夏至〈げし〉

「コータ!」

最後に聞いたヤツの声が、耳に残って離れない。


 あれから数週間、オレはまだ混乱の中にいる。

オレの人生を掻き乱すな、そう言って突き放したのに、あの腕の組紐を思い出す度、心が掻き乱される。

冷静で居られる訳がない。

何故、オレは突き放されたのか?

その謎の裏にあった真実が突き刺さる。

オレが見ていた世界は、記憶は、歪んで、本当は違っていたんだよ、と言っている。

〈本当〉は何なのか。

まだ、オレの頭はそこに追いつかない。


 オレの住むアパートからバスに揺られ、40分はかかっただろうか。

かつては新興住宅地として勢いがあったが、今は若者たちが巣立ち、高齢化が進む山間の住宅地。

いくつも並ぶ同じドアの1つの前で、オレは呼び鈴を鳴らした。

少しして、ドアがゆっくりと開く。

母さんが無表情にオレを見上げ、

「珍しいじゃない」

そう言った。

「久しぶり。母さんに聞きたいことがあるんだ」

母さんは答えもせず、ただドアを離した。

オレは閉じるドアを押さえて、家へと入っていった。

この家に入るのは、何年ぶりだろう。

瑞穂が産まれた頃に数度訪れたきりで、離婚してからは来ていない。

実家と呼ぶには、何の思い出もない家。

「今、お茶淹れるわ」

母さんがダイニングのテーブルを片付けて言った。

テーブルの隅に片付けられた物を見て、オレは深く息を吐いた。

作りかけの組紐。

穂高に渡したあの組紐も、笛を始めたオレに母さんが編んでくれたものだ。

笛の袋を結ぶのに良いね、と。

世界にたった1つの大切な物。

オレはその片付けられた席に座った。

部屋を見回す。

見覚えの無い物たちの中に紛れて、オレの部屋にあったコルクボードにフレッド・アステアが笑っていた。

『フレッドのおまじない』

またあの日のヤツが過ぎって、オレは視線を落とした。

「穂高に会ったんだ」

母さんは、何も答えない。

ただ、お茶を用意する音だけが聞こえる。

「母さん、全部知ってたんだね」

やはり返事はなかった。

暫くして、台所から母さんが戻って来た。

お茶菓子とお茶をオレの前に差し出すと、自分の所にもお茶を置いて、席についた。

「元気だった? 穂高くん」

やっと母さんが口を開く。

「怖いくらいに変わらなかったよ」

「そう」

顔色ひとつ変えずに答える。

「オレを探してたらしい」

ずっと無表情だった母さんが、ほんの少しだけ微笑む。

「馬鹿ね、あなたも、穂高くんも」

オレには、何故今母さんが笑ったのか、分からなかった。

お茶をゆっくりと啜った後、何かを思い出すように、母さんは続ける。

「高校の合格発表の日、穂高くんのお祖父さんが言ったわ。『穂高が何故この高校にこだわったか、やっと分かった。コータくんと同じ高校に行きたかったからだったんだ』って」

ああ、やっぱり同じ高校を選んだのは、そうだったんだ。ヤツは偶然って言い張ったけど、普通に考えて農業高校も近くにあるのに、おかしいと思ってた。

だとすると、ヤツは中学の頃からずっと……

「あの日、穂高くんの腕の組紐を見た時分かったわ。ああ、この子ずっと紘太が好きだったんだって」

オレは何も言えず、目を伏せた。

「それなのに、『この想いはお互いの為にならない。だから封印した。家を継ぐ為に普通に生きる。もう決めたんだ』って言うのよ」

母さんの眼が潤んでいるのが見える。

「痛々しかった」

「その穂高に土下座したの? オレを救ってくれって……」

母さんが小さく頷く。

「自分の心に嘘をついても、結局自分が辛くなるだけって、あなたに気づいて欲しかった。ギリギリまで待ったけど、あなたもう何も見えてなかった。とにかく逃げたい、それだけだった……。もしかしたら、穂高くんならあなたの心を溶かせるかもしれない……可愛い1人息子を救えるなら、土下座くらいいくらでもするわよ。奈落に落ちていく息子を救いたいのに救えない。そんな自分が悔しくて、悔しくて……」

母さんの眼から涙が溢れた。

「母さん……」

その涙を手の甲で拭う。

「あなたに冷たく当たってごめんなさい。でも、分かって欲しかった。傷付けた人もいることを」

「それは分かってたよ。逆にオレは嬉しかったよ。母さんは、どんな時も母さんなんだって。自分の息子だとしても、許せないものは許せない。オレの好きな母さんだ」

オレたちは久方ぶりに微笑みあった。

「そんな褒めたって、簡単には許さないんだから」

「いいよ、許さなくて。オレはそれだけのことをしたんだ。澄香の人生だって狂わせて、瑞穂に寂しい想いをさせた。みんな裏でコソコソ言う癖に、誰もオレに面と向かっては何も言わないんだ。誰もオレを責めない」

オレは何故か笑った。

「息苦しかった」

母さんが立ち上がり、オレに近づく。

「髪の毛切りなさい。似合わないわ」

そう言って、髪を撫でる。

言葉とは裏腹に、その指から想いが伝わる。

「ありがとう、母さん」

母さんの両腕がオレの肩を抱いた。

「少しは逞しくなったのね」

その言葉が、心を指しているのか、身体を指しているのか、両方なのか。分からないけれどオレは、微笑んで頷いた。


帰り際、母さんが言った。

「お互いに想い合ってるのに、自分の一方的な想いだと思って、想いに蓋をして、でもまだ忘れられない。あなた達って似た者同士ね」

オレとヤツが似てるなんて、思ったことない。

むしろ、全然違うと今も思っている。

母さんが問う。

「あなたはどうなの? もう、忘れられた?」

オレは答えない。

いや、答えられない。

オレにも、その答えは分からないから。

「今度、父さんと3人でご飯食べようよ」

母さんが、昔のように笑った。


 帰り道、バスから眺める田園風景があの町と重なった。

「日本は豊葦原とよあしはらの瑞穂の国っていうんだって」

ヤツが言った。

「この種籾1粒が、何倍にもなるの凄くねぇ?」

芽出し途中の種籾から、ほんの少し芽が出かかっていた。

米が作られる過程を知らなかったオレには、全てが新鮮で、そして神聖に思えた。


娘に瑞穂と名付けた。

あの種籾から、黄金のたわわに実る稲穂へと育つように、成長してほしいという願いだった。

よく男親は、お腹で育む母親と違って、実感が薄いなんて言うけど、瑞穂は足の親指の爪の生え方と、耳の形がオレそっくりで、オレの血を継いでるんだって、愛しくなったものだった。

親になったからこそ、オレを許せなかった母さんの気持ちが良く分かる。

もし、瑞穂が何処かの男に、愛されずに子を宿されたら……。想像するだけでムカムカする。

オレの罪は重い。


そんなオレが、また春を待ち望むのは、違う気がしていた。

でも、冬に留まり、自分を罰し続けるのも、また違う気がする。


母さんの問いを頭で繰り返す。

ずっと忘れようと逃げ続けた。

でも、忘れられたのなら、今、こんなにも心が騒ぐことはない、きっと。

終わりのない自問自答を繰り返しながら、オレは今日の現場へと向かった。


倉庫での仕分け作業の現場を終えて、家に帰ったのは深夜1時近くだった。

母さんと話せて、少し雪解けが見えてきたからこそ、改めてこの1人の部屋に帰ってきた時の孤独が痛い。

灯りのついていない、暗い部屋。

荷物を置いて、灯りをつける。

出かけた時のままの光景が広がる。

オレはいつものようにテレビをつけ、帰りに買ってきた牛丼をテーブルに置いた。


「ずっと、好きだったんだアヤト……」

お湯を沸かそうと台所に向かおうとしていたオレは、その台詞に振り返る。

また違うBLドラマが始まってたのか。

制服を着た大人しそうな男子高校生が、同じ制服の金髪イケメンに告白していた。

アヤトと呼ばれた金髪イケメンが、

「やっと言ったか、遅ぇんだよ」

とツンデレな台詞を吐きながら微笑んだ。

「誰に何て言われたっていい。普通じゃなくたっていい。やっぱり俺、お前じゃなきゃ嫌だ!」

2人は抱きしめ合い、そして見つめ合い、キスをした。

幸せそうに笑い合う。

2人の出会いからの映像がフラッシュバックする。

そして、再び2人のキス。


「コータ、大好きだよ。あの頃から、ずっと」

あの夜のヤツの声が聞こえる。

オレの頭の中で、オレ達の出会いからの出来事が勝手に流れ出す。

図書室で『銀河鉄道の夜』の話をしたあの日。

何かといえば、図書室で話した中学時代。

そうだよ、転校してきたオレがハブられたりしないように、ヤツはいつだって少し距離を取って……

高校行かないって決めてたのに、そこからオレに見えないところで頑張って、一緒の高校受験したんだろ。

合格発表の日、嬉しすぎて抱きしめ合った。

楽しかった高校1年。

初めて見たヤツの神楽舞に心を鷲掴みにされて、笛を始めて……

田んぼで作業して、泥だらけになって、神輿担いで……

どんな思い出にもヤツがいる。

なぁ、オレが普通に友達と思ってる間も、お前はオレを好きだったんだろ?

俺よりずっと長く、想いを隠して、ずっと笑ってたの?


「俺、馬鹿だった。周りの目ばかり気にして……。本当に大事なのは、お前が好きだっていうこの気持ちなのに……。もう、自分に嘘をつかない。お前と離れたくない!」


BLはファンタジーなんだろ。

そんな風には上手く行かない。

現実はそんなに甘くない。

オレたちはいっぱい傷付けて、傷付いて……

でも、ドラマの台詞に心が揺さぶられる。

なぁ、何故オレはコイツラみたいに素直になれないんだ?

もう、ずっと前から答えは出てたんじゃないのか? 

ファンタジーだろうが、現実だろうが、一緒だ。

男だろうが、女だろうが一緒だ。

どんなに逃げようが、誤魔化そうが、忘れようとしようが、揺るがない想いが、ここにある。


「あなたは忘れられた?」

母さんの問いがこだまする。


オレはテレビを消音にして、スマホを手に取った。

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