大暑〈たいしょ〉

 オレの悪い癖なのかもしれない。

幸せであればあるほど、失った時の事を考えて怖くなる。

最初は、ちょっと怖い、くらいだった。

でも今は、1人になると急激に不安になる。

この夢みたいな時間は、本当に夢なんじゃないか。

またあの時みたいに、突然手を振りほどかれるんじゃないか。


 一緒に暮らし始めて、間もなく2週間。

順調過ぎるくらい順調だ。

ずっと一緒にいた高校の頃だって、喧嘩という喧嘩をしたことが無かったんだ。

確かに暮らすのは初めてだけど、お互いに相手の嗜好や癖、考え方やリズムは良く知っている。

穂高は、相変わらず穂高だった。


男女なら、結婚という1つのゴールがあり、愛があろうが無かろうが、紙1枚で夫婦として正式に認められる。

子供が出来れば、その子がかすがいになり、その関係性は変化しながらも、絆はより強固なものになっていくだろう。

でも、オレたちはどうだ?

オレたちを繋ぐものは、お互いの気持ちだけだ。

穂高を信じてる。

片道1時間半かけても、ここに帰ってきてくれる。

幸せそうに笑ってくれる。

こんなオレを求めてくれる。

自分でも信じられないくらいに、ヤツなしじゃいられなくなっている。

失いたくない気持ちが強くなるほどに、不安もまた強くなっていく。


「母さん? 元気?」

オレが問いかけると、母さんは笑った。

「何か良いことあったわね」

「凄いな。オレ、まだ『母さん?』と『元気?』しか言ってないよ」

「何年あなたの母親やってると思うのよ」

そうだね。

小さい頃、『母さん』と呼ぶだけで、欲しかったものが差し出された。

「じゃ、何の要件か当ててみて」

母さんが電話の向こうでクスクスと笑う。

「もう用意してあるわよ」


 コインランドリーから戻ったところで、穂高から、

『駐車場着いたよ』

とメッセージが届いた。

『ちょっと待ってて』

慌てて返信して、また部屋を出る。

もう駐車場でオレを待つヤツが見えている。

まだちゃんと履けてない靴を履きながら、オレは手を振る。

ヤツが嬉しそうに手を振り返す。

この瞬間が一番ホッとする。

また戻って来てくれた。

大丈夫。

オレは駐車場へと走り出す。


「おかえり!」

声をかけると、運転席のドアの前でヤツが微笑む。

「ただいま、どこ行くの?」

帰ってきたらちょっと出かけよう、と連絡しておいた。

「まだ内緒」

「車で行くの?」

「お願い出来る?」

「いいけど、ナビは頼むよ。この辺、詳しくないから」

ヤツが運転席のドアを開けた。

その時、気が付いた。

「運転してる穂高見んの初めてじゃん。ちょっと興奮する!」

これでもかというくらい、眉間にシワを寄せて、困惑気味に笑う。

「え? それどういう感情?」

「カッコいい穂高が見られるじゃん」

オレは助手席側に回り込むと、ドアを開けて車に乗り込む。

穂高もまた車に乗り込み、ドアを閉める。

「最近、可愛いとこばっかり見てたからさ」

耳元に囁くと、また赤くなって照れる。

「だから、可愛い言うなって」

視線を逸らして、ハンドルを握る横顔がやっぱり赤い。

ほら、そこが可愛い。

その言葉を飲み込んで、視線を落とした先、シフトレバーに驚く。

「えっ? っていうか、マニュアル?」

「実家の軽トラ、マニュアルだしな」

「なにそれ、すでにカッコいいじゃん」

羨望の眼差しで見るオレの視線を感じながらも、何でもないような顔をして前を向いてる。

「もったいないな。この助手席に座ったら、大抵の女子はメロメロになりそうなのに……」

「ちょっと黙っとけよ」

ヤツが覆いかぶさるように近づいて、リクライニングレバーを引いた。

シートが倒れたところで、唇を塞がれる。

「お前にモテれば充分なんだよ」

決めゼリフを言った割には、照れて逃げようとするから、右手で捕まえる。

「すでにメロメロだよ」

眼を合わせられずに右往左往する瞳をも、視線で捕まえる。

諦めたヤツが呟く。

 「コータさんには敵わねぇな」

一度外を気にした後、もう一度視線が戻ってきて唇が重なる。

「出かけらんなくなるって」

「危ない、危ない」

オレはヤツが離れると同時にリクライニングレバーを引き、シートを戻した。


 そのドアの前まで来た時、表札を見上げた穂高が驚いてオレを見た。

「嘘だろ? 俺、仕事帰りのこんな格好なんだけど!」

Tシャツに緩めのボトムは、ヤツの夏の定番ともいえる。

「いいじゃん。スーツとか着て来るようなもんじゃないよ、元々知ってるんだし」

「そうだけど!」

慌てるヤツを尻目に呼び鈴を鳴らす。

「ちょっ、もう!」

ヤツは諦めると、緊張した面持ちで直立した。

「そんな緊張する?」

「するって!」

ちょっとキレ気味に言うから、笑いを堪え切れなくなる。

「いらっしゃい!」

母さんが、昔のテンションで勢い良く出てきた。

母さんの態度が、前回とあまりに違いすぎて、オレは苦笑いする。

「大変ご無沙汰しております」

ガチガチの穂高が、深々と頭を下げた。

「また会えて嬉しいわ、穂高くん。あら、背高くなったんじゃない?」

いつか聞いたようなセリフだな。

「あの後、ちょっと伸びました」

2人が微笑み合うのを見て、また高校の頃に引き戻されるような感覚にとらわれる。

昔のように笑う母さん、緊張してる穂高。

それを笑って見ているオレ。

ここで父さんが来たら、タイムリープしてるみたいだな、と思ったら、もうそこに父さんが来ていた。

それも、早くも涙ぐんでいる。

「母さん、早く中に入ってもらいなさいよ」

全員がきっと、あの時と同じだと思って笑っている。

どれだけ戻れたらと願ったかしれない、あの頃のオレらに戻ったみたいだ。

父さんが、穂高に右手を差し出す。

本当に嬉しそうに穂高がその右手を握る。

「待ってたよ」

穂高の肩を叩きながら、父さんが何度も頷く。

「さぁ、入って入って」

父さん、穂高、そして母さんが部屋へと入って行くのを後ろから眺めながら、オレは右頰を伝う涙を拭った。


 ダイニングに通され、オレと穂高が腰掛けたところへ、母さんが後ろ手に隠して何かを持ってきた。

「あなたが頼みたかったのはこれでしょ? 」

テーブルに出されたのは、穂高のものと色違いに編んである組紐だった。

それも、今回は初めからブレスレット仕様になっている。

「何でわかったの?」

自信満々に『用意してある』って言われたけど、まさかここまで完璧に用意されてるとは思わなかった。

「本当のこと全て知ったあなたが、穂高くんを断ち切れる訳がないと思ったから。穂高くんが今も探していてくれたのなら、いずれこういう日が来る。そしたら、きっとあなたは同じものが欲しいだろうと思ったの」

母さんが微笑むと、穂高が小さく呟いた。

「凄い……」

穂高が組紐に手を伸ばし、母さんにその眼で問うと、母さんもまた眼で答えた。

それを見て、オレは右手を差し出す。

「右?」

ヤツが聞くから、

「その左手と繋ぐのは?」

と聞くと、また嬉しそうに笑う。

ゆっくりと右手首に巻いた組紐の輪の部分に、飾り結びされたもう片方の先を入れ込むと、ちょうど良い長さに止まった。

「どう?」

オレが手首をひねりながら聞くと、穂高も母さんも頷いた。

「いいじゃない。じゃ、こっちは穂高くんに」

母さんが隠していたもう一つの組紐を差し出した。

ヤツが驚いてオレの顔を見る。

穂高が今つけている組紐は、大分年季が入って元の色が分からなくなっていた。

しかし、今母さんが出した組紐は、赤みを帯びた紫の、元の色のものだった。

「思い出しながら編んだけど、だいたい合ってたわね」

今度はヤツが強請るように左手を差し出す。

同じように手首に巻き、止める。

そうか、穂高のは端にいくにつれて青紫のオレの色に近づき、オレのはその逆になっている。

まさに対になっているんだ。

元は自分の物だったのに、グラデーションになっていたことも忘れていた。

2つの組紐が巻かれた左手をあげて、穂高があの日のように微笑んだ。

「ありがと、母さん」

オレはそれを見つめながら言う。

「私もこんな日を待ってたのよ。あなたも、穂高くんも、昔のように本当に笑える日を」

母さんの言葉に、少し離れたところから見ていた父さんが言う。

「母さんは穂高くん、大好きだからな」

母さんが優しく笑ってオレたちを見つめた。

「息子が増えたみたいで嬉しいのよ」


 みんなで揃って夕飯を食べた後、穂高は母さんにオレの好きな味付けを聞いて、スマホにメモまで取っていた。

母さんが意気揚々と説明するさまを、オレと父さんはビールを飲みながら見ていた。

「また母さんとお前がこうして笑うとこが見られて良かったよ」

父さんがそう言うと、喉を鳴らしてビールを飲み干した。

「そうだね」

そう答えながら、缶から父さんのタンブラーにビールをついで、残った分を自分のタンブラーに継ぎ足す。

「父さんがずっとフォローしてくれたから、オレはここに居られるよ。じゃなきゃ、もっと落ちてたと思う」

台所から戻ってきた穂高が、

「ごめん、もうちょっとだけいい?」

と聞くから、2回頷く。

謝りながら穂高が戻ると、台所でまた母さんの隠し味講座が始まった。

「幸せそうな顔してる」

微笑んだオレの横顔に、父さんが呟く。

「そう? 」

聞き返したオレに、父さんもまた幸せそうに頷いた。


「ありがとな」

駐車場までの間、繋がれた右手と左手の組紐が揺れる。

「オレは何もしてないよ。父さんとビール飲んでただけ」

ヤツが微笑んだ。

「最初はもっと早く言えよ! って思ったけど、言われてたらもっと無駄に緊張したわ、きっと」

お互いの笑顔に、更に笑顔になる。

「緊張でガチガチの穂高も可愛かったよ」

「可愛い言うな」

「でも、運転はカッコよかった」

「そ? それは嬉しい」

チラリとこっちを見て言うから、抱きしめたくなるのをグッと堪える。

「オレもマチルダさん? とか、ナイトと話したいな」

オレはその先を言うのを少し躊躇したけど、意を決して続けた。

「紙の上での話は置いといて、お前と、お前の大切な人たちと家族になりたい」

立ち止まった穂高が、はにかみながらオレを見つめて、

「うん」

と答えた。

何の戸惑いもなく、その言葉を受け入れたヤツに、内心ホッとする。

「コータに会わせたい人もいるし」

「会わせたい人? 他にも誰かいるの?」

「まだ内緒」

「えー、気になるじゃん」

見上げた空には、いつもより多くの星が輝いてるように見えた。

郊外の住宅地だけに、灯りが少なくて、空が近く感じる。

オレが空を見上げたのを見て、ヤツもまた空を見上げた。

「さっきの、プロポーズだから」

オレは、空を見上げたまま言った。

「知ってる」

ヤツが答えた。

見つめ合い、お互いにはにかんで、俯いて。

ほろ酔いの身体を、心地よい風が吹き抜けた時、2人の唇が重なった。

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