禾乃登 〈こくものすなわちのぼる〉

 緑の穂が重みを増し、少しずつこうべを垂れていく。

9月に入っても、まだまだ暑い日が続いていた。

俺たちは、約束した通り、『銀河鉄道の夜』の聖地を目指して旅立った。

仕事が終わってから、電車に揺られて街まで行って、まだ引き払われていないコータのアパートに泊まり、翌朝岩手に向けて出発する。


 約1ヶ月ぶりのコータのアパートが、すでに懐かしい。

この玄関で交わされた全てが、愛おしい思い出になっている。

「結局、いつ引き払うの?」

俺は聞いた。

住まないまま借りておくのは、家賃がもったいない。

8月末で派遣の仕事も終わったなら、9月中にはここを引き払った方がいいだろう。

「ああ、うん。父さんと相談して、近いうちに実家に運んだり、捨てたりして、正式に引き払うよ」

少し消極的な物言いに違和感を感じながらも、8月のコータの忙しさを思って飲み込んだ。

就職活動があまりうまくいかずに、苛立ったり、焦ったりしてるのも知ってる。

だからコータには、余計な心配はさせたくないんだ。

コータが荷物を置くと、大の字にベッドに横になったから、その横に俺も滑り込む。

すぐにその腕につかまった。

「実は小学校の修学旅行、花巻だったんだよね。あんまり覚えてないけど」

「俺んとこは、日光だった」

コータが俺の頭に顎を乗せ、グッと引き寄せた。

「不思議だよな。父さんの転勤がなければ、オレたちきっと出会うことは無かったんだよな」

「でも、出会った」

俺は呟く。

「もう、それだけで奇跡みたいなもんだよな」

声に出さず、ただ頷く。

「ありがとう。出会ってくれて」

何だか声が悲しそうに感じて、振り向こうこするけど、コータの力が強くて出来なかった。


 予定通り、始発の電車に乗って、北を目指す。

ビルが立ち並ぶ街の中から、少し走るともう黄金色に変わりつつある稲穂の絨毯が左右に広がった。

隣でコータが笑ってる。

大丈夫。

俺は微笑みかえして、また車窓に視線を移した。


 地元の電車はボックスシートがあるけれど、北に向かうこの電車はロングシートしかないので、コンビニで買った朝ごはんを食べられないまま、俺たちは乗換駅に着いた。

乗換の電車を待つ間、ホームのベンチでおにぎりに食らいつくと、時折涼しい風が吹いて、空気が秋に変わりつつあるのを感じる。

「やっぱりつや姫はうまい!」

俺が声をあげると、コータが笑った。

「よっ、目指せ、お米マイスター!」

「はえぬきの方が、冷めてもおいしいからおにぎり向きなんだけどね」

俺はいい気になって、いつものセールストークを繰り出す。

「オレ気にせず買ってたけど、青天の霹靂使用だ」

「え、ちょっとちょうだい」

差し出されたおにぎりを齧ろうとすると、すっと引かれる。

「おい!」

いたずらっぽく微笑んで、また差し出すから、腕を押さえて齧りつく。

「どう?」

真剣な眼差しで聞く。

「良くわかんねぇや」

と答えると、

「おーい!」

とツッコまれる。

乗換の電車の入線アナウンスが流れて、俺たちは笑い合ったまま乗車口に並んだ。


 空腹を満たしたところに、電車の揺れは揺りかごのようで、乗換てしばらくすると、2人とも浅い眠りに落ちていた。

ふと、目を覚まして横を見ると、まだコータが眠っていた。

スマホで時間を見ようとした時、相澤さんからメッセージが届いているのに気が付いた。

『哲男さんが総代を下りた。もう一度総代会やり直す。日程決まったら連絡する。その前に一度連絡くれ』

これを読んだのが、コータが寝ている時で良かった。

俺は小さくガッツポーズして、

『連絡ありがとう。今日は無理だから、明日連絡するね』

と返した。

返信し終わったところで、コータが目を覚ました。

「もうちょっとで着くよ」

そう話しかけると、コータが寝ぼけ眼で笑った。


 電車を降りると、さらに北に来たせいか、風がより涼しく感じた。

空が青く澄んで高い。

「次に乗るのが銀河鉄道?」

「うん、モデルと言われてる釜石線。見て」

コータが改札側のホームを指さすと、古い列車の信号のオブジェに『チエールアルコ・花巻』と書いてあった。

「なんかもう感極まりそうなんですけど!」

向かいのホームとの間の、背の高い草たちが、風が吹くたびに揺れている。

俺はコータの手を引いて、改札へ向かう階段を駆け上がった。


釜石線のホームに降りると、岩手の民俗芸能鹿踊りの像が立っていた。

「記念に写真撮ろ」

コータが俺を引き寄せて、俺たちは自撮りで鹿踊り像との写真を撮った。

「今日はたくさん写真撮ろう。スタジアムの時、帰りだけだったから、もっと撮れば良かったって思ったから」

「うん。じゃ、あっちでも撮ろう」

さっき見た信号のオブジェの駅名標を指さす。

また自撮りで撮ろうとするも、信号の高さがあるから上手くいかず、通りかかった駅員さんが撮ってくれた。

「見て、良くない?」

めちゃめちゃ嬉しそうに、俺たちは笑っていた。

「ね、ちゃんと俺にも送ってよ。スタジアムの写真、お前待受にしてるけど、俺もらってないからな?」

俺の眉間にシワが寄ったのを見て、

「すぐ送ります。今、送ります」

とコータが笑った。

入線のアナウンスが流れる。

「いよいよ、銀河鉄道に乗るんだ」

俺がそう言うと、コータが声を変えて、少し戯けて言った。

「ぎんがぁステーション。ぎんがぁステーション」

たった2両編成の四角い電車が、ゆっくりと走ってきて止まった。


 今回の旅の行程は、コータが全て考えてくれた。

ここから、まずは新花巻まで行くという。

平日だからか乗客はまばらで、俺たちの乗り込んだ車両には、他に2組の老夫婦がいるだけだった。

快速列車は、1駅通過して、ほんの数分で新花巻に到着した。

降りた瞬間、俺たちは言葉を無くした。

その駅には、『星めぐりの歌』の歌詞と共に、出てくる星座たちが描かれ、駅名標にはステラーロ・星座と書かれていた。

「俺たちは星座に降りたんだね」

ひとつひとつの絵を見てまわりながら、『星めぐりの歌』を口ずさむ。

コータが立ち止まっているところに歩み寄ると、赤い蠍の絵の前だった。

「本当のみんなの幸せの為に」

コータがポツリと言った。

「その為に蠍は燃えて、星座になったんだね」


 釜石線のホームは、新幹線の止まる新花巻駅とは道を挟む形で離れている。

ホームから階段を降り、地下通路へと向かうと、そこにも星たちと星座が描かれ、釜石線の駅と別名が書かれていた。

「眼鏡橋と道の駅があるのが宮守」

俺は宮守を探して、指さした。

「銀河のプラットホーム」

感動を隠せない顔で振り向くと、コータが優しく微笑んでいた。


 地下通路を抜けた先には高架の新幹線駅があり、ロータリー脇には銀河鉄道のオブジェと、宮沢賢治作品のモニュメントが建っていた。

突然『星めぐりの歌』が流れてきて、俺たちは顔を見合わす。

どうやら近づくとモニュメントから曲が流れるようになっているらしい。

「愛されてるな、宮沢賢治の世界」

コータの言葉に頷く。

宮沢賢治が愛したこの地が、宮沢賢治を、宮沢賢治の世界を愛している。


 四苦八苦しながら2人で写真を撮っては、コータがスマホに送ってくれる。

俺はその写真を確認して微笑む。

「まずはどこ行くの?」

「童話村かな」

駅前のロータリーからタクシーに乗りこむ。

「ご旅行ですか?」

バックミラー越しに、運転手が聞く。

「はい」

コータが答える。

「ちょっと涼しくなって、天気良くて良かったですね」

「そうですね」

そんな会話をぼんやり聞きながら、初めての土地を夢中で眺める。

何気なく見たコンビニの駐車場に、〈あの猫〉の像があって、コータの手を叩く。

「ねぇ、あれジョバンニ!」

コータは見逃したようで、キョロキョロと左右の窓を見回した。

「残念、あれはジョバンニじゃなくて『グスコーブドリの伝記』のブドリです。横に妹のネリもいますよ。よく皆さん間違われます」

運転手が笑顔で説明してくれる。

「あの作品も凄いですよね。そう考えると宮沢賢治作品は『自己犠牲』が多いですね」

確かイーハトーブを救う為に、主人公は生命を投げ打って、火山に残るんだっけか。

「『雨ニモ負ケズ』がもうそうですよね」

運転手の言葉に頷いて、コータが呟いた。

「そういうものに、私はなりたい」

俺はコータの横顔を見つめた。

カンパネルラもそうだ。

同級生を救う為に川に入る。

何だか急に胸がざわついた。

こっそり、コータの手を握ると、コータが驚いて俺の顔を見た。

「どうした?もう着くよ」


「良い旅を」

運転手と笑顔を交わして、タクシーを降りると、童話村のエントランスが、眼に飛び込んでくる。

それは、銀河ステーションの駅舎を模していた。

胸のざわつきが一気に晴れる。

「テンションあがる!」

芝生広場のキラキラと輝くオブジェと写真を撮り、賢治の学校という童話の世界に没入出来る施設では、昆虫の世界に迷い込み、銀河を旅した。

「そろそろお腹空いてきたね」

よくよく考えたら、コンビニのおにぎりくらいしか食べてない。

コータがニタリと笑った。

「注文の多い料理店に行こうか?」

「あるの?」

「あるある。ただし、美味しいご飯の前には、試練もあります」


 童話村から道を渡って少し行くと、ログハウスのような建物が眼に入った。

「宮沢賢治記念館? えっ、もしかして、この階段登る?」

屋根付きの木の階段が、どこまでも続いているように見えて唾を飲み込む。

「367段、上ります」

「マジか」

秋の風が吹いているとはいえ、今日はよく晴れて暑いくらいだ。

「えっ、川島穂高ほどの男がビビってんの?」

コータはよく俺を知ってる。

「こんくらい、ビビってねーし」

俺は加速をつけて、階段を上り始めた。

その後ろを冷静なコータがスローペースで登り始める。

案の定、いくつ目か分からない踊り場で、俺がゼーハーしていると、その横をコータが笑いながら通り過ぎた。

俺は、そんなコータを必死に追いかける。

「もうちょっとだよ」

少しカーブした踊り場で、コータが壁を指さす。

見るとここまでの段数と『な』という文字が貼られている。

「気付いてた? 1段ずつ、『雨ニモ負ケズ』書いてあったの。」

「あ、それで『な』?」

「わたしはなりたい、の『な』」

横の文字を確認しながらラストスパート。

おつかれさまでした、の文字と共に木の階段は途切れ、カウントされない煉瓦の階段の先には、注文の多い料理店があった。 

三角屋根に風見鶏。

古い洋館を思わせる建物には、『ことに肥ったお方や若いお方は大歓迎いたします』の看板が下がっている。

まるで本当に物語の中に入ったみたいだ。

中は土産物屋とレストランに分かれていて、レストランの入口には、物語と同じように塩とクリームが置いてある。

コータが、

「美味しくなーれ」

と言いながら、俺に塩とクリームを塗るジェスチャーをした。

土産物屋のレジにいた女性店員が固まったのが分かった。

「コータさん、さすがに恥ずかし過ぎるんで、やめてもらっていーすか」

俺は自分の顔が破裂しそうに熱くなるのを感じた。

「いま、何か変なこと考えたでしょ? 」

コータがニヤリと笑う。

否定しようとした時、レストランの店員が声をかけた。

「2名様ですか?」

俺は大きく頷く。

「お好きな席どうぞ」

俺たちは、景色のよく見える、角の席についた。

随分と上ったから、遠くの山まで良く見える。

青い空と、緑のコントラストが綺麗だ。

「ありがと。いろいろ計画立ててくれて」

俺が礼を言うと、

「楽しい?」

と聞くから、

「もちろん」

と答える。

「良かった」

コータが嬉しそうに微笑んだ。


 地元の食材をふんだんに使ったイーハトーブ定食を平らげると、コータが言った。

「組紐もあるけど、何かベタなお揃いの物買わない?」

土産物を見て回ると、『銀河鉄道の夜』にちなんだお土産がたくさんあった。

しかし、30代の男が持ってても違和感無い物となると、なかなか難しかった。

「ねぇ、これは? 白鳥座のストラップ」

コータが指さしたのは、シルバーを基調として、星と白鳥座をモチーフにしたストラップ。

星はちょっと可愛らしいけど、シンプルで、男でも違和感なく持てそうだ。

「うん、いいね」

「じゃ、プレゼントさせて」

コータが2つ手に取ると、レジへと向かった。

会計を済ませると、小さなピンクの紙袋に入ったストラップを差し出す。

「旅の思い出」

俺は微笑んで、それを受け取った。


 宮沢賢治記念館で、じっくり展示を見ていたら、駅に戻るバスの時間が迫ってきていた。

上ってきた階段とは別の、色とりどりの花が咲く道を、写真を撮りつつ足早に下っていく。

南斜花壇と呼ばれる場所で、花壇をバックに撮影会かってくらいコータがシャッターを切る。

「お前ばっかり狡いよ。俺も撮らせろよ」

いつでも撮れるから。

ずっと一緒なんだから。

そう思って、俺はあんまり写真を撮らなかった。

でも今日は無性に写真を撮りたい。

スマホを取り出して、急いで撮るけど、コータが止まらないから、ブレた写真ばかり撮れた。


 再び戻ってきた釜石線の新花巻駅には、思ったよりたくさん人がいた。

上りと下りの電車が、時間を置かずに来るので、双方の乗客が待っているからだった。

「いよいよクライマックスだね」

コータがそう言って笑った後、何故か寂しそうな顔をした。

上りの列車が到着すると、大半の人が乗り込み、ホームに残されたのは、俺達と大きなリュックを背負った男性だけになった。

俺は昨日から感じてる微かな違和感の話をしようと思ったけれど、コータがその男性を見ながら、

「まるで鳥を捕る人みたいだね」

と微笑んだので、俺も笑ってまたその違和感を忘れてしまった。

すぐに下りの列車が、やって来た。

来た時と違って、その電車は座れないくらいには混んでいた。

俺たちが並んで立った横のボックスシートには、どこかでお祭りがあったんだろうか、リンゴあめを持った姉弟がはしゃいでいて、甘いリンゴの香りがしていた。

2つ先の、光る川という別名を持つ駅で、リンゴあめの子たちや大勢の人が降りて、俺たちはそのボックスシートに座った。

そうだ。

俺はふと思い出して、ポケットからある物を取り出した。

「覚えてる?」

くたびれたスリーブの消しゴムを見て、コータが眼を見開いた。

「まだ持ってたの?」

「もちろん。俺のお守りだよ」

コータが消しゴムを手に取って、スリーブをずらすと、ジョバンニの絵が現れた。

「休学する時も、教室に取りに行ったくらいの宝物だよ」

コータがハッとして、右手で口を押さえた。

「あの時……」

コータが潤んだ瞳で俺を見つめた。

「それ、今度はコータが持ってて。お守りとして」

裏返した消しゴムには、俺の描いた下手くそなカムパネルラがいた。

「分かった」

コータが、ギュッと消しゴムを握りしめた。

「どこまでも、一緒に行こう」

俺はそう言ったけど、コータは消しゴムを握りしめたまま、何も言わなかった。


 また2つ先の駅が宮守だった。

列車を降りるとだいぶ日が傾いて、過ごしやすい気温になっていた。

ここにも信号機のオブジェ。

駅名標には、宮守・銀河のプラットホームと書いてあった。

「ここから歩くの?」

「10分くらいだよ」

今来た線路を振り返る。

人工の建物がほとんど見えないその景色に、宮沢賢治記念館で見た、岩手軽便鉄道の写真を思い出す。

「この景色を、宮沢賢治も見てたんだろうね」


 線路沿いの道を歩いていく。

オレンジ色の街灯が、かつて商店街であっただろうことを伝えている。

廃墟のような建物が並び、少し怖ささえ感じる。

釜石線を跨ぐ踏切を越え少し行くと、ずっと並行して走っていた大きな道に降りる道が現れた。

もう目の前に道の駅が見えている。

「着いたよ」

俺たちは自然と手を繋いだ。

坂を下りながら、ふと右を見るとそこには5連のアーチ橋が見えていた。


 道を渡って、中央の入口から道の駅へ入ると、そこは別世界だった。

おおよそ、想像する道の駅とは全く様子が違う。

『南十字星行』

と書かれた案内板、大きな柱時計に、星座が描かれた天井絵、そして銀河鉄道の壁画の前には、宮沢賢治が立っていた。

間違いない。

俺たちは、銀河ステーションにいた。

壁画を、運転手がいる先頭車両から順に見ていくと、 丸い星座図を持つカムパネルラとそれを覗き込むジョバンニがいた。

俺が振り向くと、コータが頷いて笑った。

後ろへと進むと、鳥獲りが大きな荷物を背負い乗って来て、2人に鳥を振舞っている。

祈る女性の先で、今度は車掌の検札を受ける2人がいた。

「後ろに行くにつれ、物語も進んでるんだね」

コータが呟く。

この2人、なんか俺たちに似てる。

鳥獲りが降りると、家庭教師と姉弟が現れ、瑞々しいリンゴの香りを嗅いでいる。

俺は鼓動が速くなるのを感じた。

何度も読んだから当然分かっている。

でも、今の今まで、その最後の車両の絵を見るまで、その事実から眼を逸らしていたんだ。

南十字星でみんなが降りた後、ジョバンニの帽子が宙を舞って、カムパネルラを必死で追うジョバンニと、最後尾から旅立とうとしているカムパネルラが描かれていた。

俺は震える左手で、コータの右手を探す。

けれど、そこにコータの手がなくて、焦って振り向く。

少し後ろで、コータが泣いていた。

ずっと感じていた違和感が、グッと喉元に迫ってくる。

でも、怖くて認めたくない。

俺が怯えているのに気が付いたのか、コータが涙を拭って笑った。

「凄い絵だね。感動しちゃった」

コータが笑うと、俺は何も聞けなくなった。


 この辺は、水が綺麗でわさびの名産地らしい。

道の駅の中の銀河亭というお店で、名物のわさびソフトを注文した。

俺がかき氷だけじゃなく、冷たいスイーツが大好きなの、コータは良く知ってる。

「絶対それ食べるだろうと思ってた」

コータは、遠野の地ビールを飲みながら言う。

わさびの香りと、鼻に抜けるツンとした感じはあるけど、普通に甘くて美味しいソフトクリームだった。

「ちょっとちょうだい」

そう言われて差し出すと、少し食べて、

「ホントにわさびだ」

と顔をクシャクシャにして笑うから、この胸に渦巻く不安の雲も、少し晴れた気がした。


 間もなく日没を迎える。

日没から夜まで、眼鏡橋はライトアップされているという。

次の下りの電車が行く頃には、ライトに照らし出されたアーチ橋を列車が走っていく様が見られる。

今ある5連のアーチ橋の前には、煉瓦の橋脚だけが残る、昔の橋がある。

きっと、宮沢賢治はその橋を渡っていく鉄道を見たのだろう。

「昔は真っ暗で、星空を鉄道が飛んでいくように見えたんだろうね」

川辺に整備された広場の階段に腰掛けて、俺たちは眼鏡橋を眺めた。

微かに聞こえるひぐらしの鳴き声と、秋の虫の声が、季節の境目なのを教えている。

「一緒に、この景色を見られて良かった」

コータの言葉に、ただ頷く。

日没時間を少し過ぎたと思った次の瞬間、色とりどりのライトが灯り、アーチ橋を照らした。

きっと休日なら、恋人たちがこの景色を見に集まるんだろう。

橋と撮るにはベストな場所に、恋人の聖地のモニュメントと、ベンチが用意されている。

でも今日は、俺たちしかいなかった。

少しずつ暗くなっていくのを、組紐を付けたお互いの手をしっかりと繋いで見ていた。

辺りが闇に包まれた頃、コータが呟く。

「そろそろだ」

俺たちが渡って来ただろう踏切の警報音が、風に乗って微かに聞こえる。

少しして、大きな警笛と共に、ゆっくりと列車が橋にかかったのが見えた。

ヘッドライトが行く先を照らし、車窓の四角い明りが暗闇に浮かび上がる。

まるで虹の尾を引いて宇宙そらにのぼっていくようで、俺は握った手に力を込めた。

ほんの数10秒。

でもここまで来るのに、俺たちはいったい何年かかったのだろう。

そして、俺たちの旅は、何処に向かうのだろう。

「どこまでも一緒に行こう」

もう一度呟いたけど、答えはなかった。


 行きはゆっくり来た道のりを、帰りは新幹線で急ぎ足で帰った。

2人とも疲れて、ほとんど話すことなく、眠っていた。

明日も仕事がある。

予定通り、日付が変わる前に家に着いたけど、俺はコータを決して離さなかった。

「俺はいいけど、お前は仕事だろ。ゆっくり休まないと」

そう言われても、心が叫んでる。

離しちゃいけないって叫んでる。

「ヤダ」

そう言ってキスした俺の頬を、コータの涙が濡らした。

絶対に離れない。

幾度となく口づけて、その身を焦がしたけれど……


アラームが鳴って、眼を覚ました時、もうコータは居なかった。

リビングのテーブルの上に、合鍵と共に

『ジョバンニ、まっすぐに進め』

と、猫の絵が描いてあった。

俺は崩れるように座り込んで、声をあげて泣いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る