蒙霧升降 〈ふかききりまとう〉

 親父と担任が話をして、夏休み明けから学校に復学する事が決まった。

夏休み中、2年の単位が危ういところを、特別の補講をしてもらったりして、先生方にも良くしてもらった。

まだ、コータと同じクラスでやっていける自信はない。ましてや、クラスの女子と付き合ってるコータを見るなんて、考えたくもない。

だけど、俺を心配して力を尽くしてくれる人がいる。自分で決めた道なら、逃げてちゃいけない。

だから、決めた。


 あゆとは一進一退だ。

多分、長くは持たないだろうと思ってる。

彼女は頑張ってるけど、俺をゆっくりは待てない。

というか、頑張らないといけない恋愛なんて、何か間違ってる気がする。

俺も前より諦めが強くなってる。

焦れば焦るほど、事は悪化するばかり。

嫌いじゃないし、好きではあるけど、その好きはライクであって、ラブじゃない。

でも世の中の男子の殆どは、そんな分類軽く吹き飛ばすらしいけどね。

羨ましいよ。


 お盆に町内会の小さな夏祭りがある。

毎年、そこに神楽の担い手が盆踊りの手伝いをしていた。

神楽頭曰く、コータを誘ったら、断られて途中で電話を切られたらしい。

「何かあったのか、お前ら?」

聞かれたけど、

「俺、学校行ってねぇから分からないよ」

と答えた。

神楽でコータに会うことも、もうないだろう。


 コータがやって来る前の世界に戻った。

ジッチャンはもういないけど。

俺はこの小さな町の中で、まるでここが世界の全てのように生きている。

たぶん、これからもずっと。


 夏休みが終わる直前、ある日の午後。田んぼの周りの草刈りをしていると、見覚えのある車がやって来るのが見えた。

親父に作業を抜けることを伝えて家へ戻ると、そこにはコータのお母さんが立っていた。

「穂高くん、久しぶり」

挨拶したお母さんに違和感を感じた。

以前の弾けるような明るさがない。

それどころか、若干やつれたように見える。

俺は軽く会釈した。

「穂高くんと話をしたいんだけど、いいかしら」

「はい」

何だろう。

思い当たることはないけれど、あんなに良くしてくれた人を無碍に追い返すわけにもいかない。

俺は居間に案内すると、麦茶を用意した。

「あまり時間がないから、お構いなく。座って」

お母さんが俺を呼んだ。

時間がない?

俺は麦茶のグラスだけを持って、居間へ戻る。

麦茶を差し出すと、お母さんは頭を下げた。

俺はただならぬ雰囲気に強張りながら、正座した膝を握りしめて、話を待った。

お母さんが俺の顔を見つめる。

そして、何か思い切るように、口を開く。

「紘太、高校を退学したわ」

「!」

俺は言葉が出なかった。

全く予想していなかった言葉に、頭が真っ白になる。

「同級生の女の子が紘太の子を妊娠して、2人は結婚することになるそうよ」

俺は眼を見開いて、お母さんを見た。

何て顔してるんだ。まるで他人事のように言う。

あんなに表情豊かで、笑顔が素敵なお母さんだったのに、今ここにいる人は凍りついたような顔で、淡々と話す。

当たり前だ。あまりの事に、俺も思考が追いついていかない。知らない間に何が起こってたんだ。

「私たち全員、元いた街に戻るの。紘太は就職先の社宅に入るから、16時前の電車でここを離れるわ」

俺は思わず時計を見た。

今、正に15時を過ぎたところだった。

時間がないとは、この事だったんだ。

視線を戻すと、お母さんがまたしっかりと俺を見つめた。そして、少し後ろに身体を引くと、深く深く頭を下げた。

「どうか紘太を助けてください」

俺は思わず座卓を回り込んで、お母さんの右手に触れた。

「何してるんすか?頭あげてください」

俺に促されて、顔をあげたお母さんが無表情に涙を流すのを見て、この人がどんなにコータを愛しているのか知った。

「あの子は逃げてるの。あなたを好きだという自分から」

「へっ?」

思わず声が出た。

お母さんの強い視線が俺を捉えて離さない。

今、何て言ったの?

コータが、何て?

次の瞬間、お母さんの視線が、俺の左手首に落ちた。

「あなたもそうなんじゃないの? 穂高くん。その組紐、私があの子にあげたものだもの」

とっさに右手が、組紐を隠すように左手を掴む。

ああ、この人も気付いて……

今、ここで誤魔化したって、意味はない。

俺は右手を離した。

「好きですよ。友達としてでなく、何だろ…唯一無二の存在として」

お母さんが何かを言い出そうとするのを遮って、俺は続けた。

「でも、その想いは封印しました。それは、お互いの為にならない想いだから。俺は、家を継ぐ為にきっと普通に結婚して、跡継ぎを残さなきゃならない。それは、俺の夢でもあるから。コータは……俺なんかに好きでいられて、変な噂がたったら、将来に……」

「もう将来なんてめちゃめちゃだわ。普通って何?変な噂って何? そんなものの為に、自分の本心を偽るの? 偽って、今、あなた達傷だらけじゃないの?」

「傷だらけでも!俺はそう決めたんです」

俺の言葉に、お母さんが力なく笑う。

「お互いに想い合ってるのに、何でこんな事になるの。こんなに傷つけ合って、そうでもしないと離れられないくらいなのに……」

「お互いに……なんて、今知りましたよ。俺からの一方的な想いだと思ってたから」

「多分、紘太もそうよ。自分だけがあなたを好きだと思ったんでしょ。あなたに彼女が出来たから」

あ。

俺のせいでコータは……

「お願い。今ならまだ間に合うかもしれない。お互いの気持ちを知れば、何か変わるかもしれない。好きでもない子と結婚して、子供を育てる為に全てを投げ出すなんて馬鹿げてるわ。あなたなら、あなたならあの子を救えるかもしれない……」

もう一度、お母さんが頭を下げる。

「俺の気持ちは変わりません。でも……」

俺はもう一度時計を見た。

15時30分になろうとしていた。

確かこの時間の下りは15時43分発。

ギリギリ間に合う。

想いは伝えたい、あいつに。

それで何かが変わるのなら。

それであいつを救えるのなら。

俺は立ち上がった。

「車で送るわ。」

お母さんも立ち上がった。

「車だと回り道になるんで、自転車で行きます!」

俺は部屋から自転車の鍵を取ってくると、

「全部そのままで大丈夫なんで」

そう伝えて、走り出した。

もう一度時計を確認する。

15時32分。

俺は自転車の鍵を開けて、漕ぎ出した。

お母さんが玄関まで出て来て、俺を見送ってる。

草刈りをしている親父の横を、俺が走り抜けたので、親父が振り向いて俺を見ている。


 俺はいったい何をしたんだ。

コータも俺を好き?

そんなコータに俺は何を……

俺と同じように、想いを振り払うように、牧村と付き合ったの?

そしてコータは、学校を辞めることになったの?

自分の夢の為、コータの為にって言って、コータの人生をめちゃめちゃにした?

俺が?

息が切れる。

疑問が溢れる。

何が何だか分からない。

こんな事になるなんて、想像もしなかった。

想像もしなかったんだ。

あの髪を撫でる指から、組紐を結んだ笑顔から、メールの言葉から、そして俺たちのキスから眼を逸した表情から。

思い返す瞬間、瞬間に、コータの想いが溢れ出す。

何故気が付かなかったんだ。

何故気付けなかったんだ。

結局、俺は俺の事しか考えてなかった。

ごめん。

想いを閉じ込めたはずのパンドラの箱の蓋が開いて、総ての想いが堰を切ったように、飛び出してくる。

見えてきた駅舎の時計が15時41分を指す。

あともう少し。

下りは駅舎側のホームに入る。いつもと同じなら、コータは駅舎からホームに出たすぐの所に乗ってるはず。

どうにか間に合ってくれ。

電車の音が聞こえてきて、あっと言う間にホームに滑り込む。

俺は駅舎前に自転車を投げ出すと、ホームへと走った。車窓にコータを探す。いつもの席にコータはいた。まるで体当たりするかのように、車窓に両手を打ち付ける。

コータが顔を上げた。コータが立ち上がりかけた瞬間、ドアが閉まる。

「電車から離れてください」

車両の一番後ろから、車掌が呼びかける。

俺は少し離れて、俺を見ているコータに敬礼した。

コータが泣いている。

俺も泣きそうになるのを堪えて、とうとうその言葉を口にした。

「大好きだよ、コータ……」

その声はきっと、電車の音に遮られ届いていない。

ゆっくりと電車が動き出す。

なんて皮肉な運命なんだ。

「バカヤロウ!」

誰に向けてなのか分からない言葉がついて出た。

過ぎていく電車の窓から、いつまでもコータが見ていた。

置いて行かないで。

一人にしないで、俺のカムパネルラ。

電車が見えなくなるまで見送った後、俺はその場に崩れ落ちた。


開いてしまったパンドラの箱に残ったのは、希望か、それとも絶望か。

答えは風に吹かれている。

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