紅花栄 〈こうさかう〉

「もうちょっと、右手を伸ばしてみて」

上半身裸の俺は、言われるままに右手を伸ばす。

それを見ながら、イズが素早くスケッチする。

鉛筆が止まる。

「ちょっと触っても大丈夫?」

「お好きにどうぞ」

俺は笑う。

世の中の夫婦はきっと、触る事に承諾などいらない。

でも俺たちは毎回、確認し合う。

お互いが嫌じゃないか。

イズの指が、俺の腕の筋肉をなぞる。

少しくすぐったい。

でも動かず俺はイズを見る。

俺は気づいているよ。

俺に触れる時のイズが、何時からか少し熱を帯びるようになったの。

イズは隠してるつもりだろうけど、分かるよ。

俺がじっと見ていた事に気がついて、イズは指を離す。

「ありがと」

イズはまた鉛筆を走らせる。


 俺は去年結婚した。

川島いずみ、旧姓成澤なりさわいずみと、契約結婚した。

農協の支部長から、しつこくお見合いを勧められ、断りきれずに会ったのがイズだった。


「断りきれなかったので来てしまいましたが、私たぶんアセクシャルなんです」

お見合いの、あとはお若い2人で……の時間、彼女は言った。

俺は知識がなくて、それがどういう人をさす言葉なのか全く分からなかった。

彼女曰く、恋愛に興味がない、恋愛出来ない、性的欲求もないなどの人をさすんだとか。もちろん、今までそういう気持ちになる事がなかっただけで、この先もずっとそうとは限らないけど、少なくとも今まではそうなのだという。

しかし、それを誰にも打ち明けられず、親はお見合いをすすめ、断りきれずここに来たのだと言う。なので、断って欲しい、と。

そうやって打ち明けてくれたので、俺の方も事情を話した。

俺が潜在的に女性に嫌悪感を持っていて、現時点で女性にはほぼ反応しないこと。

かつて好きになったのは男性で、その人を忘れられずにいること。そして、その人にだけは身体が反応したことを包み隠さず話した。

「運命のつがいみたいですね」

彼女が言った。

俺はそれが何か分からなかった。

「私、自分は恋愛出来ないし、興味もないんですけど、BLは大好きなんですよね。知ってます? BL?」

「ボーイズラブ?」

彼女が頷いた。

「そこで人気のオメガバースというジャンルがありまして……あ、何かすみません。専門的な話してしまって」

彼女はしまった! という顔で、頭を下げた。

「私も女だけど、女が嫌いなんです。だから、女の入る余地がない世界が大好きで……。たまにマンガを描くんです。だから、川島さんと、その忘れられない人の話、素敵です。応援したくなります」

面白い人だと思った。

ふと、妙案が浮かぶ。

「ねぇ、お互いのまわりの人間を安心させる意味でも、お友達として初めてみるってのはダメかな?」

ちょうどドラマやマンガで契約結婚が流行りだした時期でもあった。

もっとこの人の話を聞きたいと思った。


 イズと俺は言わば同志だ。

彼女は人を恋愛対象に出来ないが、人の心は人一倍分かる人だった。

俺はイズに女性の生々しさを感じない。男と話してるみたいに、いやそれ以上に何でも話せる。

凄く居心地が良かった。

もし恋愛に発展すれば、それはそれで良い。

結婚というスタイルにこだわることもなかったけど、イズの両親は心配していたから、俺たちは同志という名の夫婦になった。


 俺には弟が産まれた。

名前は騎士と書いてナイト。川島騎士で、かわしまないと。ぶっ飛んだキラキラネームだけど、マチルダさんらしい名前選びだ。

もう小学6年生になった。

俺は予定通り、ナイト出産後実家を追い出されたが、田んぼのことやナイトのことで、何かといえば呼び出され、実家とアパートを行き来した。

実家とも上手くやっている。

ナイトは母親に似て、俺を〈ほだ〉と呼ぶ。

でも、めちゃめちゃ可愛い。

産まれたばかりの頃から、世話をしてるから、自分の子供みたいに可愛い。


イズとナイトと3人で出かけると、普通の親子に間違われる時がある。

そんなわけ無いじゃんって思うけど、コータの子は今、ナイトと同い歳。俺が父親でもおかしくはない。

「そんなに子供可愛いなら、早くイズに産んで貰えばいいのに」

マチルダさんが言う。

僅かながら、そんな未来を夢見ないでもない。

その事を言うと、イズが笑う。

「その左手の組紐。切れても切れても補修して付けてる人が何を言う、ですよ」

その通りだね。俺は今もコータに未練たらたらだ。

「でも、羨ましいよ。そんな風に1人を想い続けられるって、凄いことだよ。私には一生分からない熱かもね」

恋愛感情のことを、〈熱〉と彼女は言う。

何となくその感覚、分かる気がする。

イズのちょっと変わった表現が、俺は新鮮で仕方ない。

「で、その後、手がかりはないの?」

イズの問いに、俺は頷く。

コータが牧村と離婚したという話は、同窓生の中で話題になったことがあった。

牧村が娘を連れて実家に帰ってきて、すぐに娘を連れて再婚したまでは分かってる。娘の名前が瑞穂みずほである事も。

コータ、どんな想いでその名前を付けたの?

もしかして、もしかする?

多分、元居た街にいるだろう。

ただ、こことは比べ物にならない都会だから、コータを探す術がない。

いいか、悪いか分からないけど、農協の集まりでは、この町1番のスピーカー佐藤が、同窓生情報を逐一報告してくれるから、そこに何かひっかかってくれるのを待っている。

「何かもっと効率いい方法ないかね?」

俺が聞く。

「探偵とか?」

イズが答える。

「金かかりそう」

俺は思いっきり眉間にシワをよせて笑った。

そんな俺を見て優しく笑っていたイズが呟く。

「ほだ……」

「ん?」

「その時が来たら、私のことなんか気にしちゃダメだよ。今度こそ、離さないでよ、ほだのカムパネルラ。私は、ほだの幸せを1番に願ってるんだから、2人の幸せが私の幸せ、なんだからね」

イズは嘘つきだな。

俺はストレートに聞く。

「イズ、俺に惚れてるだろ?」

イズが言う。

「惚れてるよ、人間としてね」

都合の良い言葉だな。

俺は笑った。

俺も同じだよ。

イズが好きだよ、人間として。


 そんなある日のことだった。

「おぅ、穂高」

農協の集まりの日、いつものように佐藤が近づいて来た。

「なぁ、コータ覚えてる? 覚えてるよな、お前よくツルンでたもんな」

とうとう良い仕事する日が来たか、佐藤。

俺は身を乗り出したいのを堪えて、いつもの時のように薄い返事をした。

「あ、うん」

「こないだの週末、俺さ、子ども連れてフェニックスの試合観に行ったんだわ。ちょうど入場者特典でTシャツプレゼントの日でさ。チケット持って欲しいサイズのレーンに並ぶんだけどさ、俺にそのTシャツ渡したの誰だと思う?」

もったいぶるなよ。そう思いながらも、

「まぁ、今の話の流れだとコータだよな」

と答えた。

「そうなんだよ。ちょっとこう髪長めでワイルドな感じになってたけど、あれは絶対コータだよ。あっちは気が付かなかったけど、俺、その後も何回か見に行ったから間違いない。まだあっちにいたんだな。ああいうの、派遣がやるような仕事だろ?定職ついてねぇんじゃねぇ? あいつ」

そこから佐藤が、長々と話してたけどほとんど聞いていない。

フェニックス……

そう言えば、一緒に試合を観に行こうと約束したっけ。もしかして、あいつそれを覚えてて…。

俺がTシャツを眺める姿を、見守っていたコータの笑顔を思い出す。

居ても立っても居られなかった。

話そっちのけで、フェニックスの試合情報を調べた。今週末もTシャツ配布のある試合がある。

行くしかない。

今、手がかりはそれしかないのだから。


「今日、ちょっと実家に行って遅くなるから、先寝てて」

「分かった。ご飯も無しで大丈夫? 」

「うん。食べてくる」

何でだろう。

俺は初めてイズに嘘をついた。

本当はスタジアムにコータを探しに行くのに。

今はまだ、イズに知られたくない。

この関係に、心地良いこの関係に、不穏な空気を漂わせたくはなかった。


 車で1時間半。

俺は初めて、コータの生まれ育った街に来た。

とにかく、何もかも規模がデカい。人も多い。

実家の駅の利用者数が1日平均100人、アパートのある町が1500人なのに、ここは8万人くらい利用するらしい。文字通り、桁が違う。

駐車場を探すにも四苦八苦。その上、びっくりするほど高い。スタジアムに向かうにも迷いまくる。

人の多さに酔いそうだ。

自分がいかに小さな世界に住んでいたかを実感する。

ようやく、東口から出るというシャトルバスに乗り込み、ほぼ真っ直ぐの道を数分でスタジアム前に降ろされる。

「デカっ」

ゲートをくぐると、目の前にスタジアム。外野側の方には観覧車まで見える。遊園地みたいだ、とは聞いていたけど、予想以上だ。

「特典Tシャツの引換はチケットをご用意のうえ、左手にお進みください!」

配布されるTシャツと同じものを着たスタッフが、案内している。

俺は電子チケットの表示に手こずりながら、交換所へ向かう。

サイズごとにレーンが別れている。

これは、違うレーンで誰が配っているとか、全然分からないな。

一旦、交換を諦め、外の通路からそれらしい人がいないか見てみる。

実際に渡している人の他にも、補充の為に動いている人もいて、かなりの人数だ。

レーン毎に何度も確認するけれど、コータらしい人は見当たらなかった。

補充担当の人が水分補給をしていたので、ダメ元で声をかけてみる。

「配布の皆さんは、いつも同じメンバーなんですか?」

突然、話しかけられて、訝しげなスタッフが言う。

「いえ、僕は今日初めてで……配布は毎回あるわけじゃないので、都度募集される派遣です。毎回来る人もいれば、たまに応募する人もいます」

「今日のメンバーの中に、三枝さんっていませんか?」

「名前なんて、みんな知らないですよ」

苦笑いしながら、会釈して去っていく。

空振りか。

こんな大きなスタジアムで人を探すなんて、不可能に近い。でも、今は手がかりはここしかない。

暫く近くで、スタッフの動きを見ていた。やはり、コータの姿はない。

まあ、1回で見つかるわけもないか。

俺は一番小さいサイズのレーンに並び、流れ作業でTシャツを受け取る。

スタジアムに来ていることを言っていないから、家に持って帰れない。なら、実家のナイトにあげよう。きっと喜ぶ。

そうだ、次はナイトを連れて来よう。

それなら、イズに堂々と言える。

5月の雲の無い青空と観覧車を見上げて、次もあるのかよ、と自分に笑った。

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