鷹乃学習 〈たかすなわちがくしゅうす〉
ドアをノックすると、まるですぐそこで待ってたみたいにドアが開いた。
俺は少し照れくさくて、下を向いたまま
「ただいま」
と、小さく言った。
「おかえり」
コータが凄く嬉しそうに笑うのを見て、堪らず荷物を置いて抱きついた。
「どうした? 何かあった?」
コータが聞くから、俺は首を振る。
「ただ、会いたかった」
「me too」
コータが耳元で囁く。
「からかうなよ。あれで精一杯なんだよ」
「知ってるよ。だから、可愛い」
囁くたびに耳にかかる吐息が、また身体を痺れさせる。
「可愛い言うな」
その小憎たらしさも含めて愛おしい。
唇を見つめて、少しずつ近づいていく。
逃げられないように、腕を首に回す。
微かに触れた唇を左右に動かして、その感触を確認する。
「今日は何か熱いじゃん」
「そう?」
「むっちゃ煽られる」
下唇を噛み締めて少し湿らせると、もう一度唇を重ねる。
鼻の頭と唇が擦れて、脈打つように熱い血が滾るのが分かる。
「通勤大変なんだから、控えめにって思ってたのに……」
無理だよ。
俺は首を振った。
「もう、止めらんない」
掠れた声で呟くと、コータの両腕がグッと俺を引き寄せた。
「夕飯作ろうと思って、職場で野菜と米調達してきたのに、自分でぶち壊してしまいました」
玄関に置かれたままのビニール袋を、コータの肩越しに見て、俺は小さく笑った。
「いいよ、仕事終わって1時間以上運転して来てんだから、そこまでしなくて……」
コータが俺の頬を親指で撫でる。
「明日は絶対作る。明後日、実家に行かなくても良くなったから、少しゆっくり出来るし」
「ホントに? 親父さんに何か言われたりしない?」
「大丈夫。中干し始めるつもりで、水調整と電気柵ヘタってるとこ直す予定だったけど、やってくれるって」
「マジで? 明後日ってフェニックスのホームゲームある日じゃん。確か、Tシャツ配布もあったはず」
コータが眼で問いかけてくる。
「行く?」
あの日、叶うことがない約束だと思った。
その約束が、果たされる日が来るなんて。
俺は、涙がこみ上げそうになるのを誤魔化して笑った。
「行く」
コータの温もりがまた俺を包む。
「こうしてさ、昔夢見てたこと、少しずつ実現してこ」
首筋に口づけて俺は答える。
「うん」
なんて幸せな時間なんだろう。
コータの腰に手を回して微睡む。
「穂高……」
「ん?」
「俺、ちゃんと言ってなかったかも」
「何を?」
俺は顔を上げて、コータの顔を見上げた。
真剣な眼差しが俺を捉える。
「愛してる」
俺は瞬きも忘れて、コータを見つめた。
この言葉が、こんなに刺さるなんて思わなかった。
勝手に眼が潤んでくる。
なんて答えるのが正解か、分からない。
胸がいっぱいだ。
泣きそうな俺を見て、
「そこは、あれなんじゃないの?」
と、コータが微笑んで呟いた。
「me too」
聞こえるかどうかの声で答えると、全てを包むようにして抱きしめ、口づけられる。
「言葉じゃ足りない。けど、きちんと口にしないときっと後悔する。もう、『好き』じゃ足りないんだ」
アラームの音がして、眼を開けるとそこにコータがいた。
幸せな朝。
それにしても、毎回俺のセットしたアラームでは起きないの凄い。
こうして先に起きて、寝顔を見つめる時間が好きだ。
ちょっと悪戯しちゃいたくなる気持ちを抑えて、額に口づけてベッドを離れる。
台所で炊飯器の蓋を開けると、いい感じにご飯が炊あがっていた。
コータは、俺が一緒に住むことになって、短期だけど時間帯が固定で残業なしの仕事を紹介してもらったらしい。
今まで夜遅い仕事を結構メインでしてたのに、9時5時の仕事に変わって、コータだって表に出さないけどシンドいはず。
調理器具や調味料が最低限しかないから、今日はおにぎりだけだけど、必要な物を揃えて今夜は料理作らなきゃ。
職場から調達出来そうなもの、帰り道で買わないといけないものを考えながら、コータの好きな食べ物を思い出す。
こんな時間も楽しい。
何でもない日常の全てが輝き出すなんて、歌でよくある歌詞だけど、今まさにそんな感じなのかもしれない。
大切な人と一緒に時を刻む喜びを、今また感じている。
「コータ! 俺もう出るからな。ちゃんと起きろよ」
テーブルに、朝でも昼でもいいように、おにぎりを置いて、まだ寝ているコータに声をかける。
「ん? もう行くの?」
薄目を開けてコータが布団から顔を出す。
「運転気をつけろよ」
「相変わらず心配性だな。おにぎり作っといたから食べて」
「むっちゃ嬉しい」
やっと眼を開けたコータが、両手を広げた。
もう靴履く寸前だったけど、その誘惑に耐えきれずベッドまで戻る。
ハグしたと同時に、コータが首筋のTシャツの際に口づけた。
「行ってくる」
「行ってらっしゃい」
少しずつ解かれていく身体。
最後、人差し指の先が離れるまで見つめ合う。
まるで新婚夫婦みたいだ。
玄関に向かう間もニヤケが止まらない。
俺はそんな口元を隠して、靴を履きドアを開けた。
いつものように職場に着き、いつものように仕事に入ったのに、何か強烈な違和感を感じる。
職場の同僚たちの様子が、何故かいつもより騒がしい。
パートの女性の方々が、あっちでコソコソ、こっちでヒソヒソ。
俺、何かしたっけ?
考えても身に覚えがなくて、居心地の悪さに仕事に身が入らない。
たまりかねて、バックヤードに入ったところで、パートのドンとも言える伊東さんが駆け寄って来た。
「川島くんって、結婚してどのくらいだっけ? 」
普段は仕事の話しかしないのに、急にプライベートに突っ込んできたので、ちょっと身構える。
「もうすぐ1年ですけど……」
答えるとすぐさま、含みのある笑顔で言う。
「まだまだ熱々だこと」
鎖骨辺りを指さされて、首を傾げる。
あっ、もしかして……
でも、自分では良く見えない。
「そろそろおめでたのお知らせとかあるかしら?」
また下品に笑うその様を見て、さすがの俺もちょっとカチンときて、
「もう、伊東さん、それセクハラでマタハラですからね。男だからっていいと思ってるでしょ?」
角が立たない程度に、冗談めかして言った。
「普段結婚指輪もしない、奥さんいるのに所帯じみてもない川島くんがキスマークって、朝から大盛りあがりよ」
物凄く楽しそうに笑う。
この人たちにとっては、芸能人の不倫も、同僚のプライベートも、楽しい娯楽の1つなんだろうな。
分かってはいたけど、自分が対象になると気持ち良いもんじゃない。
俺たちはいいよ。
子供なんて出来るわけないんだから。
でも、もし望んでても出来ない時、こんな風に同僚に噂されてると知ったら、男だって女だって相当シンドいに違いない。
俺は苦笑いして会釈すると、その場を離れた。
大急ぎでトイレの鏡で確認する。
どんだけはっきりついてるのかと思ったら、まさにTシャツの衿ギリギリが薄っすら赤くなってる程度で、この季節なら虫刺されや汗疹で誤魔化せるようなものだった。
なまじ心当たりがあったばっかりに、否定出来なかった。
さっきの会話で、キスマーク確定ってことにされてんだろうな。
隠すのも馬鹿らしい。
「災難でしたね。あの人たち、ほんと小さな事でも大騒ぎしますから」
後輩の安斉が絆創膏を差し出す。
俺はそれをジェスチャーで断る。
「それした方が余計目立つわ。いいよ、もう」
ちょっとTシャツを直して隠すと、俺は持ち場に戻ろうとした。
「勝手ですよね。川島さん結婚するまでは、あまりに女っ気無くて、ゲイじゃないかって噂してたのに」
今日はどうもカチンと来る。
「もし、俺がホントにゲイだったとしたら、その発言がもうハラスメントだからな。なくそうハラスメント! 守ろうコンプライアンス!」
事務所に貼り出してある標語を引用して冗談にしたけど、そもそもコンプライアンスは法令遵守なんだから、頭痛が痛いみたいなことになってんじゃん。
みんな、気をつけよう! と上から言われて気をつけてる振りしてるだけで、本音は何も変わらない。
俺らが学生の頃に比べれば、大分考え方が変わったと思ってたけど、それは見せかけだけなのかもしれない。
特に田舎は、このザマだ。
苛ついてる俺を察して、安斉はそれ以上何も言わなかった。
俺も持ち場に戻り、なるべくいつも通りを心がけた。
このままずっと遠距離通勤を続けられないとして、ちょっと考えてたコータをこっちに連れて来る案は、かなりハードルが高い事を実感した。
じゃあ、どうする?
ここを辞める?
辞めるのは簡単だ。
辞めてあの街に行く?
あの街なら人も多くて、他の人に関心も薄い。
嫌な想いをすることも少ないだろう。
でも、ここを辞めてあの街に行って、俺は何をやるんだ?
田んぼは? 神社は?
この仕事だって、やり甲斐がある。
やりたいことは、みんなここにあるんだ。
マチルダさんが言ったように、今はただコータとの時間を楽しみたいのに、進む先に大きな山が幾つも見えていて、目隠ししてても時折息苦しいんだ。
本当はコータより先に帰って料理を作りたいけど、どんなに急いでも無理なので、途中で見つけた百円ショップに寄り道して、必要な物を揃えてからアパートへ帰る。
昨日コータから渡された合鍵。車のキーと一緒に付けてポケットに入ってるけど、まだそれで開けて入るのは気がひける。
今日は理性を保つぞ。
心を決めるとドアをノックする。
今日はドタドタと足音がして、慌ただしくドアが開く。
「ただ……」
言い終わる前に抱き寄せられる。
「今日は飯作る」
「分かってる。遅いから心配だっただけ。ちょっとだけ……」
暑かったから、先にシャワー浴びたんだな。
微かに濡れた髪が頰に触れる。
「また会えた」
本当に幸せそうに笑うから、愛しさが募る。
今日あった嫌な事全部、吹き飛んでく。
ちょっとだけ。
ほんのちょっとだけ。
そう思った瞬間、その気持ちが伝わったみたいに唇が重なった。
「明日のチケット、取ったよ。どこの席が良いのか、さっぱり分かんないから適当に取ったけどいい?」
「だって、俺もよく分かんないし。いいよ」
小さなまな板がやっと置けるくらいの台所で、人参を切りながら俺は答えた。
「ちょっと遠足前の小学生な気分」
コータがはにかんだ。
「はい、コータ先生! バナナはおやつに入りますか?」
俺がふざけて質問すると、
「飲食物は持ち込めません。スタジアム内の飲食店をご利用ください」
と大真面目に答えるから苦笑する。
「そういえばそうだった」
ナイトを連れて行った時、そんな注意書きを見た気がする。
「ね、何作ってんの?」
「今に分かるよ」
ちょっと不満そうに口を尖らす。
「そのエプロン職場の?」
「うん」
俺は鍋に油を注ぎながら答える。
「道の駅っていつ出来たの?」
「7、8年前かな? オープン前から携わってるから結構長いかも」
「仕事してる穂高、見てみたいな。俺が働いてるのは、見てるじゃん?」
「野菜並べたり、玄米を精米して量り売りしたり、観光バスで来る観光客にちょっとご挨拶するくらいだよ。別に凄いことはしてないよ」
「いいんだよ。俺が知らない穂高を見たいんだから」
その言葉に、具材を炒めながら俺は微笑む。
「今度、家族にも会わせたい」
俺の言葉に、今度はコータが少し照れて俯いた。
「じゃ、俺の家族にも会ってよ。母さん、きっと喜ぶよ」
俺は頷いた。
「本物の味はどうだったか、教えてもらわないとな」
含み笑いして、視線を投げかけると、コータはすぐに気が付いた。
「分かった! カレーだ!」
俺は右手でコータを指差した。
「お母さんとしばらく絶縁してたって言うから、おふくろの味が恋しいんじゃないかと思ってさ、あの日のカレーを再現しようと思ったんだよ。近づけるか分かんないけどな」
計量カップを取ろうとしたところで、駆け寄って来たコータに後ろから抱きつかれる。
「火使ってんだから危ないって。水入れたら煮込むから、ちょっと待って」
後ろから頬を擦り寄せ、耳元に口づけられる。
「くすぐったいって」
俺はそう言って笑いながらも、この幸せを噛み締めていた。
ここ数日、梅雨の晴れ間で暑かったけど、今日は今にも降り出しそうな空模様。
でも試合が終わるくらいの時間までは、雨の予報は出ていない。
このままもってくれればいいな。
少しドキドキしながら、スタジアムの正面でコータを待つ。
すでにスタジアムは開場していて、家族連れやカップル、選手のサインの入ったユニフォームを着た人たちで溢れている。
仕事は予定通りあがったと連絡が来たから、もう少しだとは思うけど、落ち着かない。
本当に、本当に、一緒に観戦する日が来たんだ。
俺は左手の組紐を触った。
こんな日が来るんだと、別れを決意していたあの日の自分に教えたい。
「穂高!」
呼ばれて顔を上げると、コータが横断歩道を渡って来ていた。
俺も手を上げて応える。
ちょっと息を弾ませたコータが、俺の目の前に立った。
「お疲れ!」
声をかけると、胸に手を当てたコータが
「少しドキドキする」
と、久しぶりにあのクシャとした笑顔を見せた。
「高校生みたいな顔なってんぞ」
「そりゃなるよ。嬉しいじゃん」
お互いの笑顔にテンションが上がる。
「行こうか」
俺は、笑顔のまま頷いた。
ちょっと進んだところで、コータが急に立ち止まったので、驚いて俺も立ち止まる。
「ごめん。ちょっとだけここで待ってて」
どうしたんだろう。
コータが大急ぎでチケットブースに走って行った。
チケットはもうお互いのスマホのアプリに入ってるし、チケットブースには用はないはず。
見ていると、どうやらその隣のインフォメーションに用があったみたいだ。
ほんの数分で、コータは戻ってきた。
「どうしたの?」
「うん、ちょっとね」
コータが軽く話を流した。
俺は気になりながらも、促されるまま歩き始めた。
俺たちは、入場者特典のTシャツを受取りそれを着ると、球場メシを選び始めた。
「選手プロデュースメニューとか、どれも美味そうで毎回悩む」
俺が迷ってる間に、コータは自分のお目当てを買って戻ってきた。
「仕事の時に見かけて、ずっと食べたかったんだよね。チーズステーキサンドイッチ」
「えー、ちょっと味見させて」
「いいよ。席ついたらね」
「ステーキ丼とカルビ丼とすき焼き弁当で迷う」
コータが吹き出す。
「全部、米」
「いいじゃん、米好きなんだから」
結局俺は、すき焼き弁当を選んで、レフトスタンドの席についた。
コータが、
「渋い、渋い」
と笑った。
「いいじゃん」
と拗ねながらも、内心そんなやり取りも楽しくて仕方なかった。
「ビール飲む?」
コータが聞く。
今日は車じゃないから、少しなら飲める。
「飲む、飲む」
「どこのにする? ビール会社によって、売り子の制服の色も違うんだ」
前2回は車だったから、良く見てもいなかった。
確かに、色が違う。
「別に、任せるよ」
コータが売り子を探していると、1人の売り子の女の子がコータを見つけるなり、手を振って走って階段を上がってきた。
「えー、三枝さんだぁ!」
「久しぶり」
赤い花を髪に挿した可愛い売り子さんだった。
「最近、球場の仕事入れてないの?」
「うん、短期だけど事務系の仕事に入ってる」
「そうなんだ。ちょっと寂しい」
彼女は、ふと隣の俺を見て、両手で手を振った。
「お友達もイケメンさん!」
「どうも」
どうリアクションしていいか困りながら、俺は軽く頭を下げた。
コータと彼女の視線が意味ありげに絡んだ。
「2杯お願い」
コータが言うと、彼女が元気よく
「ありがとうございます!」
と頭を下げた。
彼女が手を振りながら去った後、俺はちょっとムスッとして、ビールを半分まで一気に飲んだ。
「何拗ねてんの?」
「別に」
突然何かに気付いたように、何度も頷いて俺を見る。
「もしかして……」
その後声をひそめて耳元で、
「妬いてる?」
と囁く。
俺はなんでもないような顔を装って言う。
「コータさんは昔からモテましたし、別に……」
「寝たよ。仕事一緒だった時、何となく意気投合して」
俺は、危なくビールのカップを落としそうになるのをどうにか堪えて、動揺を隠そうとするけど、無駄にキョロキョロして、かえってバレバレになる。
「って、言ったらどうする?」
悪戯っぽく、コータが笑った。
一瞬ポカンとした俺は、ハッと気付いてコータの太腿を拳で叩いた。
「ごめん、ごめん」
笑いながら両手を合わせて謝った後、ふと真顔になったコータがマウンドを見つめながら言った。
「まぁ、彼女には告られた。断ったけど」
俺は驚いてコータの横顔を見つめた。
「あんな可愛くて人当たり良い子なのに?」
「俺にはもう、誰かと付き合う資格なんてないと思ってたからね」
「何だよ、資格って。じゃ、俺は資格に引っかからないのかよ?」
「お前は……」
コータが俺の顔をまじまじと見つめる。
「別格だよ」
コイツの言葉はいちいち刺さる。
「まぁ、俺も男なんで、離婚後もそれなり色々はありました。そこは勘弁な」
そう言われて気付く。
俺、本当に嫉妬してたんだって。
「おっ、始まるぞ」
ライト側の、ビジターの応援団の声が響き始めた。
ビールを飲んで、チーズステーキサンドイッチにかぶり付くコータを見つめて、コイツは普通に女としたことがあって、その気になれば付き合うことだって可能なんだよな、と改めて思った。
心臓をグッと握られたように胸が軋む。
そんな俺に気がついたのか、ビールを置いたコータの右手が俺の左手を握った。
「ごめん、気になっちゃった? でも、もう1回言うけど、お前は別格だから。安心して」
真っすぐなコータの眼に、俺は微笑んで頷いた。
コータもまた微笑む。
「食う?」
チーズステーキサンドイッチを目の前に差し出すから、そのまま齧りつく。
「んー、肉々しい」
「何だよ、その感想」
俺たちは笑い合う。
球場メシ食って、ビール飲んで、応援コールして。
夢の中に居るみたいだ。
4回裏、ずっとスコアレスだった試合が動く。
相手ピッチャーの制球が定まらなくなってきたところで、フェニックスが連続安打で出塁、3人目がフォアボールで歩いてワンアウト満塁となった。
俄然盛り上がるスタジアム。
俺たちも固唾を飲んで見守る。
次は最近打ってるらしい助っ人外国人だ。
斜め前の、1人で来ているらしい中学生くらいの男子が、得点の瞬間を撮ろうとタブレットを掲げている。
次の瞬間、空高くボールが舞い上がった。
ホームランかと思って、みんなが立ち上がる。
しかし、ボールはフェンスギリギリで相手選手のグローブに落ちた。
3塁ランナーが走り出す。
勿論、ホームへ送球されるがそれより早くフェニックスの選手がベースを踏んだ。
「よっしゃ!」
俺たちはハイタッチして喜ぶ。
子供みたいにはしゃぐ俺を、コータが優しく見つめてる。
次の回にもフェニックスは得点して、少し安泰ムードが漂い出した頃、ふと俺は聞いた。
「コータはスタジアムの仕事何種類くらいやってたの?」
「どうだろ。Tシャツ配布、売店の売り子、飲食店の厨房、ファールボールの注意喚起、ソフトドリンクの売り子、この中にあるゲームコーナーとか観覧車の係、ファンクラブ特典の引換係とか?」
流石にそこまでと思わなかったので、口が大きく開いたままになった。
「凄っ、ほとんど全部なんじゃないの?」
「いや、これが上には上がいるんだよ」
ビールを飲み干しながら、コータが言う。
「何にしろ、今日はまだいいけど、炎天下だったり雨だったりしたら大変だな」
コータが頷く。
「スタジアムだけじゃない。派遣の仕事って誰でも出来るんだからって馬鹿にされがちだけど、そんな仕事だって誰かがやらないと世の中うまく回らない。どんな仕事だって、必要だから求められてそこにある。だから、馬鹿になんて出来ない。俺はいろんな仕事出来て良かったと思ってるよ。前より人に優しく出来てる気がしてる」
そうやって、人一倍痛みを知って、コータは強く優しくなってきたんだな。
そんなコータを誇らしく思いながら、俺はビールを飲み干した。
ちょっと気が緩むと、足元掬われるのは人生も試合も同じで、6回簡単に2点を失って、同点に追いつかれる。向かいのライト側応援団が沸き上がる。
「もう! タイミング!」
コータが苛立った。
違和感を感じながらも、俺はてっきり同点になった事がイライラしたのだと思っていた。
ところが、チェンジになったタイミングで、アナウンスが流れ始めた。
「スタジアムの皆さん! ビジョンをご覧ください。本日、誕生日、記念日の皆さんです。おめでとうございます! 本日は、このスタジアムで素敵な記念日をお過ごしください!」
コータが、ビジョンを指差した。
たくさんの名前の中に、俺とコータの名前があった。
驚いてコータを見る。
「約束果たせたのと、初デート記念日」
俺はニヤける口元を隠しながら、左肘で2回コータを突付いた。
「なにしてんすか、コータさん。なんかこなれてんじゃないすか」
そう言いつつも、内心は嬉しくて仕方ない。
「追いつかれたタイミングで、最悪だけどな」
珍しくコータも少し照れて右手で顔を隠した。
さっきの苛立ちの意味が分かって、抱きしめたい衝動を抑え込む。
「コータ」
コータが右眼だけで俺を見た。
「ありがとな」
その右眼がウインクする。
ほんと、コイツには敵わねぇ。
試合は同点のまま終盤戦に突入。
雲行きは更に怪しくなってきて、スタンドに吹く風も少し冷たくなってきた。
これで雨に降られたら、風邪ひきかねない。
「食後にかき氷とか食べようと思ってたのに、寒くなってきた」
俺が残念そうに言うと、コータが吹き出しそうになった。
「お前、かき氷めっちゃ食べるもんな。夏祭りで最高何杯食べたっけ?」
「8杯」
「あれは心配性のコータさん、見てるだけでお腹くだりそうでした」
そんな昔話の最中、後ろから
「入れ! 入れ!」
と声がして、ふと見上げると頭上をボールが、飛び越えて行った。
「ホームラン!」
みんな弾かれるように立ち上がり、スタジアムが総立ちになった。
ハイタッチしたり、抱き合ったり、みんなが喜びを爆発させる。
「よっしゃあ!」
叫んだ俺を、コータがここぞとばかりに抱きしめた。
そこで試合は決まった。
勝利を祝う花火が夜空を染めて、俺たちは無言でそれを見上げた。
イスに隠れるように繋がれた指が、微かにお互いの温もりを伝えている。
「身体冷えてない?」
「ちょっとね。コータさんはあったかいよ」
「降り出す前に帰ろうか?」
「うん」
スタジアムを出て振り向くと、スタジアム正面に今夜のスコアが表示されていた。
みんながその前で自撮りしたり、スコアを写したりしている。
それを見たコータが、
「記念に写真撮ろうよ」
と言った。
「うん」
コータが手を伸ばし、自撮りしようとするも上手くいかない。
それを見ていた家族連れが、
「撮りましょうか?」
と声をかけてくれた。
「お願いします」
コータが父親らしき人にスマホを渡すと、俺たちは肩を組んだ。
「はい、撮りますよ!」
写真を撮られながら、最後にコータと写真を撮ったのはいつだろうと考えた。
多分、高校の入学式あたりが最後だ。
あの時が15だとして、倍の歳になった。
「確認してください」
返されたスマホの中の俺たちは、幸せそうに笑っていた。
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