匂う。あたし、肉は好きだけど中身は好きじゃないんだよね」

 彼女に言われて、あらためて己の格好を確認した。コートの裾は血と脂がこびりついたまま乾いているし、金髪の先は赤錆色に染まっている。なるほど、これではカラスのそばには近寄れない。海底までひと泳ぎしてくれば血も匂いも落とせたのに、気が立っていて考えもしなかった。

 魅朧はノクラフの厚意に甘え、身綺麗になることを優先させた。ちらりと確認したカラスの顔色は、さほど悪くはない。

 龍の装束は鱗を変化させたものだ。着衣のままシャワーで血糊を洗い流す。戦闘用のコートを消して肌をさらし、石けんで髪も爪先も綺麗にした。

 タオルで拭き取る時間が惜しい。全身の体温を上昇させて、水分と一緒に余計な汚れも消毒してしまう。人間の中身は何かと雑菌が多い。

 ただのシャツと革のズボンに着替えて、ようやく魅朧はカラスにふれることができた。

「ずっと寝てる。じゃあ、交代ね」

「お前にもそのうち礼をする」

「じゃあ、落ち着いたらエルギーを返して。一緒に泳ぎに行きたいんだ」

 エルギーは妻を愛しているが、同じくらい船のことも愛している。操舵主任としての責任感と執着が強すぎて、別の誰かが舵を握ることを厭うのだ。

 彼を船橋にとどまらせているのは魅朧の指示ではなく、あくまでもエルギーの意思だった。ノクラフも普段は気にしないけれど、それでも限界はあるのだろう。彼女が夫といちゃつきたいと望むのなら叶えてやろう。

「説得に協力してやるよ」

 お役御免とばかりにさっさと退出する小さな背中に声をかけ、魅朧はベッドに腰掛けた。カラスの頬にふれ、手の平を額に乗せた。普段より熱い。

「……この、馬鹿が」

 口は悪いけれど、魅朧の視線は優しいものだった。困ったような、悲しいような、泣き出したくなるような顔でカラスを見下ろす。

 サイドチェストに用意してある水差しからコップに水を注いで、三角に折られた紙の包みを開く。アトレイアスから受け取った解熱剤を水で溶かし、口にふくんだ。戸惑いもなく、そのままカラスにくちづけ、中身を移して飲み込ませる。口腔もひどく熱かった。

「ん……、ぅ」

 喘ぐようなうめきに感情の波が乗る。唇を離した魅朧が顔を覗きこめば、カラスは瞼を震わせた。青磁色の瞳がぼんやりと宙を泳ぎ、魅朧に焦点結ぶ。まばたきを繰り返しているうちに意思を帯びる。

「魅、朧……?」

「ああ。痛みはないか?」

 遮るように問うと、カラスは不思議そうな表情を浮かべた。意識はあるが、思考が定まっていない。熱のせいだろうか。

 戦闘、銃、痛み。戦場から離脱した。血の匂いはしない。ここはどこだろう。

 脈絡もなく浮かんでは消えていくカラスの感情を味わいながら、魅朧は濡れた唇を指でぬぐった。

「俺の部屋だ。覚えてねぇのか」

 ノクラフが用意していったタオルを濡らして、カラスの額に乗せる。気持ちがよさそうに目を閉じた。

「……冷たい」

「熱出てんだよ」

「怒ってる」

 魅朧は答えなかった。正直、自分でもどうしていいのかわからなかった。心配しすぎたのと、安堵と、胸を締めつけられるような苦悩。

 カラスが言うことを聞かずに怪我を負った。命令を聞かなかったことに怒っているわけではない。怪我をしたことにいらだったわけでもない。護れなかったなんて言うと、この場合はカラスを侮辱したことになる。だから言わない。

 撃たれて意識が朦朧としていたカラスの感情を覚えている。遮蔽が剥がれた剥き出し心は、不安と恐怖でいっぱいだった。留守番してろと突きつけたことが、ここまでカラスを頑なにするとは考えていなかった。使い物にならなければ捨てられるだなんて、本当に思っているのだろうか。思っていたのだろう。あのとき吐露した感情は、掛け値なしの本心だ。

 それを知ってしまったからこそ、怒れない。怒りがないわけではないのだが、矛先をどこへ向けたらいいのかわからない。あらゆる感情がぐちゃぐちゃに混ざって、こんがらがって、出口がない。

「魅朧」

 カラスがか細い声で呼んだ。声は繊細でも意志は強い。だが、止める間もなく上体を起こそうとして、激痛にうめいた。咄嗟に肩をつかんでベッドに押しつけたが、遅かった。

「っ……? ふ、……ぐ」

 脇腹が痛くて起きられない。呼吸が苦しい。涙が出る。涙。そうだ。魅朧が、泣きそうなんだ。だから、抱きしめないと。

 めまぐるしく色を変えるカラスの感情を真正面から受け止め、魅朧は喉を詰まらせた。俺は泣いてねぇよ。泣きそうになってんのはお前だろ。

「……馬鹿野郎、おとなしく寝てろ。傷は塞いだが、撃たれてんだよ、お前」

「……撃たれ、た?」

「そうだ」

 甲板で治療したときも伝えたが、やはり覚えていないらしい。詳細を語ってやったほうがいいのかと、魅朧が思案していると、目を閉じたカラスはゆっくりと思考の海に沈んでいった。順を追って何があったのか思い出そうとしている。断片をつなぎ合わせてひとつの流れをつくる。

 魅朧は金眼を細めてカラスの感情を追った。




『エルギーが心配するだろうから、今回は見てるわ』

 カラスはノクラフが何気なくこぼした言葉を思い出した。

 これは俺の認識の甘さが招いたことだ。

 撃たれた。そう。撃たれたのだ。撃たれる原因を作ったのは他でもない自分だ。

 身体が本調子でなかったことは事実だ。感情を制御できないまま戦闘に参加して、油断して、自ら隙を生んで、判断を誤って、結果怪我をした。

 魅朧は最初から留守番をしていろと言っていたのだ。こうなると予想していたのかもしれない。それを、突き放したのは俺だ。いまさら後悔しても遅いけれど。

「無様だ、俺は……」

 大口を叩いておいてやられるなんて、暗殺者としては失格だ。

 いいや、そうじゃない。無様でいいんだ。

 自分の見栄よりも大事なものがあるじゃないか。怪我をして、やっと気づくことができた。

 魅朧のあんな顔なんて、初めて見た。いつだって自信に満ちあふれ、皮肉げに世界を睥睨するような態度を崩さない彼が、途方に暮れていた。泣きそうにみえた。心配されているのだと理解して、ようやく自分の愚かさに気づいた。

「ごめん」

 情けなくて泣きたい。

「……この馬鹿」

 魅朧はカラスの瞳を覆うように手を被せ、そのまま髪をぐちゃぐちゃになでた。指が冷たくて気持ちがいい。

「そればっか、だな」

 乱暴そうにみえて優しい手つきだ。馬鹿、馬鹿とずっと言われていた気がする。罵っていたわけでも、責めていたわけでもない。ただ魅朧は、心配だったのだ。言葉を吐くたび、つらそうだった。

「俺が死にそうだ」

「ごめん、魅朧」

 ここまで魅朧を心配させてから気づくなんて、確かに自分は馬鹿だろう。

 プロ意識など、プライドなど、愛する者のために曲げたってかまわないのだ。そんな初歩的なことがわかっていなかった。

 これは命を賭ける戦いではない。カラスは海賊である前に、魅朧のものだ。魅朧は戦友ではない。伴侶だ。傷ついて悲しむのは他の誰でもなく、魅朧なのだ。守ってもらうのではなくて、守られてやらないといけないのだ。彼のために危険は避けて通るべきで、それを咎める者なんて、この船にはひとりとしていないのに。

「ノクラフを見習わないとな」

 彼女は自分の役割を理解している。

 ノクラフは好戦的だし彼女自身とても強い龍ではあるけれど、己の力を傲らない。少しでも不調があれば、それがどんな些細なものだったとしても、彼女は絶対に危険なことはしない。臆病なわけではない。むしろその逆だ。夫のために、五体満足でいることが彼女の強さだ。

「お前がお前なら、それでいいさ」

「反省させてくれよ。そっから学ばないと……。ひとりで生きてるんじゃないんだしさ」

 ほらな、魅朧は優しいんだ。俺に非があっても、最後の最後で俺を責められない。彼は優しいドラゴンだ。

 だからこそ、もう戦わない、なんてことは絶対にないけれど、子供のような癇癪は起こさないようにしたい。

「年長者の忠告を聞いても損はしない」

「うん」

「俺は、戦えるからお前に惚れたんじゃねぇんだよ」

「うん」

 かすり傷ならしょっちゅうあるけれど、こんな怪我はもうたくさん。

「お前は伴侶だ。何があろうと、俺はお前を捨てない」

「うん」

 カラスは笑みを浮かべたまま瞼を閉じた。

 心のどこかで、役に立たなければと思っていた。そうじゃなきゃ価値がないと感じていた。魅朧に知られていないと思ったのに、隠しきれなかったようだ。

 何を怯えていたのだろう。あんな顔をする男が、俺を捨てるわけがないじゃないか。

「……心配したんだぞ」

「うん」

 囁くような低音と、髪をすく指が睡魔を呼び寄せる。

 立場が逆だったら、どうだろう。きっと魅朧を傷つけた誰かに怒り狂うより、心配で、不安で、怖くて、胸がつぶれるだろう。もしかしたらと悪い方にばかり考えるに違いない。そうなったとき、自分が何をするかわからない。想像しただけで体の芯が冷える。

 けれど。

 考えなしで、頑固で、そして酷い。歪んでいる。自分はなんて我が儘で、馬鹿で、酷いやつだろう。

 怪我をしたのに、魅朧を心配させたのに、嬉しいと思ってしまう。自分がこんなにも愛されているのだと、泣きたいくらいに幸せだ。

 そして、虚勢を張らず、弱さすらさらけ出してくれる魅朧が、言葉にできないほど愛おしい。こんなに想ってくれる相手なんて、後にも先にも彼しかいないだろう。魅朧しか知りたくもない。

「誰に習ったんだよ、そんなご機嫌取り」

「え?」

 思いっきり不機嫌そうなぼやきが聞こえて、思わず目を開けてしまった。魅朧が眉間に皺を寄せて拗ねていた。

「俺を喜ばせてどうする」

「喜ばせてんのは、あんただろ」

 それに、あんたの顔は喜んでる顔じゃない。もしかして何か照れたりしてるのだろうか。

 魅朧は金色の瞳を丸く見開いて、それから、隣に倒れこんだ。ああこれは、本格的に拗ねている。カラスは首だけ動かして金髪にくちづけた。

 彼がもし、今回のように止めたら、次は笑って『いってらっしゃい』と言ってやろう。

「天然は最強だよな……」

 突っ伏したたままぼやいているが、不明瞭で聞き取れなかった。

「なに?」

「いや、こっちの話だ。いいから、解熱剤が効いてるうちに寝ちまいな」

 いつのまに飲ませてくれたのだろう。なんだかふわふわするのと、気持ちがいいのと、眠いのは、薬のせいか。薬物耐性をつけていたはずなのに。

「アトレイアスの調合だ。お前用に強めてあんだろ。だから、休んでくれ。次に目が覚めたら、血を戻すために肉を食わせるからな」

 声に出していないのに正確に伝わっている。いつもの魅朧だ。顔を上げて、目尻にキスをされた。ああ、だめだ。瞼を開けていられない。

「そばにいるから、寝ろ」

「……ん」

 カラスはついに瞼を閉じた。深く息を吸って、ゆっくりと吐き出す。

 目が覚めたら、ちゃんと謝って、助けてくれたことに感謝を伝えて、思い切り抱きしめよう。ああ、起きたときに魅朧がいてくれたらいいのに。

 小さな願いを思い浮かべ、そして今度こそ、穏やかな眠りに身を任せた。


 優しいドラゴンはもちろん、伴侶の願いを叶えた。

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