霜止出苗 〈しもやんでなえいず〉

 あの日、聞いた『おしょうしな』が、まさかジッチャンの最後の言葉になるなんて思わなかった。

あの日、もっと話せば良かった。

あんな、ちょっと喧嘩別れみたいな会話が悔やまれる。

最後の言葉なんて、背中で聞いたのに……


今、眼の前にいるジッチャンは、機械が辛うじて生命を繋いでいる。

もう、目覚めることはない。

目覚めることはないんだ。

親父がもういいと言えば、機械は外される。

その瞬間、ジッチャンは旅立つんだ。


 稽古は休まない。

そう決めてたけど、ジッチャンには怒られるかもしれないけど、祭りまでの数日間だけでいい。

ジッチャンの傍に居たかった。

「ジッチャンが思うさ、俺の本当の幸せって何だと思う?」

問いかけるけど、もちろん返事はない。

「ジッチャンは無理してって言ったじゃん? 俺、無理してる?」

溜息がこぼれ落ちる。

「少なくてもジッチャンにはそう見えてるから、言ったんだよね」

コータの寝顔がフラッシュバックする。

コータの匂い、体温、髪の柔らかさ、唇の感触。

知ってしまうと、手放すのがこんなも惜しくなるなんて。

でもあれは一夜の夢。

「ジッチャン。俺はさ、コータの幸せも大切にしたい。俺は幸せでも、俺と歩む未来が、コータの幸せなには、なり得ないと思うんだ。コータには、コータの幸せがきっとある。だから、俺は俺の切符を握りしめて行くよ」

俺は立ち上がった。

「ジッチャン、観ててよ。俺の神招」


 神楽頭に電話を入れる。

「相さん……。今から行きます」

「ああ、待ってる」

電話を切ると、エレベーターの前に、親父が立っていた。

「行くのか」

「もちろん」

エレベーターを塞ぐように立つ親父を挑発するように答えた。

「俺は、お前のそういうところが苦手だった。子供のくせに、泣き叫びもせず、自分1人で全部背負って立ってますって顔して、無言で俺を責めるお前が……。母親そっくりだ」

俺は親父を睨みつけた。

今、そんな話かよ。

「くだらねえ」

俺は気にせず、親父の前を過ぎていく。

「でも、自慢の息子だ」

俺の足が止まる。親父の顔を見る。

「俺にない強さを、お前は持ってる」

親父が拳を突き出した。

その拳を見て、俺はしゃらくせぇと笑った。

振りかぶって、右拳を突き出し、親父の拳の前で、止める。

「行ってくる」

コツンと拳を当てて、俺は言った。

母ちゃんの声がする。

「不器用な人だから」

知ってるよ、母ちゃん。

そこも含めて、大好きなんだよ。

母ちゃんと同じように。


 駅から自転車を走らせ、神社に辿り着く。

時計を確認する。

大丈夫、動き出しの時間に間に合った。

一の鳥居で一礼。

石段を登って、二の鳥居の前に立つと、祭りの担い手たちが集会所前で円陣になっているのが見えた。

俺は二の鳥居前で拝殿に向かって挨拶して、その輪の中に入って行った。

「ご迷惑おかけして、すみませんでした! 今日は精一杯努めます。よろしくお願いします! 」

俺は深く頭を下げた。

一瞬、間があって、

「頑張れよ!」

「期待してるぞ!」

拍手と共に、声がかかる。

胸が、熱く、熱くなる。

間違いなく、今日、この日は俺の人生の分岐点になる。

見てて、ジッチャン。

俺は俺の道を行くよ。

俺は顔を上げた。

「よっしゃぁ、やるぞっ!」

心の奥底から、俺の魂が雄叫びをあげた。

「おおお!」

円陣が一斉に声をあげた。

さあ、祭りが始まる。

円陣の向こう側にいたコータと眼が合う。

きっとずっと心配してたに違いない。

俺は、大丈夫だよ。

その想いを込めて、微笑んだ。


 忙しい。

この時、ジッチャンは何してたっけ?

神楽頭と一緒に神職を迎えに行き、神事で担ぎ手全員で潔斎けっさい、玉串を奉奠ほうてん……

総代がやることは山のようにある。

これをジッチャンは、ずっとこなしてきたんだ。

何度となく交差する視線。

俺も、コータも、お互いの仕事をこなしていく。

神輿に神様が遷られる時、神職が低い声を発する。

この声に、俺はいつも震えがくる。

ビリビリと身体を震わすような声に、小さい頃から、見えない何か凄い存在を感じたものだった。

神楽もそうだ。

神をおろす、神招の舞。

その役目の重さに武者震いする。


 準備は整った。

俺は、担ぎ棒の決められた場所で、先導の到着を待つ。

まずは猿田彦さん、少し遅れて、その後ろにジッチャンの代わりに、氏子総代代理の神楽頭が正装で位置に着いた。

まわりの担ぎ手たちが声を上げ始める。

担ぎ上げの声出しは、俺が任されている。

俺は眼を閉じた。

神輿渡御の合図の太鼓が止んだ。

「行くぞ!」

俺は腹の底から声を出し、神輿を担ぎ上げた。


「川島先輩!」

御旅所で声を掛けられ、ペットボトルの水が差し出された。

見ると、図書室で声をかけてきた新入生だった。

「ああ、この辺の子なんだ?」

めちゃめちゃキラキラした眼で俺を見ながら、彼女は頷いた。

ああ、そうだ。

「何ちゃんだっけ?」

俺はペットボトルを開けながら聞いた。

「佐々木あゆみです!」

「あゆみちゃん。」

名前を呼ばれて、また彼女は弾けるように笑った。

この辺が家で、佐々木という名に思い当たる人がいた。

「町会の副会長の佐々木さん?」

「そうです!」

俺は喉を鳴らして水を飲むと、汗を首にかけた手ぬぐいで拭って言った。

「後で連絡先教えて。連絡するから」

彼女は暫く絶句して、聞いた。

「時が来たんですか!」

俺は頷いた。

「ヤバい……」

彼女が天を仰いだ。

相当嬉しいらしい。

何だか微笑ましかった。

「水、ありがとね。神楽も観てってね」

彼女は頷いた。

俺は、振り向いてコータを探す。

大丈夫。見られてない。

担ぎ手たちと水分補給しながら雑談してる。

これから先の俺を、まだ知られたくはないんだ。


 神輿が神社に戻った。

みんなが休憩に入るが、俺には時間がない。

携帯を確認する。連絡はない。

機械を付けていても、合併症が起きれば……と言われていたけど、神輿渡御は無事に終えられた。

ジッチャンだもん。大丈夫だよ。

そう思いながらも、気になっていたから、少しホッとした。

あとは、ただ無心で舞うだけだ。

神楽殿の裏で、ひたすら振りを確認する。

大丈夫。大丈夫。

稽古を休んでいた分の不安を振り払うように、舞続ける。

それをずっとコータが見ているのも知ってる。

アイツは近づいて来ない。

邪魔しちゃいけないと思ってるんだろうな。

俺は、手を止めて、コータを見つめた。

そして、首を一振り。コータを呼んだ。

コータが笑いながら近づいて来た。

「眼力だけで、人を呼ぶなよ」

「ちゃんと出来てた?」

誰かに聞かないと不安で堪らない。

俺は、食い気味にコータに聞いた。

「出来てたよ」

「神輿終わったら、緊張してきて、何度確認してもこんがらがりそうで……」

「大丈夫だって……」

「ずっとやってきたのに、鈴と幣束を逆に持ちそうなくらいバクバクしてる……」

コータだから、コータだから、こんなカッコ悪いところも見せられる。

「左手出して」

「えっ?」

「いいから」

俺は優しく微笑むコータを見つめながら、恐る恐る左手を差し出した。

ずっとコータが笛の袋を縛ってた組紐。

それを俺の左手に結んでゆく。

「左手に幣束な。そして、ちゃんと舞えるおまじない」

あの日言ってたやつだ。

俺は左手を高く掲げて、蝶々結びされた組紐を見つめた。

「フレッドのおまじない」

本当に、お前が居てくれて良かった。

きっとこの瞬間を思い出すたび、俺は強くなれるよ。

「コータ……」

左手の組紐を触りながら、コータの顔を見ずに言う。

「全部、全部、ありがとな」

「……うん」

照れくさそうに、小さく答える。俺は顔をあげコータの眼を見据えた。

最後にちゃんと伝えたい。

「おしょうしな」

サヨナラ、コータ。


 神楽頭に呼ばれ、コータたちが舞台へと消える。

上坂さんが近づいて来て言った。

「総代とは長い付き合いだ。だからわかる。もう席について、お前が舞うのを待ってる。お前に、俺の全ては預けた。大丈夫だ、俺が保証する。穂高、神をおろせ。」

俺は静かに頷いた。

肩を叩いた上坂さんが四方拝しほうはいの舞に出る。


俺は音と共に、四方拝の舞を頭で一緒に舞う。

秋にはもう、この舞も俺が舞う。

辰哉くんが、幕の後ろで落ち着かなく動いてる。

俺は近づき、

「ヨロシクね」

と笑った。

震えているのがわかる。

幕が上がり、上坂さんが戻ってくる。

俺たちは、右手でグッと手を組んだ。

「行ってくる」

太鼓が1つ鳴る。

笛の音が鳴り始める。

幕が上げられる。

さあ、出番だ。

幕を潜り、舞台に出ると、俺は眼を見張った。

ジッチャンがいつもの席にいた。

嬉しそうに、満面の笑みで。

動揺しちゃいけない。

まずは拝殿に礼、幣束を左、鈴を右。狩衣に隠れて見えなくても、そこに組紐が結ばれている感覚で、心が落ち着く。コータが傍にいる。あいつの組紐が俺を守ってる。そして、ジッチャンが見ている。

鈴を返すたび、鈴の音が頭でこだまする。

四方で繰り返される同じ動作。ふと見ると隣の辰哉くんも、没入して舞っている。

俺は自分の意識が薄れながらも、何かに導かれるように舞い続けた。

辰哉くんが深く礼をして、幕の奥に消えた。

俺は紫色の幣束を高くかかげ、舞台を大きく回る。

ジッチャン、ありがとう。

俺のジッチャンでいてくれて、ありがとう。

ジッチャンがいたから、俺、俺でいられたよ。

舞台正面に向かって、左手で高く空を指した時、ちょうど境内の灯りがともり、舞台に向けたライトが眩しくて眼を閉じた。

「穂高……」

耳元で、ジッチャンの声が聞こえて、眼を開けるといつもの席にジッチャンがいなくなっていた。


あ、逝った。

そう、思った。

やっぱ、すげーよ、ジッチャン。

約束、ちゃんと守ったね。

今までで一番深い礼をして、俺の神招の舞は終わった。

舞い終えた時、自然に涙が頬を伝っていた。


 幕の後ろに戻ったところで、人を掻き分けて神楽頭がやってきたのを見て、俺は鳥甲を取った。

「辰哉、穂高の代わりやれ」

辰哉くんがその意味を察して、俺を見た。

上坂さんが俺を抱きしめる。

「良くやった! 早く行ってやれ!」

俺は上坂さんから離れると、そこにいる全員に頭を下げた。

「あとはよろしくお願いします」

狩衣を雑に脱ぐと、神楽頭が俺の私服を渡してくれた。

着替えて客席側に出た時、振り向くと種播の舞が終わるところだった。

コータの笛の音が、空気を震わして、俺の心まで震わせる。

絶対に、忘れないよ。

俺はいつもの電車の時のように、コータに敬礼してその場を離れた。

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