半夏生 〈はんげしょうず〉

 本当は、夜には帰るつもりだった。

でも、離れられなかった。

次の日は、コータの仕事が夕方からだったから、その時には帰ろうと思ってた。

でも、今度はコータが俺を引き留めた。

実家の作業の為に空けていたスケジュールは3日。

結局、そのリミットギリギリまで、俺はコータのアパートにいた。


 その間にたくさんの話をした。

お互いに再会するまでの出来事。

キリがなかった。

いくらでも話したいことがあった。


「あの子とはどうなったの?」

コータが聞いた。

すぐにあゆの事だと分かった。

「お前が居なくなって、ちょっとしたら別れたよ」

コータの口がへの字に曲がった。

「あの子が羨ましかったな。堂々とお前のカノジョとして存在出来るカノジョが」

「でもたくさん傷付けたよ」

何が心が繋がってから、だよ。

俺は大嘘つきだ。

「もしかしたら、知ってるかもしんねぇけど、俺さ、色々あって女に反応しねぇんだわ。彼女、最初は『私が治してみせます!』って、張り切ってたけど、頑張れば、頑張るほどダメになって……結局終わった」

コータが俺の肩を抱いた。

「オレが知ったのは、お前がカノジョと付き合い出した頃だよ。だからそんな噂は、本当にただの噂なんだと思ってた」

一瞬置いて、コータが首を傾げた。

「ん? あれ? もしかして、お前ってど……」

俺は、コータの口を手のひらで塞いだ。

「それ以上言うなよ。地雷だからな。そこそこ俺も傷ついてんだから」

必死になる俺を優しい笑顔のコータが抱きしめる。

「どんだけ背負ってたんだよ。1回全部降ろせよ」

「今、降ろしてるよ」

「ホントに?」

いつかの時みたいに顔をぐーっと覗き込むから、俺は逆方向に顔を向ける。

「まだ何かあんだろ? 吐けよ、吐いたら楽になるぞ!」

コータがふざけだす。

「あ」

1つ、まだ秘密があった。

「何だよ、やっぱ何かあったろ?」

俺はコータに向き直った。

「お前さ、ファーストキスは牧村?」

露骨に顔に出る。

「元嫁の話は無しだよ」

「その前に付き合った子とかいたの?」

「いないけど……」

「ごめん……」

俺は両手を合わせて、頭を下げた。

「ファーストキス泥棒しました」

「へっ?」

コータは身に覚えが無さそうに、怪訝な顔をする。

「お前んちに泊まった夜……お前が、俺抱きしめて寝てたから……」

「あ!」

コータが思い出したように声をあげる。

「気付かれてないと思ってたのに、抱きしめて寝てたの知ってたの?」

俺は笑い出しそうになるのを堪えて頷いた。

「マジかぁ」

一瞬落胆して、

「ていうか、もうそんなの気付かれてても全然平気なんですけど!」

と無駄に強気に出た後、

「もう毎晩抱きしめて寝てんじゃん」

と、耳元で囁く。

昔と同じ。

表情がコロコロ変わる。

それが愉しい。

「恥ずい、恥ずい」

俺が、腕の中から逃げようとすると、また抱きしめられる。

「え? じゃ、あの時、寝てるオレにキスしたの?」

責めるように見るから、思わず頭を下げる。

「はい、なんかすみません」

「意識ないのはノーカウントでしょ」

「いいですよ、ノーカウントでも。でも俺は意識ありましたから。ノーカウントにすると、初めては牧村さんになりますけどもよろしいでしょうか?」

コータが不貞腐れる。

「カウントしてもいいけど……覚えてないファーストキスとか、寂しいんだけど……。ちょっと、お前の記憶ちょうだい」

コータにされるまま、お互いのおでこをつける。

「お前覚えてないだろ? あの時、『行かないで、母ちゃん』って、オレ引き止めたの」

「そんな夢見たのは覚えてる」

「背負ってる荷物、オレに分けろよって思ったっけ。自分でも気が付かなかったけど、もうあん時には、お前が愛しくて堪らなかったんだな」

いつものコータ節に、俺ははにかんで俯いた。

「相変わらず、恥ずかしいことサラッと言いますね、コータさんは」

「恥ずかしくないよ。ホントのことだから」

コータらしい返し。

俺はその真っ直ぐな眼を見つめて笑う。

何度諦めかけただろう。

何度忘れようとしただろう。

でも、諦められなかった。

忘れられなかった。

俺のもう1つの、大切な夢。

「そんなお前が好きなんだけどな……」

どちらともなく、吸い寄せられるように唇が重なる。

この3日でどれだけキスしただろう。

数え切れない。

それでも、この長い月日を埋めるには足りなすぎるんだ。

「帰したくねぇな」

キスの合間に、ポツリとコータが言う。

息があがりながら、部屋の置き時計に視線をやる。

実家に寄ってから帰りたいから、せいぜい居れてあと2時間。

帰りたくない。

でも帰らなくちゃ。

もういい大人なんだから、溺れてちゃいけない。

頭では分かってても、心がついて来ない。

時間がない。

焦燥感に駆られて、無我夢中でしがみつく。

「まだ、時間ある?」

途切れ途切れにコータが聞く。

俺は2度頷く。

無造作に引き上げられたTシャツが、スローモーションのように宙を舞う。

Tシャツが床に落ちた瞬間、それが合図かのように、お互いがお互いの唇を求めた。

脳が痺れて、機能停止してる。

帰らなきゃいけないことすら、忘れてしまいそう。

唇と舌が絡み合う音だけが耳に、頭に響いて、更に鼓動が速くなる。

息が出来ない。

「あっ……」

小さく漏れた声を聞いたコータが、シフトチェンジした。男の眼に変わったその瞳に捉えられた時、湧き上がる欲望を抑えられなくなる。

唇を離し、俺の手がコータのジーンズのベルトにかかったと同時に、コータがTシャツを脱ぎ捨てた。

「もう容赦しねぇけど、いい?」

俺は無言で頷いた。


 喉の奥の方から、絞り出すように微かに漏れる声が、揺れるたびに勝手に途切れて、またお互いを熱くする。

溶けて1つになるなんて、大袈裟な表現だと思ってた。

でも違った。

身体だけでも、心だけでもない。

幾度となく流れた季節を越えて、俺たちはようやく1つになった。


 タイムリミットが迫っている。

帰り支度をする俺の横に座ったコータが、右手の指で、俺の左手の指を絡め握った。

「恋人繋ぎ。あの頃本気で悔しかったな。女には勝てない、そう思ってた」

「男とか、女とかじゃなくて、お前はずっと俺の1番だったよ」

コータがあのクシャクシャの笑顔をした。

「次に来る時は、絶対フェニックスの試合観に行こうな」

俺は頷く。

「穂高はずーっとあの町にいるだろ? 俺もあの町大好きだけどさ、だけど世界はもっとずっと広い。今まで一緒に居られなかった分、一緒にいろんな景色を見たいんだ」

俺はその言葉が嬉しくて、笑顔で頷いた。

「絶対、絶対また来る」

最後にもう一度、啄むようなキスをして、俺は立ち上がった。


 帰りの車の中で、自分が対外的には結婚している妻帯者である、という事実を忘れ去っていたことに気がついて、自分の『恋は盲目』加減に愕然とした。

ファーストキスの話なんて、してる場合じゃない。

結婚していることを隠して修羅場になる男なんて、どうかしてると思ってたけど、何か言い出せないままズルズルってのが、ちょっと分かる気がしてきたから不思議だ。

別に、言ったっていい話を、俺は何でイズにも、コータにも出来てないんだろう。


 俺は昔から、どこかズルいとこがある。

自分でも分かってる。

あゆの時も、彼女が音を上げるまで、決して自分からは別れなかった。結局、別れの言葉も彼女に言わせた。それは相当シンドいことだったろうに。

自分を守ってるのかもしれないけど、もう1人の自分はいつもそのズルさを俯瞰で見てムカついてる。

甘い夢の残り香と、寂しさと、苛々が俺の心をかき乱す。

夢から覚めるように、日々の日常がそこまで来ていた。


 実家に着き車を停めると、家から出てくる人影が見えた。

俺はてっきり、マチルダさんがブチ切れてやって来るのかと思ったけど、意外にも向かって来たのは親父だった。

「具合はどうだ? 3日も音信不通になるんだ、相当なんだろ?」

その言葉には棘があった。

バレてるな、すぐに分かった。

もう上手い言い訳なんて、考えるのも面倒だった。

「悪かったよ。もうしねぇ」

視線を外して言った俺を見て、親父が小さく笑った。

「頼んだ相手が悪かったな」

「だな。マチルダさん、嘘下手なの忘れてた」

俺たちは笑い合った。

親父のはにかんだ幸せそうな顔の意味が、今の俺には痛いほど分かる。

「嘘がつけない、いい女だ」

こんな顔すんの、母ちゃんがいた頃以来だ。

そのどこか誇らしげな横顔を見ながら、またこんな顔が見られて心底良かったと思う。 

ジッチャンもきっと喜んでる。

最初はどうなるかと思ったけど、マチルダさんとナイトは俺たち家族を繋いでくれた。

今は感謝しかない。

「息子に惚気のろけんなよ」

俺の言葉に、また小さく親父が笑った。

「ずっと真面目にやってきたお前に、ずっと父親らしいことしてなかった俺が言うのもなんだけど、ちょっと父親っぽく説教してもいいか? 」

そんなご丁寧にお伺い立ててから説教する父親がいるか?

俺は両手を広げて、

「どうぞ」

と不敵に微笑んだ。

「お前が来るからと思って、作業ちょっとサボってたから、3日ともお前来なくていつもの3倍ぐらい働いて、ちょっと腰痛めたぞ! 」

「自業自得じゃん」

説教になってない。

「『今日も来ないのか?』って聞かれる度に、マチルダの頬がヒクヒクしてた。マチルダに謝っとけよ」

その顔を想像して笑う。

「何がどうなってんのか知らねぇけど、誰かを泣かすようなことはするな。俺が一番分かってる。気づいてから取り戻そうったって、そうはいかねぇ」

俺は肩を震わして笑いを堪えた。

「何だよ」

「いや、親父が説教するようになるなんて、成長したもんだなぁと思って」

ふざけて言ったのに、親父の顔が急に真顔になるから、俺も笑顔が消える。

「苦労かけたな」

親父がポツリと言う。

普段そういう事言わない人だからこそ、より響く。

「おう」

ちょっと照れくさくて、親父の顔を見ずに答えた。


俺はちょっとだけ実家に上がり、マチルダさんに謝ると、早々に家に帰った。

親父が気が付くということは、イズも気が付くということだ。

イズが気にかかった。

それはマチルダさんも同じで、

「私はいいから、早くイズんとこ帰んな」

と半ば追い出された。


「ただいま!」

ドアを開けて、声をかけるが返事がない。

靴を脱いでリビングを見ると、テーブルに突っ伏してイズが寝ていた。

そっと近付く。

話してた戦国ブロマンスらしき描きかけの絵が、傍らに置いてある。

また寝落ちするまで、頑張って描いてたんだ。

「イズ、風邪ひいちゃうよ。ちゃんと部屋で寝な」

肩に手をかけて、声をかけるけど反応はない。

「しょうがないなぁ」

俺は車のキーをテーブルに置くと、イズの部屋のドアを開けた。

戻ってイズの肩に手を回し、膝を抱えて抱き上げた。

無意識なんだろうけど、俺の胸に顔を埋めるように擦り付けてくる。寝ているイズの身体が温かい。

えっ?

嘘だろ?

イズの体温に、香りに、その柔らかさに、身体が反応してる。

もしかしてコータとのことで、トラウマが払拭された?

だとすると俺は今……

ヤバイ。

このままイズをこの手に抱いてたら……

俺は身体が熱くなっていくのを感じながら、ベッドまでイズを運んだ。

早く離れないと……

じゃないと俺は……

布団を掛けて、大急ぎで部屋を出ると、ドアを閉め大きく息を吐く。

いろんなことの、間が悪すぎる。

俺は頭を抱えた。

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