芒種・続〈ぼうしゅ・つづき〉

 今さら何を話せばいいのか分からない。


 今季のフェニックスはあまり調子が良くない。

今日も2桁得点され、負けている。

回が進むにつれ、客が帰り始める。

必然的に飲食店に並ぶ人も少なくなる。

こういう時は、早く仕事が切り上がる事もある。

時給の高い派遣を長く使いたくないからだ。

そうなったらいいな、オレはそう思った。


 遠い昔、一緒に観戦しようと約束していた。

勿論、覚えているよ。

でも、繋いでいたはずの手は、あっけなく振りほどかれた。

谷底に落とされて、絶望して、俺は更に下へと落ちていった。

客が途切れると、あの日キラキラした眼でTシャツを眺めていたヤツと、さっきの優しい笑顔のヤツが浮かんでは消える。

忘れようと思っても、忘れられる訳が無い。

将来の夢なんて、漠然としていたけど、少なくとも当たり前に普通の人生を歩むと疑わなかった。

なのに、オレはあそこで全てを間違ったんだ。


 逃げたい。

会って、話して、何になる。

ヤツも分かってるから、2度釘を刺したんだろう。

繰り返されるファウルボールの注意アナウンスを聞きながら、

「もう諦めろよ」

と、フェニックスの打者に向かって呟いた。

ここから逆転なんて出来ねぇだろ。

何、粘ってんだよ。


「すみません」

声がかかって、はっとする。

「いらっしゃいませ」

そこに立っていたのは、穂高だった。

「パフェひとつ」

そう言った後、

「前と変わってないけど。終わったら電話して」

と、紙切れを差し出した。

コイツも粘るな。

オレは回りに気づかれないように、その紙切れをポケットにしまった。

オレがレジを打つ間、懇願するように上目遣いでオレを見つめる。

とにかく一度は話をしないと、ヤツは納得しないだろう。

オレは社員から差し出されたパフェを受け取り、

「スプーンはお1つでよろしいですか? 」

と聞いた。

穂高が振り向く。

きっとこのパフェは、ちょっと後ろで待ってる子供の為だろう。

「じゃ、2つで」

「承知しました」

スプーンを2つ取り、パフェと共に差し出す。

「大丈夫、逃げねぇよ」

その言葉を聞いた穂高が、視線をあげて微笑んだ。

「待ってる」

もう一度、座席へと戻っていく2人を見送りながら、ヤツの眼を見ちゃダメだと思った。

10数年を経て、どこか疲れ果てて老けたオレと違って、びっくりするほどあの頃の何かが残っている。

だから、時を越えてあの頃に引き戻される。

あの頃に引き戻されたら、オレは……


 突然、スタジアムが大きく沸いた。

「おっ、走者一掃すんぞ!」

試合の状況を確認していた社員が興奮気味に言った。

さっきの粘ってた打者、タイムリー打ったんだ。

とはいえ、何点差だよ。

オレは時計を見た。

早上がりはなくなったかな。

ふと、さっき受け取った紙切れを見る。

それは見覚えのある番号だった。

ヤツがカノジョとのキスを見せつけて去った日、携帯から削除した番号。

ずっとこの番号使ってたのかよ。

胸の奥で、何かが小さな音をたてる。

「うわっ、また打った!」

社員の声と同時にまたうねりの様な歓声があがった。

「こりゃ、追いついちゃうぞ。やっぱ最後まで何あるなわかんねーな、試合は」


人生も何があるか分からない。

ついさっきまで、穂高に会うことなんて、もう2度とないと思っていた。

離婚してからずっと、俺は冬のような孤独と寒さの中を、凍えながら生きて来た。

もう春は来ない。

そう諦めていた。

でも、本当にこの試合みたいに、人生も最後まで分からないのなら、こんなオレにも、また春は来るだろうか?


 結局、フェニックスは逆転勝ちした。

一度流れが向いたら、あれよあれよと追いつき、逆転した。

興奮気味に家路につく観客たちに、笑顔が溢れている。

もし、あの打者が、オレが諦めろよと言った打者が、あそこで粘らなければ、普通に負けていたかもしれない。

みっともなくても、回りに何て言われても、諦めない強さみたいなものが、オレには足りてないんだな、そう思った。

オレならあそこでとうに諦めてる。


 派遣の詰所でセキュリティパスを返し、見知った顔数人に挨拶して帰ろうとした時、前に別の現場で一緒になった大学生に声をかけられた。

「久しぶりっす!」

「あぁ、今日もTシャツ配布?」

「はい」

大学生もパスを返しながら返事をする。

「違ったらごめんなさい。名前、三枝さんでしたっけ?」

「そうだけど?」

彼とは、森林公園のレンタサイクルの現場で一緒になり、あまりにも暇すぎていろいろと話した。

普段は名乗らないけど、そう言えば名乗った気がする。

「前回のTシャツ配布の時、三枝さんを探してる男の人いましたよ。もちろん、知らないって答えましたけど」

「探してる?」

「そん時は名前なんて知らねぇよ、って思ったけど、よく考えたら三枝さんってレンタサイクルの時の人だったな……って思って……何か眉間にシワの寄った眼力強いヤツだったんで、気を付けて」

オレは全てを理解した。

「気をつけるわ。ありがと」

オレの言葉に会釈して、彼は先に詰所を後にした。

偶然じゃなかったのか。

ヤツはオレを探しに何回かここに来てた?

まさかそんな風に探されていたなんて、思いもしなかった。

だとしたら、やはりキチンと一度は話すべきだな。

オレは詰所を出たところで、あの紙切れを取り出した。

「もしもし」

2度鳴らして、ヤツが出た。

「三枝です。今、どこ?スタジアムは出た?」

「今、駐車場向かってるとこ」

「どこ停めたの? そこ行く」


 コンコン。

助手席の窓をノックすると、ヤツがオレに気が付いた。

「開いてる」

ヤツの唇がそう動いたので、オレは助手席のドアを開け座った。

何て話しかけていいか分からなかった。

「すぐ分かった?」

ヤツが、聞いた。

「ああ」

そういえば、子供がいない。

オレがキョロキョロするから気が付いたのか、ヤツが、

「寝ちゃったよ。試合結構長くなったしな」

と言って後部座席を見た。

身体を捻って見てみると、ブランケットを掛けられて、男の子が寝ていた。

「小学生?」

ヤツが頷く。

「小6になったとこ。」

ん?瑞穂と同い歳?

「俺の子じゃないよ」

ヤツが笑った。

てっきり穂高の子だと思ってた。

「弟。ナイトっていうんだ。親父が再婚してさ、俺アニキになったんだ」

「再婚!」

思わず大きめの声が出て、ヤツがシーッと人差し指を唇に当てた。

お互い後部座席を見る為に身を乗り出しているから、思った以上にヤツの顔が近くにあって、ドキリとする。

狭い空間で、お互いの視線が絡み合う。

「来てくれてありがとう」

「別に……」

オレは、過去に引き戻されないように、視線を逸らす。

「元気?」

「まあ。お前は?」

「まあ」

沈黙が息苦しい。

ヤツがずっとオレを見ている。

その眼に捕われないように、オレはじっと前を見据えてる。

「時間は? 予定とか大丈夫?」

「仕事終わって、あとは家に帰って寝るだけだよ」

「良かった」

再びの沈黙。

「いざとなると何も言えねぇもんだな」

ヤツが笑った。

「会ったら話したいことが山ほどあったはずなのに……」

「もしかして、何回かスタジアム来て探してた?」

オレはさっきの話を確認するように、問いかけた。

「今回が2度目。中学一緒だった佐藤覚えてる?」

佐藤。忘れもしない、あの、佐藤。

「ああ、覚えてる」

「あいつが、Tシャツ配るお前を見たって言うから、Tシャツ配布の日に来てた。今日も配布のとこ見て、いないから諦めかけた矢先、ナイトが『あのキャラクターのお店行く! 』って。ナイトが言わなかったら、俺お前に会えてないわ」

オレが今日仕事してた店は、屋根が球団キャラクターの形になっている。

だからか。

そんな奇跡があるもんなんだな、とオレは小さく笑った。

「コータ、こっち見て」

名前を呼ばれて、鼓動が早くなる。

懐かしいその響き。甦る甘い痛み。

見ちゃダメだ。そう思っても、まるで悪魔の囁きのように、身体が動き、あの眼に捕まった。

「今さら遅いのは、分かってる。でも謝りたい」

オレは言葉が出ない。

「お前が、お見舞いに来てくれた日、俺ジッチャンに『無理して家を継がなくていい、好きに生きろ』って、言われたんだ」

確かに、オレにもお祖父さんは『穂高には、穂高の人生を歩んで欲しい』そう言ってた。

「ジッチャンは俺の気持ちに気づいてた。だから、そう言ったんだけど、あの頃の俺はジッチャンに見捨てられたと思ったんだ」

気持ちに気づいて? 何の話?

「だから、是が非でも想いを断ち切って、生きようと思ったんだ」

ヤツは何を言ってるんだ?

「駅に見送りに行った日、コータのお母さんがウチに来た。コータを救ってくれって土下座した」

俺は混乱した。

母さんが?

「お母さん、言ってた。『あの子は、あなたを好きな自分から逃げてる』って……」

オレは息を飲んだ。

母さんはそこまで気づいて……

オレを見つめたままの穂高が左手をグッと目の前に上げた。

オレの眼から、涙が落ちた。

組紐だ。あの日、オレが結んだ組紐。

大分色褪せて、短くなった様から、ずっと付けられていた事が分かる。

「この組紐を見て、『穂高くん、あなたもでしょ?』って」

え?

嘘だろ?

「俺が想いを断ち切ろうと、あんな事したから、お前を傷つけて突き放そうとしたから……ごめん……お前の人生、めちゃめちゃにしたの、俺だ……」

穂高の大きな眼が潤んでいく。

「何言ってるか分からねぇよ……」

オレの声が震えた。

「コータ、大好きだよ。あの頃から、ずっと」

オレは眼を閉じた。

頭も、気持ちも、全てが追いつかない。

落ち着いて、順を追って整理しようとしても、湧き上がる感情がそれを邪魔する。

「ふざけんなよ」

口をついて出たのは、怒りに満ちた小さな呟きだった。

「今さら何なんだよ。人の気持ち何だと思ってんだよ。突然、人が変わったみたいに、今までが嘘みたいに放り出されて、オレがどんな気持ちだったか分かるか?」

穂高が逃げずにオレを見ている。

相変わらず眉間にシワを寄せて、涙が溢れないように堪えてる。

「オレがどんなにお前を……」

言っちゃダメだ。

唇を噛みしめる。

涙が頬を伝っていく。

あの頃の気持ちに引き戻されていく。

あの絶望、あの孤独。

オレは何年この気持ちを封じ込めて、淡々と生きてきたんだ。

悪いのは穂高じゃない。

俺自身だ。それは痛いほど分かってる。

だけど……

オレは右手でヤツの身体を引き寄せると、有無を言わせず口づけた。

強引に唇をこじ開け、舌を絡ませる。

不器用なキス。

あの日、あんなキスしてた癖に、まるで初めてみたいに身体を震わせる。

ヤツの両手が、オレの身体を捉えそうになった瞬間、オレはヤツを突き放した。

「これで満足か?」

戸惑い、悲しみに満ちたヤツにオレは言った。

「もう、オレの人生掻き乱さないでくれ」

ヤツの伸ばした腕を振り払い、オレは車を降りる。

「コータ!」

一瞬、足が止まりそうになるのを堪えて、オレは歩き出した。

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