Liwyathan the JET

田花 喜佐一

タブリラス -前-

 鋼のこすれる悲鳴じみた音。何かが折れたり砕けたりする破壊の音。血臭に乗る笑い声。様々な音が波の上を充満していた。

 飛沫が上がり、溺れる者と沈む者がいる。船間に荒れる潮が揺れを生み、けれど、この程度の揺れでへたり込む者など、誰ひとりとしていない。

「人間のくせにやるじゃねぇか」

 四本の鉤爪かぎづめが伸びた鉄甲鉤で海賊の胸部を貫いた魅朧メイロンは、抜きざま胴を蹴って別の敵にぶち当てた。カットラスを避けた反動で殴りつけ、混戦を楽しむ。

「このくらい手応えがなきゃあ、略奪のし甲斐がねぇ」

 戦って奪うことは本能だ。駆け引きや交渉より、無抵抗の相手を嬲るより、抗ってくる相手を屈服させるから満たされるのだ。

 最近だと、黒地に黄金龍の海賊旗を見るなり逃げ出す海賊も増えてきた。だから、今回は、思う存分楽しもう。

「吠え面かかせてやるぜ、トカゲ野郎ォオ!」

 触手のような茶色のドレッドヘアが、船橋の上で叫んだ。あれが船長だろう。真っ赤なコートを翻し、片腕を突き出した。空気を震わせる独特な音が一発。魔術ではない。男が持つ骨董品のような武器から、煙がたなびいていた。

「上等だ」

 魅朧は戦闘用の黒革を血に染め、吠えるように笑った。



◇◇◇



 事の始まりは、クトレトラの眉間の皺からだった。

「何だ」

 船長席で踏ん反り返っていた魅朧が、海図をにらみつける青年の変化にいち早く気づいて声をかけた。

「……大型船が後方についてきています」

受動水測パッシブ・ソナー?」

「はい。ずっと小蠅がひっかかるような感じはしていたんですが、勘違いじゃなさそうです。珍しい音がします。聖霊機関じゃない。錬金術の派生か何かでしょうか」

「へぇ」

 航海士のクトレトラには、海底の地形や大型海洋生物、他の船など海に接するものを船上から補足する能力がある。海中で本体の海龍に戻れば、程度の差こそあれほとんどの龍族が持っている能力だが、人間に擬態したままで広範囲のそれをやってのける力はそうそう発現しない。何よりクトレトラは飛び抜けて正確だ。魅朧以下、船員たちはその能力を十全に信用している。

 魅朧は足を組み替えて、瞼を閉じた。

 ここ最近、大規模な略奪を行っていない。協定下の船ならば片目をつぶって見逃してもいいが、その手の船が遊びで追ってはこないだろう。海賊旗を掲げたまま航海しているので、追ってくるなら目的はひとつだ。

 船長には、船員たちに娯楽を提供する義務がある。平和すぎるのも気がだれる。海賊戦はいい息抜きになるだろう。

 船橋に詰めた仲間たちは、魅朧の決定を心待ちにしていた。妻のこと以外なら常に冷静なエルギーですら、わくわくした気配を漂わせている。

「……いいだろう」

 薄く開いた金眼が、好戦的な色で輝いていた。胡乱で、残虐性を帯び、まさしく海賊らしい笑みが口元に広がっていく。

「何にせよ、売られた喧嘩は買うだけだ」

 船橋の仲間たちが、興奮を押し殺した是を答えた。




野郎ギャング共ッ! パーティの準備をしろ! 久しぶりにデカイ獲物にありつけそうだぞ』

 枕元の通信管から大音量で聞こえた船長の声に、微睡んでいたカラスは文字通り飛び起きた。

 立ち上がった瞬間ふらつきそうになって、意地でふんばる。内股が筋肉痛になっている。腰がだるい。後ろ手に揉もうと肌に触れ、自分が全裸のままであることに気づいて渋い顔になった。

 原因? そんなものは魅朧のせいに決まっている。

 頼まれ事の内職もなく暇になったからといって、限界まではしゃがなくてもいいだろう。こっちはドラゴンじゃないんだから、無限の体力なんて持ってないんだ。

 気持ちがいいなら何をしてもいいわけじゃない。いや、別に嫌だったわけでもないけど。

 だって、あんなに何度も――。

「……くそっ」

 思い出すな。

 悪態をついて思考を遮断した。顔が熱いし、腹の奥が余韻に疼く。罵詈雑言と文句をまとめて胸中に押し込め、カラスはバスルームに駆け込んだ。

 シャワーを浴びている余裕はないが、顔を水で洗う時間はある。この火照った頬をどうにかしたい。

 妙な顔をしていないことを確認して、下着をはいた。昨晩カウチに脱ぎ捨てた衣服を着直すのではなく、クローゼットから戦闘服を引っ張り出す。

 体にフィットする無駄のない作りで、柔軟性も高い。柔らかな革は、そのくせ驚くほど防御力が高かった。革製のホルスターには小型のナイフやダガーなどを装備する金具が多く、使いやすいようにカスタマイズされている。スキニーパンツの裾を編み上げのブーツに押し込んで、紐を結ぶために片足をブリキのトランクケースに乗せた。

「う」

 途端にあらぬところに鈍痛が走り、カラスはうめいた。不意打ちだったので反応してしまったが、やはり下半身の重さはごまかせない。万全の体調とはいいがたい。だが、昔の生活で負った苦痛に比べたら、こんな不具合を痛みに分類するのもおこがましい。

『ああ、そうだ』

 通信管から魅朧の声が響く。

『我らがナビゲーターからお達しがある。相手はただの人間じゃないらしい。魔術戦しか知らねぇやつは後方に置くから、そのつもりで。これは命令だ』

 最初の声色より少し引き締まった声で補足が入る。その内容に、カラスは眉を顰めた。

 ただの人間じゃない? 三流の海賊ではないということか?

 魅朧率いる龍族の海賊は、負けを認めない。人間に負けるくらいなら、龍体に戻って相手を叩きのめす。だが、龍体では人間も建造物も区別なく木っ端微塵にしてしまうので、それではあまりにも面白くない。だから人に擬態したまま、人と同じように戦うことを楽しんでいる。

 かと思えば、羽虫を潰すように龍体の体当たりひとつで船を沈めることもある。どういう判断で人型をとるのか龍体に戻るのか、カラスはいまだにその差が理解できなかった。ドラゴンの思考は難解だ。

 戦闘で使用する全ての刃物を装備し終わって、肩と腰の筋を伸ばす。これから、寝起きにやるにしては過激な運動が始まるのだ。

 手っ甲の具合を確かめながら部屋を出て、カラスは活気づいた船内の空気を吸い込んだ。蜂の巣をつついたような大騒ぎではなくて、どことなく静かだけれど、すれ違う者の顔は誰もが楽しそうだ。黄金色の瞳が歓喜に燃えている。

「カラス」

 甲板への通路はいつもより人が多い。肩を叩かれて振り向けば、ノクラフだった。

「おはよう、ノクラフ。留守番?」

 毎回戦闘に出るわけではないけれど、当然ながらノクラフも戦うし、彼女の近接戦闘は強力だ。戦闘に雄も雌も関係ない。けれど今日の彼女はいつもと同じような肌面積の広い装束で、武器の類も身につけていなかった。

「そう。夏バテで体力落ちちゃったみたいでさ。エルギーが心配するだろうから、今回は見てるわ」

 たしかに、どことなく覇気がない。でも夏バテというより、食べ合わせも影響しているんじゃないだろうか。龍族的にはゲテモノ食いのノクラフだ。先日寄港した港町で、なんだかよくわからない缶詰と、危険色の果物を買っていたことを知っている。

「缶詰はおいしかったよ」

「そ、そうか」

 心情を上手く誤魔化したつもりだったのに、一部が漏れ出てしまった。だが、ゲテモノ食いというあたりは読みとられずに済んだようで、ノクラフはそれ以上追求してくることはなかった。よかった。

 甲板にはそれぞれ、思い思いの格好で常より多い船員たちがたむろしていた。これから始まる海賊戦に血を滾らせいているのか、残忍な気配に湧いている。爪を研ぐ龍たちを横目に、カラスはノクラフと連れだって船橋に入った。

 船長の魅朧はすでに戦闘服に鱗を替えていた。武器も帯びていないのに、全身が凶器のような威圧感がある。けれど彼が自分を傷つけることがないと理解しているので、カラスは迷わず魅朧に近寄った。

「おはよ」

 普段なら歓びを隠さずに声をかけてくる魅朧が、顰め面を浮かべてカラスを見据えている。

「何?」

「……お前、出る気か?」

「当たり前だろうが」

「今回は留守番する気ねぇか?」

「何をいまさら。理由は?」

 カラスは訝しんで尋ね返した。海賊戦に参加したことのない素人でもないし、人間相手なら勝手知ったるものだ。それに今まで、魅朧はカラスが戦闘に参加することに難色を示したことはなかった。相手が『ただの人間じゃない』ことと関係あるのだろうか。

 いつも通りに仕事をしている船橋のメンバーは、視線を向けずに耳だけそばだてて、船長とその伴侶のやり取りを窺っていた。カラスが思うように、珍しいことなので、誰しも興味がある。

「……お前、本調子じゃねぇだろ」

「普通だよ」

「足腰危ういぞ」

 なぜ、船橋に入ってここまで歩いた程度で見抜ける。カラスは悪態を口には出さずに飲み込んだ。

 だが、相手は魅朧だ。言葉にしなくとも心の中を裸にする。

「原因作ってる俺が言うんだ。間違っちゃいないだろ」

「許容範囲内だ」

 無表情で切って捨てたカラスに、魅朧が舌打ちした。舌打ちしたいのはこっちだ。

 赤裸々に昨晩の件を語らないだけ彼にもデリカシーはあるが、船橋の面々が聞き耳を立てている場で持ち出す話題ではないだろう。これから戦闘だというのに修羅場を繰り広げてるいる場合でないことは理解しているが。

「……今回の相手は、魔術だけとは限らん。錬金術で応戦される可能性が高い。万全の体調じゃないなら、おとなしく留守番しててくれないか」

 打診しているようで、魅朧は命令を仄めかしていた。だが、仄めかしているだけだ。強制はしない。

 カラスは青磁色の瞳を細めた。ねめつけるように見上げ、魅朧の真意を探ろうとする。だが、黄金の瞳には感情の色がなかった。海賊船の船長としての冷酷さがあるだけだ。

 悔しくてたまらない。色疲れのせいで役立たず扱いされるなんて、あってたまるものか。自分の価値を示す場を取りあげることは、いくら魅朧でも許せない。

「錬金術と魔術は派生した先が違うだけで原理は同じだ。俺はいつものように戦える」

 譲らないカラスの言葉に、魅朧が黙って天を仰ぐ。彼にどんな態度をとられようが、カラスの意思は揺るがなかった。

 戦えることを証明したい。自分は無力なだけの人間ではないのだ。愛玩人形にされるくらいなら魅朧を選ばなかった。どんなときでも爪であれることを取り上げないでほしい。

 カラスの心は静かな怒りに満ちていた。

「……好きにしろ」

 たてがみのような金髪をかき上げた魅朧は、呆れを隠さず盛大に溜め息をついた。

「ああ」

 短く応えたカラスは、そのまま踵を返して甲板へ向かった。魅朧がどんな顔をしているのか、見ることができなかった。




「……くそ」

 殺気と錯覚するほど強い憤りを腹に押し込んで、魅朧はうなった。手当たり次第に八つ当たりをしたいが、その状況にないことは痛いほど自覚している。

 カラスを大切にしたいだけだ。少しでも身の安全が確保できないなら、傷つく前に安全地帯に置いておきたい。そうでなければ安心できないのは自分なのだ。

 あの頑固者は冷めているようで熱い。きっと俺は誘導の仕方を間違えたのだろう。おそらく、いまさらどう懐柔して懇願したところで、カラスは意思を曲げはしない。

 魅朧は愛する伴侶について、その細胞レベルまで把握している。何か違和感があれば目視で充分に察知することができるし、隠そうとすればなおさら気になってしまう。だから、カラスが腰回りを庇っていることなど、ただ立っているだけでも簡単に見抜けてしまう。そしてカラスも指摘そのものは否定しなかった。

 ただの過保護だと言えばそれで終わるのだろうが、過ぎていようと何だろうとカラスに怪我を負わせたくない。どれだけ小さな要因だろうと、可能性があるのならば排除するに限る。

 カラスだって若造ではあるまいし、己に何ができるかという限度はわかっているはずだ。彼は優秀な暗殺者だった。ミスひとつで招く事態くらい予測できない男ではない。

 たとえば己の役割を知っているノクラフやクトレトラのように、戦闘種族であっても戦わない選択をすることは恥ではないのだ。龍はそれを役立たずとは見なさない。

「こんなときに何やってんのよ」

 カラスと一緒に入ってきたまま夫に張りついて静観していたノクラフが、見ていられなくなったのか魅朧に声をかけた。他の船橋メンバーたちは、船長に同情して声をかけるなんてできなかったのだろう。気遣いがつらい。

「……何やってんだろうな」

「カラスも男だからねぇ」

「それとこれは別だ」

 魅朧はぴしゃりと言い放つ。たしかに雄は無茶をしがちだが、見極めに性別は関係ない。幾分きつい物言いになってしまったせいか、エルギーから糾弾の気配が流れてきた。

「……悪いな」

 お前の嫁さんに八つ当たりする気はねぇよ。

 そんな心境を送り返してやっても、我が副官は許しはしなかった。自分の非を理解しているので、魅朧も許されることは求めていない。

「馬っ鹿みたい」

 雄たちのやりとりと、魅朧とカラスの痴話げんかじみた行動に、ノクラフは鼻を鳴らした。この場で一番若い彼女が、一番状況を理解している。

「カラスは姿を消して戦うじゃないっすか。俺らなら居場所がわかるけど、人間には気配だって捉えにくいと思うんすけど」

 すでに戦闘準備を整えているジビェが、クトレトラの背後からカラスのフォローを入れてきた。その図太さには恐れ入るが、物理的に非戦闘員を盾にしているあたりが、ジビェの若さだろう。

 誰に言われずとも、カラスの戦い方を魅朧ほど熟知している者はいない。

 カラスの戦闘スタイルは暗殺のそれだ。堂々と姿をさらして戦う騎士道精神は持ち合わせていない。あからさまな強さも派手さもないが、かわりに容赦もない。淡々と命を刈り取っていく。

「遊ぶことに命をかけているのですから、常に最悪を想定しなければ」

 海図を注視するクトレトラのつぶやきに、ジビェは舌を出した。それはそれで後ろ向きすぎる。クトレトラのような思考は海龍では少数派だ。

「あいつの魔力は中の上だが、使い方が上手い。単純な体術で勝てる人間は稀だろう。だが、あいつ以上の魔力保持者には通用しねぇし、錬金術となれば扱いが変わる。錬金術師なんてもんは、ほとんど絶滅危惧種だぞ。知識はあっても対峙した経験はねぇだろうよ」

 カラスが主張していたように、派生しているだけで元は同じだ。ただ、錬金術で栄えた国が滅んでいるので、ほとんど失われた技術に近い。

「錬金術は、突き詰めれば魔力をぎりぎりまで削ぎ落として物理力に変える術だ。俺らの鱗に傷入れる錬金武器だってあるんだぜ?」

 知ってるか、と視線をやれば、ジビェが渋い顔をした。

「大砲は錬金術師が生み出したんだぞ」

「火薬を出されると無条件に無効化できない。力には同じ力で返さなければ」

 舵を握るエルギーが魅朧の言葉に補足する。

「だから今回は船底にひとりやるんだよ。船落とされたら俺らはいいが、龍体になれねぇやつはしんどいからな」

 最強の海賊船と名高い漆黒の鱗スケイリー・ジェット号は、その名の通り装甲が龍の鱗で覆われている。

 生涯で数度しかない脱皮で出た抜け殻を、すり潰して塗料に混ぜてあるのだ。だからこそ、ちゃちな魔術なら跳ね返すことができるし、物理攻撃に対する耐久度も高い。けれど、錬金術で作られた鉄の大玉を打ち込まれては、そこそこの打撃にはなる。

 それを回避するには、龍の本体に戻って船を護る者が必要だ。今回はすでに、防御に特化した者が船の周囲を泳いでいる。

「まぁ、船やられるくらいの戦力持ってる奴らだったら、俺が本体に戻って速攻で落とすけどな」

「うわー、ひでぇ、俺らの出番ないじゃないっすか」

 ぼやくジビェは己の伴侶と正反対に、肉弾戦を生きがいにしていた。龍体の爪より、擬態した人型の拳で殴りつけるほうが楽しいと豪語している。

「別に俺じゃなくてもいい。本体で殺りたいって奴がいれば譲ってやるさ。俺はここで見学でも文句言わねぇよ」

「どの口が言ってんのよ。率先して前線でばって虐め倒すアンタが」

「まったく、本当に」

 すかさずノクラフとエルギーが夫婦そろって突っ込んでくるので、魅朧はただ苦笑を浮かべた。信用ねぇなあ、なんてつぶやきながら。

 正直、カラスとの先ほどのやり取りで、すっかり興を削がれていた。敵海賊船を沈没させるような状況になれば、やりたい者に任せても問題ない。龍種としての強さは族長である魅朧が最強だが、ただの甲板員だって本体に戻れば船を沈めるくらい造作もないのだ。

「……あんま期待しないでくれるなら、カラスのこと気にかけといてもいいっすけど」

「いや、いらん」

 魅朧はジビェの提案を拒絶した。この若者がそこまで器用に戦えるとは思っていないし、それこそ、これは魅朧の問題だ。己の伴侶を他人任せにできるわけがない。

「キャプテン、目標がこちらの陽動に気づきました」

 クトレトラが硬い声で告げる。状況の変化のせいではなく、己の伴侶が誰か別の相手を気遣うことが腹立たしいだけだ。だが、クトレトラはジビェにその本心は明かさないし、ジビェも伴侶が嫉妬を抱くなど考えもしない。

 こいついつか刺されるんじゃねぇかな、と誰にも覗かせずに胸中でぼやいた魅朧は、それっきり意識を切り替えた。カラスについても一時脳裏の片隅に追いやって、海賊の顔になる。

「……おもしれぇな。どんな顔してんのかくらい、見ておいてやるか」

 萎えていた戦闘欲求がぶり返す。フラストレーションは飲み込むより発散したほうがスッキリする。魅朧は唇を弓なりにつり上げ、喉を鳴らした。飢えた獣のうなり声が低く響いた。

チィオ、思考チャンネルはフルオープンにしとけよ。連絡は全てそれでやる」

「アイ、アイ、キャプテン」

「船は任せた」

「ああ、任されよう」

 魅朧の後ろ姿には、誰ひとり無事を願う言葉をかけなかった。船長が負けるはずがないと知っているし、それは疑いようのない事実だ。

 彼らはただ、戦利品を楽しみに待てばいいだけだった。




 カラスは甲板の隅で、魅朧の略奪宣言と仲間たちの鬨の声を聞いていた。

 参加は、しない。いつもそうだ。カラスの目的は略奪ではない。魅朧のそばにいることだ。

 そもそも、海賊達とまともに戦えないのであれば、彼に言われなくても大人しく船長室に引っ込んでいただろう。けれど技術があった。補助魔術と暗殺術が自分を作り上げているものだ。自分にはそれしかない。一個の武器になれない己に価値を感じられなかった。

 魅朧の背後を護るなんて、そんな大それたことは考えていない。ただ、魅朧が有利に戦えるのならそれでいい。彼の邪魔にならない程度に敵を攪乱し、味方の援護を行う。そうできることが、誇らしかった。役に立てる喜びを取り上げないでほしい。

 姿を消して敵を倒していくことを卑怯だと罵る者は、この船には誰ひとりいない。彼らは海賊だ。使えるものは何でも使う。手段は問題ではない。目的は略奪と征服だ。手助けができれば、それだけで充分。

 魔術で姿を消したカラスは、音も立てずマストの一本に登った。敵海賊船が見える位置で待機しながら、相手の規模を推測していく。

 ドラゴンたちは己の感情だけで会話ができる。言葉にしなくとも、敵の情報や戦況を伝え合う。けれどカラスは人間で、感情の送信はできても受信はできない。できない自分を思いやって逐一説明しろとは、いくらなんでも求められなかった。

 彼らだってわざとカラスを排除しているわけではない。完全な人間と暮らす経験がないので、言葉を発することの重要性に気づかないだけだ。築き上げている文化を、自分ひとりのために変えさせたくはなかった。

 それに、尋ねたら答えてくれるのだ。遠慮せず聞けばいいだけのことだった。魅朧がそばにいれば勝手に察してくれるけれど、彼を拒絶したのは自分だ。のこのこ隣に立てば、したり顔を向けられそうで悔しい。魅朧なら、楽しむことより俺を優先して守りそうな気がする。だから、索敵は自分で行うことにした。

 敵は大型船だ。この漆黒の鱗スケイリー・ジェット号には劣るが、結構な規模の海賊団とみていいだろう。漆黒地に黄金の龍が描かれた帆を見ても逃げないのだから、根性のほども相当なものだ。直進から舵を切ったのか、ちょうど船の側面が見て取れる。移乗攻撃の準備にしては遠い。

 敵甲板上に六十以上の人影があった。きっと、もっといるだろう。目視でそれだけ確認できるほど近付いているのだから、船の外装が珍しいことにはすぐ気がついた。鉄の筒が突きだしているのは大砲だろうが、どこかおかしい。あんなにゴテゴテと飾る必要はあるのだろうか。

 横腹を見せて砲撃するのは定石ではあるが、魔力の集積反応を感じない。大砲というものは金食い虫だ。打った砲丸は帰ってこないから使い捨てだし、砲丸に使う金属の塊それ自体が高価だ。触媒に魔力を込めて火球ファイログローボを放った方がよほど数をまかなえる。

 敵海賊船が一斉に砲を放った。ドン、と腹に響く音があとに続く。あれは火球ファイログローボではない。けれど、ただの砲丸というわけでもない。魔力反応が極端に低いのに、それだけじゃないようにも感じる。

「……何だ?」

 こちらに向かって飛んでくる物を目で追った。近づいてくるとわかる。打ち出された砲丸が真っ赤に焼けて、生き物みたいに蠢いている。なんだあれ。危険を警告するように、カラスの背筋にぞくりと冷たい物が走った。

 いくつもの砲丸が漆黒の鱗スケイリー・ジェット号を襲った。魔の術であれば船を傷つけることもないが、魔の薄いあれは物理的な打撃も同じだ。けれど、その何かが船体に触れる前に、立ちのぼった水壁によってはたき落とされた。

「っ……、わ」

 大波に乗り上げた揺れで、カラスはマストに巻いてあるロープをつかんだ。大型の漆黒の鱗スケイリー・ジェット号がこれだけ揺れるのだから、相当なものだ。荒っぽいが、これなら船に傷を与えられることもないだろう。誰かは知らないが、海の中にドラゴンが潜んでいる。

 揺れのためにつかんだロープのおかげで、通常の船舶では有り得ない急加速に振り落とされずにすんだ。

 帆が風をはらむ。海は海龍の独壇場だ。それは龍の身体でも船でも変わらない。急加速や急停止、大型船にもかかわらず高機動を見せつけられた者は、まず己の正気を疑う。あんなもの、船の動きではない。高等魔導だって、これだけの船を瞬時に動かす術はないだろう。だからこそ、海龍は最強なのだ。人間には不可能だろうとせせら笑う行動は、しかし、ドラゴンの本能の生き方そのものだった。

 体に響く爆音は断続的に続いている。けれど無傷のまま、漆黒の海賊船の舳先が、敵船の一部を破壊しながら接近した。

「乗り込めッ!」

 誰かの怒鳴り声が開戦の合図になった。

 それ以降聞こえてくるのは、途切れ途切れの単語だけだ。どれだけ混戦になっても、魅朧は自分の船に敵を入れない。必ず敵船に乗り込んで戦う。それは、船が沈んで足場がなくなっても問題ないからだ。

 甲板を蹴って飛び上がった魅朧の姿を視界に収め、カラスは足音も立てずに続いた。



◇◇◇



 この世界に足を突っ込むのなら、金色の龍を帆に掲げた黒い海賊船には関わるな。キャプテン魅朧など追おうとするな。

 それは海賊業を営む全ての者達が最初に告げられる言葉だ。海賊は盗賊と同じように新人が増えやすいが、新人ほどすぐにいなくなる。先人の忠告を聞かないからだ。伝説の海賊などいるわけがないと高をくくり、喧嘩をふっかけて沈められる。

 しかし、長年海賊をやってきている者にとっては、黒い海賊を倒すことがひとつの目標になることがあった。

 自分が弱小のときには手を出さない。仲間を増やし、奪った財宝で武装を固め、下調べと準備を万全に行って、挑むのだ。黒い海賊は、落とせば一攫千金どころではない。莫大な宝と、なにより伝説を倒したという名声を得られる。

 命がけの挑戦だ。負ければ海の藻屑と消える。

「おかしらぁ! カルヴァリンが効かねぇ!」

「狙ってから撃てっつったろうがッ! 誰だ焦りやがった奴ぁ?」

「ちゃんと言われた通りにやった! やっぱヤツラは大魔導師でもつれてやがんだ!」

「うおぉお! 何だあれ、いつのまにあんな近く……」

「ビビるな! 殺せ!」

 ちくしょうが、そんな甘くねぇか。部下の泣き言を聞きながら、頭と呼ばれた海賊船長は唇を舐めた。真っ赤なコートをはためかせ、舵を握る部下の尻を蹴る。

 魔導師じゃない。黒い海賊は魔術を使わない。どういう原理か謎だが、魔術では傷すらつけられない。それが目撃者が残した証言の中で一致していた。だからこそ、魔に依存しない武器をそろえた。

 そもそも奴らは人間ではないという噂もあったが、いよいよ真実味が増してくる。

 だが、だからなんだ。相手が人間じゃないなら血が滾るし、高見から引きずり下ろしてやりたくなる。海蛇と契って生まれた種だろうが、ドラゴンを名乗ろうが、海賊には変わらない。

 それに、もし、あのデカい船でドラゴンを飼っているのなら、そいつを殺せばドラゴンキラーの称号だって手に入るじゃないか。

 黒い巨体があり得ない軌道で近づいてきた。真っ正面から突っ込んでくると思った舳先は、甲板の一部を削り取って、そこを支点に横付けされる。なんて頑丈な船だ。

「カロネード用意! 片っ端からぶち込んでやれ!」

「お頭ぁあああ! 海水にやられた!」

「煩ぇ! 海水なんて塩辛い水だアホ! 錬金火薬が水でやられるかよ! 撃て撃て撃て!」

 怒鳴りあう合間にも、漆黒の船から黒ずくめの男女が乗り込んでくる。巨漢でも異形でもないのに、揺れる甲板をものともせずに剣を振るってきた。

 血と汗と加薬の匂いが充満し、命令なんて意味がなくなる。近距離で砲を打ち込めば、どんな船だってひとたまりもないのに、近づいてきた早さと同じ素早さで漆黒の船が引いていった。

 船を潰して退路を断つ手段はとれなくなったが、これで終わるわけじゃない。

「……吠え面かかせてやるぜ、トカゲ野郎ォオ!」

 特殊なのは大砲だけだと思ったか。歯を剥き出しにして叫んだ船長が、空へ向けて銃を放った。

 大混戦のさなか、ひとり、ハッキリと目立つ男がいた。たてがみのような金髪をなびかせ、爬虫類みたいな金眼を残虐に輝かせている。若くもないが老いてもいない。他の黒ずくめたちと同じに見えて、どこか違う。

 あれだ。きっと、あの男だ。

 あれが、キャプテン魅朧。

 武者震いに笑いが止まらない。銃口を向けると、男がにたりと笑って飛び上がった。馬鹿め。滞空中は回避ができなくなる。そう確信して引き金を引いたが、魅朧は無傷で海賊船長に迫った。

「面白ぇおもちゃだが、相手が悪かったな」

 ちりちりとした殺気を首筋に感じ、横に飛んで受け身を取る。耳の縁に、火のついたような痛みを感じた。立っていた場所に、毛束の一本が落ちていた。

「……てんめぇ」

 手っ甲で耳をこすれば血が滲んでいる。自分の血をみて、興奮が最高潮に達した。

「よく聞け海トカゲ! 俺の名はルーサー、お前を倒す男だ!」

 鉤爪を血に染めた黒ずくめの金髪は、啖呵に激高するでもなく、薄笑いのまま鉤爪の血糊を振り落とした。



◇◇◇



 たしかに彼らは面白い武器を使う。

 カラスは敵の海賊船の檣楼しょうろうから、戦場と化した甲板を見下ろしていた。

 特殊な鉄製の武器だ。独特の火薬臭。これが錬金術で作られた銃か。連続で発射されるわけではないし、音がうるさい。これなら手練れの剣士の方が余程危険だ。

 しかし危険が少ない訳でもない。確かに攻撃魔術でないのなら、ドラゴンに傷を与えることも可能かもしれない。もっとも、大半が黒革を貫通できないようだけれど。

 それでもカラスは、銃を持つ者を優先的に倒していった。檣楼しょうろうの狙撃手など一番危険な存在だ。だから、まずは、ひっそりと近づいて着実に排除してしまう。仲間達が上空からの襲撃に煩わしさを感じないように。

 銃を持つ者は狙撃手だけではない。甲板の上で戦う中にもちらほら混じっている。遠距離からの短刀投擲は適していないので、ダガーを片手に甲板を走り回った。

 海龍たちはカラスの気配を知っているから、姿消しの術マラベーリスを使っていても気づく者がいる。無言で肩や背を叩いて感謝や応援を態度で示した。声をかけてくる愚か者はいない。彼らは感情を読む。カラスが胸中で笑えば、それが伝わって応えになった。

 それにしても、この海賊船は広い。船団を相手にしたことはあるが、大型船の海賊を相手にするのは初めてかもしれない。人波をすり抜け、投げたナイフを回収しながら、カラスは常より上がる呼吸に気づいて舌打ちをした。微妙な身体の怠さを庇うから、普段より疲れるのが早いのかもしれない。

 カラスは小回りを得意としている。すれ違いざまに命を刈り取る。元より暗殺のために仕込まれた技術だが、あらゆる応用が利く。補助魔術で膂力と素早さを上げ、通常より高いジャンプ力を利用して縦横無尽に駆け、アクロバットのような動きで跳ね回る。こういう戦い方をする者は、魅朧の仲間にもそういない。混戦向けではないけれど、船上で戦うのなら使い勝手はすこぶるいい。

 難点は、息を潜めて暗殺をするより、跳ね回るぶん体力を使うことだ。今のように。

 鋼のこすれる悲鳴のような音と、何かが折れたり砕けたりする破壊の音と、血臭に乗る笑い声。カラスはその中から魅朧の声を聞き分けた。視線をやれば、一番目立つ場所で戦っている。あれは船橋の上だろうか。

 彼に近づく最短距離には障害物が多すぎる。樽や鉄筒を足場に飛び上がり、帆を張るための帆桁ヤードに着地した。見渡すのに丁度いいのだが、たまにロープにぶら下がる馬鹿がいるから気を抜けない。

「っ……」

 飛ぶ瞬間と着地の時が、一番負担がかかる。息を詰めて、歯を食いしばった。この程度、何だというんだ。もっと死にそうな時も、子供の頃にはあっただろう。

 空中でバランスを立て直し、別のヤードに降りた。。

「……い、ッ」

 マジかよ。

 声を漏らしてしまったことも悔しいが、胸中の悪態が魅朧の口癖で、そっちの方がショックだ。口癖が移るだけ、共に過ごしている事実をうまく飲み込めない。

 というかもう、色々とストレスが溜まっているのだ。気持ちよく睡魔に身を委ねていた途中でたたき起こされるわ、遠回しに役立たずだと言われるわ、原因がお前のくせにデカイ口を叩くなと怒鳴り返したかった。

 そういう諸々の悪態を読まれたくなくて、開戦まで感情が漏れないよう心に遮蔽を張っていた。魅朧はこの遮蔽を厭うけれど、なんでもかんでも読まれるのが嫌なときもある。

 カラスが思い出したいらだちと身体の不具合に舌打ちしたい衝動を堪えていれば、眼下の魅朧がちらと視線を向けてきた。ヤードから彼の位置までは多少距離があるのに、彼には居場所がわかるのだ。心を読まれないよう、カラスは遮蔽術を張り直した。腹立ち紛れに、魅朧の戦いを邪魔しようと近づく海賊にナイフを投げる。

 このまま魅朧のそばに近寄らず、どこかの檣楼しょうろうから終わりまで眺めていることもできる。けれど、戦えると啖呵を切ったのに隠れているのもいただけない。この海賊船に俺の魔術を見抜ける者はいないようだから、しばらくはここから援護に回ろう。

 甲板の海賊達は誰も上を見ない。狙撃に回ろうという者は全てカラスが排除してしまった。姿も魔術で見えなくしてある。だから、ヤードの上で観覧に回っていたって、誰に狙われることもない。

 そう、カラスは油断していた。攻撃魔術が飛び交わないので、敵を完全に舐めていた。

 魅朧はたいがい、敵の頭を自ら潰しに行くのだが、相手が強ければ強いほど遊ぶ時間も長くなる。銃を持ち出してくるあたり、今回の相手は遊び応えがあるのだろう。動きは大振りだし、やたらと喚いているのだが、不思議と隙が少ない。銃と剣の二刀流だ。片手でも器用に弾を詰め替える手慣れた動きは目を見張るものがあった。器用だし、珍しい。

 魅朧が負けることはないから加勢の必要はなかった。ただ、彼が戦う姿を見るのは好きだ。腹が立っていたって、あの男に惚れていることは否定できない。

 龍の身体で戦う姿の方が好きだけれど、人間に擬態した魅朧も悪くなかった。顔が整っているので、残忍な表情を浮かべていてもどこか魅力的にうつる。筋肉質だが重量級の幅はなく、引き締まった逞しい身体は俊敏だ。

 鱗を思わせる黒革のコートから垂れ下がったベルトが鞭のようにしなった。ほどよく焼けた肌に飛び散った血は、当然敵のものだ。彼は黒も似合うが赤も似合う。

 指にナイフを挟んで遊ばせていたカラスは、ただ熱心に魅朧を見つめていた。殺戮に興味はないので、自分の役割は終わったとばかりに気を抜いていた。

 船首のあたりで爆発音が響いても驚きはしなかったが、船体の揺れにだけ反応が遅れた。バランスを崩し、咄嗟に飛び上がる。降りる先は魅朧が戦う船橋の屋根だが、すぐに離れればいいと高をくくっていた。

 続けざまに何度も爆発音が響く。確認に行くべきだろうか。剣戟音と叫びと笑い声。銃声と爆発音。波の音すらかき消す騒音が、なぜか遠い。

「ん、っ……?」

 着地点を確認したカラスは、脇腹に感じた熱に、ふいの声を漏らした。腰回りの疼痛とは違う。

 片足ずつ足をつけ、反動で別の場所に飛び移ろうとした。衝撃を吸収するために曲げた膝が、そのまま床に落ちる。

「カラス……ッ?」

 魅朧の怒鳴り声に何事だと顔を向けようとしたのだが、視線しか動かせなかった。

 何だ、これは。体が制御できていない。意識だけが先にある。

「カラス!」

 うるさい。敵にバレるだろ。いや、もうバレてるか。

 だったら怒鳴り返していいだろう。それなのに、口を開いても声はでなかった。魅朧が本気なら遮蔽を張ろうが心をこじ開けてくるから、まあ、きっと、文句は読みとってくれるだろう。

 それよりも、腹が熱い。なんで。

 カラスは熱いと感じる場所を指で探った。視界は索敵のためにあけておきたいから、視線は下げない。なぜだか、全てのものが妙にゆっくり動いて見えた。

 姿消しマラベーリスを使っているから場所を特定されるはずもないのに、黒装束の仲間たちの視線がこちらに向けられている。よそ見をして敵に隙を見せるな。そんなことを思ったが、敵の海賊たちの大半もこちらを見ていた。なんだ。なんなんだ。

 冷えた指先が温かいものに濡れた。腹が、熱い。鈍痛が広がる。腰の怠さはすっかり消えていた。

 魅朧が対峙していた相手を放り出して走り寄ってくる。必死の形相なんて初めて見た。

 でも、あんた、何してんだよ。敵に背中をさらすなんて。

「カラス?」

 魅朧の背中の向こうには、所々引き裂かれた真っ赤なコートを纏う男が喜びに唇を歪めている。男の握る銃が持ち上がった。狙いが誰かなんて、一目瞭然だ。

「魅……朧、……っ」

 あんた、撃たれるぞ。

 言葉の変わりに、口の中に血の味が広がった。いや、血じゃない。嘔吐するときみたいな酸っぱいものがせり上がってきて、たまらず噎せてしまう。途端に走った激痛に、カラスは顔を顰めた。

 異常なことが重なっているとようやく自覚して、カラスはようやく己の腹部へ視線を向けた。指が赤く染まっている。返り血を浴びた記憶はない。戦闘服に穴があいていた。指の隙間から、どんどんあふれてくる。

 何だこれ。ああ、俺の血か。

 呼吸を忘れていたカラスは、息苦しさに戸惑った。息をうまく吸い込めない。眉間に皺を寄せ、片目をつむって苦痛をやり過ごそうとする。それでもまだ、状況が理解できていなかった。

「カラスッ! 俺を見ろ!」

 急に、耳元で怒鳴られた。いつのまにそばへ来たのか、叫んでいるのは魅朧だった。

 敵はどうしたんだ。あんたを狙ってた。あの、赤いコートの男は。どこに。

 視線を泳がせても姿を見つけられず、それよりも、魅朧の金髪の先が赤く染まっていることに気を取られた。

 まさかあんた、撃たれたのか。俺のドラゴンに傷をつけるなんて、返り討ちにしてやらねば気がすまない。

 立ち上がろうとしたカラスは、しかし、当の魅朧に抱き寄せられた。顎をつかまれ、目を合わせられる。

「俺の血じゃねぇよ。返り血だ。馬鹿野郎。お前、自分が撃たれたのわかってねぇだろ」

「め……、朧」

「いい、喋るな。わかる。黙ってろ」

 あんた、何でそんな顔してるんだ。

 表情豊かな魅朧の顔からは、一切の感情が抜け落ちてみえた。ただ黄金色の瞳だけ、ぎらぎらと仄暗く鈍い輝きを放っている。それがカラスには恐ろしかった。恐怖は、寒い。

「寒いのは失血のせいだ。……何でそんな平気なツラしてんだお前は」

「キャプテン……! カラス生きてっすか? って、うわ、すげぇ……」

「うるせぇ。黙って殺してろ」

 駆け寄ってきたジビェをにらみつけ、魅朧が舌打ちをする。そうだ。戦闘中だった。腕の中が心地よくて眠くなる。必死に睡魔を振り払い、カラスは情報を得ようともがいた。

「カラス、動くな」

「でも」

 追いすがるカラスを、今度こそ魅朧がきつくにらむ。蛇に睨まれた蛙はきっとこんな気持ちになるのだろう。身体が固まったように動けなくなった。

「お前ら、後は好きにしていい。そこに転がってる赤コートの猿だけは生かしたまま連れてこい」

「アイ、アイ、キャプテン」

 遠くで誰かが応える声を聞いた。一瞬だけ気を失っていたのか、気づいたときには魅朧に抱き上げられて、どこかへ運ばれている途中だった。

 まだ戦闘は終わっていない。それなのに、魅朧は離脱しようとしている。自分が原因で、彼の楽しみを中断させてしまったのか。

 せめて謝ろうと口を開きかけたカラスは、嘔吐くように咳き込んだ。

「喋んなっつってんだろ」

 冷たい声だ。突き刺さるような音程だった。

 ああ、本当に、彼を心底怒らせてしまったのか。船橋で告げられたとおり、俺は使い物にならなかった。役立たずどころか、足を引っ張って、迷惑をかけている。怒らせたかったわけじゃない。ただ、彼の爪になりたかった。

 役に立てば、捨てられずにすむから。

「お前……」

 低いうなり声のような音が聞こえた。視界がかすむ。魅朧の顔が見たい。吐き捨てるような溜め息を耳にして、泣きたくなった。実際カラスは落涙していたけれど、本人は気づいていなかった。

「……馬鹿野郎」

 胸が押しつぶされそうな切ない魅朧の声も、耳の中で響く鼓動の音にかき消されてしまう。

「あんまり心配させんな」

 額に振動を感じて、カラスはついに意識を手放した。

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