処暑〈しょしょ〉

 まだ緑の稲穂に、白く儚げな稲の花が咲いた。

その小さな花が咲くのは、ほんの数時間。

稲の花が咲くのを初めて見た瑞穂が、眼を輝かせて必死に写真を撮っていた。

「名前、瑞穂にして正解だったな」

オレが言うと、瑞穂が不思議そうな顔をした。

「コータが付けたの?」

「そうだよ」

「地味な名前だから、お祖父ちゃんあたりが付けたんだと思ってた」

地味な名前。

そうかも知れない。

「今、必死で撮ってる稲穂。瑞々しい稲穂を瑞穂って言うんだよ。たった1粒の種籾から育ったその稲穂は、いずれ黄金色になって、こうべを垂れて、日本人の生命を育む米になる」

瑞穂がオレの話を真剣に聞いているのが嬉しかった。

「オレの大切な美しい瑞穂」

そう呼ぶとドギマギして俯く。

「オレはダメな父親だと思う。でも、忘れないで。いつでも、お前を想ってる」

少し照れくさそうにしながら、瑞穂は頷いた。


「本当はもっと一緒に居たかったんじゃないの?」

マチルダさんが聞いた。

「この距離感でいいんですよ。あの子には、別の家族が居るんだから」


 瑞穂が東京に帰って、堪えているのはむしろオレじゃなくナイトだった。

ナイトはこの夏、瑞穂の騎士ナイトだった。

ヤツにとって、初恋の夏だったのかもしれない。


 家に戻ると、2通郵便が来ていた。

それが不採用の郵便であることは、ハローワークのサイトを見ていて、もう分かっている。

もう8月が終わろうとしているのに、面接にさえ漕ぎ着けない。

少しずつ、少しずつ、すり減っていく。

ハローワークの職員の言葉に、企業の採用担当の言葉に、そして全てが順調に進んでるように見える穂高の言葉に。


「焦らなくていい」

それはオレを想って言っているというのは分かるんだ。

でも、オレは穂高のヒモになる為に、こっちに戻って来たんじゃない。

並び立ちたい。

その想いがオレをすり減らす。


「そういえばさ、秋祭りの練習っていつ始まるの? 三國さんやみんなに早く会いたいし、お礼言いたいんだよね」

穂高の態度が明らかにおかしかった。

「今年はちょっと遅くなるかも。日程決まったら教えるよ」

嫌な予感がした。


「あちらの担当の桑田さんにも言われたかもしれませんが、正社員を目指すなら年齢と同じくらい履歴書送ってようやくというのが普通です。諦めないで頑張りましょう」

また3社に履歴書を送った。

書類審査に2週間。

その間にまた次の会社を探さないと。

どんどんまた志望動機が曖昧になっていく。

「何処でもいいから、受かりたいだけですよね?」

やっと漕ぎ着けた面接で、動機が曖昧だと突かれて嘲笑された。


「正社員に拘らなくてもいいんじゃない?」

分かってる。

焦るオレの為に言ってるのは。

でもどうしようもなく苛立った。


 ある日、面接に行った帰り道、掲示板に『神楽衆募集』のポスターを見かけて立ち止まる。

「えっ? ウチの神社じゃん」

そこには連絡先として、『氏子総代、川島哲男』と名前があった。

相澤さんでも、穂高でもない、知らない名前。

何故神楽衆を募集なんて……

オレは、そこにあった連絡先に何食わぬ顔で連絡した。

「はい、川島」

随分と横柄な電話の出方をする人だった。

「あの、神楽衆募集のポスターを見たんですが……」

そう言うと突然態度が変わった。

「ああ、神楽興味ありますか? 今までの神楽衆がみんな辞めてしまいまして、手をこまねいてるんですよ」

全員、辞めた?

「え、何で全員辞めたんですか?」

相手は口ごもった。

「まぁ、色々ありまして……」

この人はこれ以上内情を話さないだろう。

「ごめんなさい。ちょっと考えます」

そう言って電話を切った。

こんな大事なことを、何故穂高はオレに言わない?

何で何も起こってない振りをしてる?

益々、嫌な予感がした。


「知っちゃったか」

マチルダさんが小さい声で言った。

マチルダさんは嘘がつけない。

穂高から聞いていた。

穂高に尋ねても、本当のことを話してくれるか分からない。

オレは、本当のことが知りたかった。

「ほだとコータの事がね、噂になったらしくて、分家のバカ親父が問題視して、川島本家は神社総代会からも、神楽からも外れろって話になったんだって。怒った相澤さんが神楽衆率いて手を引いちゃって……。今、総代会めちゃめちゃらしい」

もうその後は、マチルダさんのフォローは耳に入らなかった。

無理をさせない、そう誓ったのに、オレは穂高の大切にしてきたものを奪って、無理に笑顔を作らせてた。

それなのに、全てが順調に行ってそうに見えて、自分勝手にあいつに嫉妬さえしてた。

オレは、いったい何なんだ。


張りつめた糸が切れるっていうのは、こういう事を言うんだろうな。


 あの日、縁側で楽しそうにしてた穂高とイズとナイトを思い出す。

穂高の本当の幸せって何だろう。

オレと一緒にいて、本当にヤツは幸せになれるんだろうか?

一度は、オレと離れてでも、ジッチャンのように家を継ぎ、総代を継ぐことを選んだ。

それほど大切なアイツの夢が、今、揺らいでいる。

オレの本当の幸せって何だろう。

それはすぐ分かる。

穂高が、穂高らしくそこにいて、笑ってることだ。

誰よりも大切なアイツの為なら、この身をどれだけ灼いても構わない。

朱い星になって輝く、あの蠍のように。


「次の休み、前に言ってた岩手行かない?」

オレが聞くと、穂高が嬉しそうに頷いた。

「何で行くの?」

そう聞くから、

「それはやっぱり鉄道でしょ」

と、答える。

「最近電車乗ってないから、電車の旅なんて、ワクワクする!」

喜ぶ穂高の笑顔を見て、オレは精一杯微笑んだ。


ねぇ、オレのこの決断を、母さんは許してくれるだろうか?


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