虹始見 〈にじはじめてあらわる〉
最近、コータの心配症が炸裂している。
「痩せた? ちゃんと食べてんの?」
コータが頬に触れようとするから、首を振って逃げた。
「大丈夫。祭りに向けて、筋トレもしてるから、そのせいでしょ」
こんな誤魔化し言っても、コータには効かないの分かってる。
でも、心配させたくもないから、結局嘘をつく。
コータがめちゃめちゃ心配してくれてるのは分かってる。だからもうこれ以上、そんな不安げな顔しないでよ。いつもみたいに笑っててよ。
心の中でなら言えるのにな。
もうすぐ俺の降りる駅に着く。
「大丈夫だって」
俺はもう一度笑ってみせた。
「ほんとに?」
電車の速度が落ちて、立ち上がろうとした時、コータの右手が俺を引き止めた。
「穂高……」
俺は答えられなかった。
振り向けなかった。
無言で掴んだ腕を振り解き、電車を降りる。
深く息を吐き出し、大きく吸う。
そして、満面の笑みで振り向く。
いつものように、少しおどけて敬礼する。
やっと笑った。
いつものように、コータが笑った。
その笑顔が見たかったよ。
それだけで、俺の心は軽くなるんだから。
動き出した電車に合わせて、今日はエスカレーター。パントマイムで俺は下っていく。
ちらりと見ると、コータが手を振っていた。
過ぎ去っていく電車。
俺は深く溜息をついた。
「ジッチャン、ただいま!」
自転車を止め、玄関を開けると俺は呼びかけた。
いつもなら、横になってても返事をするのに、声が聞こえない。
「ジッチャン? 起きてる?」
嫌な予感がする。
俺は靴を脱ぎ捨てると、カバンを玄関に置いて駆け出した。
「ジッチャン!」
ジッチャンの部屋を開けると、布団から離れた場所に、仰向けでジッチャンが倒れていた。
駆け寄り、まず脈を確認する。大丈夫、脈はある。何が起きたか分からないから、下手なことは出来ない。何はともあれ救急車呼ばないと。
「ジッチャン、俺だよ。聞こえる? 救急車呼ぶから! いくなよ! まだ絶対いくなよ! まだ祭りきてねぇぞ!」
俺はポケットから携帯を取り出し、119に電話をかける。
「はい、119番です。救急ですか? 消防ですか?」
「救急車お願いします。祖父が、帰宅したら祖父が倒れていて……」
「何か持病などありますか?」
「膵がんで余命宣告を受けています」
「すぐに救急車向かわせます」
入院したくないって、家でいいって言ってたけど、もう無理だろうな。
俺は精一杯の力で、ジッチャンを抱きしめた。
通っていた町の総合病院に搬送されたジッチャンは、処置を受けてひとまず容態が落ち着いた。
でも、先は見えていた。
神楽頭に稽古に遅れる事をメールする。
親父は、連絡に返事がない。
コータが心配してメールをくれた。
稽古に行きたいのに、親父が来ないから離れられない。再度主治医の先生から、親父に話があるということもメールしたのに、何もいってこない。
苛立ちを隠せない。
エレベーターのドアが開いた。
顔を上げると、親父がこっちに向かってきていた。
「何で返事しねぇんだよ!」
俺は立ち上がると、親父の胸ぐらを掴んだ。
「いい加減にしろよ。おめぇがしっかりしねえから、いつだって俺が全部被んだよ!」
親父は、何も言わない。
「逃げ回ってねぇで、そろそろちゃんと農家の長男やれよ! 大切なもの全部手放して、何してんだよ!」
あぁあ、言っちゃった。
母ちゃんに言われたから、分かってあげてと言われたから、誰が何を言っても、俺は親父に何も言わなかった。どんな目に合わされたって……
でも、限界だよ、親父。
俺は力を緩めて、親父から離れた。
言ったって無駄だ。
ジッチャンがいくら言ったって聞かなかったんだ。
いつか親父として、頼れる人になってくれる。
そしたら俺は、無理に大人にならなくたっていい。
そう願ってたけど、いつまで待っても暖簾に腕押しだ。
「もう少し……もう少しだけでいいからさ、俺を子供でいさせてくれよ」
涙が一筋、頬を伝ったのが分かった。
小1で母親を失って10年、今俺は16になった。俺は間もなく、唯一甘えられる、子供でいられる存在を失う。
「あとは頼んだぞ。駄々っ子ちゃんみてぇに暇じゃねぇんだよ、俺は」
時計を見る。
次の電車には間に合いそうだ。
少し遅れるけど、神楽の稽古には行ける。
俺は休む訳にはいかない。
例えジッチャンがいなくても、立派に祭りをやり遂げてみせる。
集会所に入るやいなや、神楽頭が俺を手招きした。
「大丈夫だったのが」
俺は頷いた。
「俺は詳しい話聞いてないから……。でも、もう家には……」
「だろうな」
神楽頭が眉間にシワを寄せた。
「俺も総代に頼りきりだったから、分かんねぇことだらけだ。お前の方が知ってることあるだろうから、こんな時にすまねぇけど、頼りにしてるぞ」
そう言って貰えるのは、正直嬉しかった。
「ジッチャンに聞きたいことあれば、俺聞けるうちは聞くし。稽古には必ず出るから」
頷いた神楽頭が、俺の両肩を掴んだ。
「穂高、頼りねぇかもしんねーけど、ウチも頼ってくれていいんだからな」
本当に神楽頭がいてくれて良かった。
その分、俺は舞に集中出来る。
「相さん……、ありがとね。相さんが総代代理やってくれて良かった。ジッチャンも、俺や親父に任せるより、100倍安心だと思うよ」
「
上坂さんが声をかけた。
「くだくだ言うのは、全部終わってからにしろ。大変なのは百も承知だ。でも穂高は休まねぇ。そういう男だ。総代の為にも、俺たちゃ稽古に励むだけだろ」
カッコいい。
上坂さんも、神楽頭も。
俺のそばに、こういうカッコいい大人たちがいたから、それを見てきたから、俺はこの俺でいられたんだろうな。
自然に笑顔になれた。
「上坂さん、最高! さ、やろやろ!」
ふと、笛の方を見ると、一連の件をコータも見ていたようで、笑顔でガッツポーズを見せた。
そう、それでいい。
お前の笑顔で、俺は更に頑張れるんだから。
ジッチャンは、しきりに家に帰りたがった。
こんなところに1人でいたくないと、何度も言った。
俺は、出来ることならそうしてあげたかった。
でも、家に戻れば春祭りまではもたないだろう、そう言われたらしい。そうなれば、もう祭りどころではなくなる。
家に帰りたいのと、祭りをやり遂げる。
相反する2つの願い。
もし、ジッチャンにどっちか選べと聞いたら、即答で祭りだろう。
だから、俺は毎日ジッチャンをなだめる。
「良くなったらすぐに帰れるよ。まずは少しでも元気になろう」
「そうだな」
お互いにもう分かってるんだろうけど、繰り返す優しい茶番。
1日、また1日、痩せ細り、声が小さくなり、ついにはもう帰りたいとさえ言えなくなった。
正直、シンドいな。
でも、ジッチャンはもっとシンドいんだ。
せめて、俺は笑っていよう。
「稽古はどうだ?」
今日は比較的調子が良いみたいだ。
病院に着くと、ジッチャンはすぐに聞いてきた。
「うん。上坂さんに教わって、神招の振りは入ったよ。あとはそれを上坂さん並に磨いていかないと。体幹鍛えて動きがブレないように頑張ってるよ」
家から持ってきたタオルをしまいながら、俺は答えた。
それをジッチャンが嬉しそうに聞いてる。
「コータは……、コータは、稽古出てんのか?」
「今年はサボらないで熱心にやってるよ。もうミクちゃんより上手いよ」
「いがった、いがった」
小さな声でジッチャンが言う。
「コータと話してぇな」
俺の手が止まる。何でコータ?この状態のジッチャンを、コータに会わせたくはなかった。俺は答えない。
「ダメか?」
「ダメじゃないけど……何で……」
ジッチャンの右手がトントンとベッドを叩いた。
「穂高、ここさ来い」
俺は引き出しを閉じると立ち上がった。
また、トントンとジッチャンが俺を呼んだ。
ベッドを回り込むと、丸イスに腰掛ける。
ジッチャンがゆっくりとこっちを向いた。
「コータは、もう一人のジッチャの孫みてぇなもんだ。可愛い可愛い孫の大事な人だからな」
俺の身体が強張った。
「そうだろう?」
ジッチャン、気づいて……
「コータと同じ高校行きたくて、土下座までしたんだろ」
ジッチャンの右手が伸びてきて、俺の手を探した。俺はその手をしっかりと握った。
「ジッチャンは間違ってだ。息子や孫の本当の幸せより、いつだって家の事ばっかりだった……。自分がそうだったから、そうするのが当たり前だと思ってたんだ。だがら、耕一もああなっちまった。あいつの夢をジッチャは粉々にしちまった。あいつの笑顔なんて、もう何年見てねぇんだ? お前と同じ可愛い息子だったのに……」
ジッチャンが泣いてる。
涙がポロポロと、次から次へと流れて頬を伝い、シーツに落ちる。
俺は泣かないように、唇を噛み締めながらそれを見ていた。
「もう間違えたくねぇ。可愛い可愛い穂高の笑顔を消したくねぇ」
グッと、握った手に力を込める。
ダメだ。涙が溢れ出した。
「穂高、もう無理に家を継ごうなんて、しなくていい……お前は、お前の好きなように生きろ。大切なもの手放して、耕一みてぇに死んだように生きるな。ジッチャは穂高に幸せになって欲しいんだ……」
「ダメだよ、ジッチャン」
俺は涙を手のひらで拭った。
「俺を見捨てないでよ。俺、ちゃんと農家の長男やるよ? 小さい頃から、それが夢だったんだ。ジッチャンいつでもその話をすると、嬉しそうに笑ったじゃん。俺、その笑顔が大好きだよ。だから……母ちゃんが一緒に行こうって言った時だって、俺家に残るって言ったんだよ。その夢を奪わないでよ」
「穂高……」
「確かに俺、コータが好きだよ。大好きだよ。でも、この夢を捨てるのは違う。違うんだよ!」
俺は握った手を離すと立ち上がった。
ジッチャンの右手が、宙を舞う。
「俺は田んぼ継ぐ。総代もいつか受け継ぐ。大好きなジッチャンみたいになるんだ!」
ジッチャンが右手で顔を覆って、泣いている。
俺は涙を何度も拭いながら、病室を出た。
携帯が震える。
取り出して見ると、コータからのメール。
『今日、ジッチャンのお見舞い、行ってもいい?』
ジッチャンの想いが通じてる。
会わせるしかないな。
漠然とそう思った。
昼ご飯にジッチャンはほとんど手がつけられなかった。
コータがお見舞いに来たいと言ってると伝えると、静かに頷いた。
今日はたくさん話したから、少し疲れたんだろう。
気が付いたら、寝息をたてて眠っていた。
『本当の幸せ』って何だろう。
『銀河鉄道の夜』を読んだ時にも感じた。
俺の本当の幸せ。ジッチャンの本当の幸せ。親父の本当の幸せ。そして、コータの本当の幸せ。
分からないことだらけだけど、ジッチャンの幸せが俺の笑顔なら、俺は俺の決めた道を行く。
それが例え茨の道だとしてもね。
俺は携帯を取り出して、コータに返事を返した。
良い大人たちに囲まれていても、俺はいつも一人だった。
でもコータに出会って、それは変わった。
心から笑えた、幸せな日々。
これからの人生、どれだけ季節が流れて行っても、それはきっとずっと変わらない。
自分の決心を確認しながら、涙が止まらない。
もうその道しかないと分かっていても、心が血の涙を流すんだ。
サヨナラを言わなければ。
メールを読んで、こっちに向かってるのなら、もうちょっとでコータは来るだろう。
泣いてちゃいけない。
またアイツは心配する。
だけど涙が止まらない。
「穂高くん。今日はお家でゆっくり休みなさい。根つめすぎて、あなたが倒れたらどうするの?」
看護師に突然話しかけられて、驚いて涙を拭う。
近づいて来たのも気が付かなかった。
俺はただ頷いた。
「お友達?」
看護師が別の誰かに話しかけた。
えっ?
振り向くとそこに、エレベーターの前に、立ち尽くすコータがいた。
見られてた。
ずっと、見ていて話しかけられなかったんだ。
頬の涙を拭い、隠すように俯いた。
「はい」
コータが答える。
「今日は一緒に帰ってあげて」
看護師が、励ますように俺の肩を二回叩いて立ち去った。
コータが近づいて来るのが分かる。
「見てたのかよ」
まだ残る涙を隠すように、振り向かずに俺は聞いた。
コータは答えない。
「オレは大丈夫だから。ジッチャン、今日は少し調子がいいから、顔見せてやって。コータと、話したいって言ってたから」
「わかった」
両肩にコータの手が触れる。
「大丈夫だから」
普通に話そうとするのに、声が掠れる。
「行ってくる」
俺は頷く。
「あと、今日うち来いよ」
思ってもみない言葉に、驚いて思わず振り向く。
見られたくなかった泣き腫らした顔をコータが、まじまじと見つめる。
「少しでも忘れて、ゆっくり休めよ。家じゃ無理だろ?」
ダメだ、そんな事言われたら……。溢れ出ないようにと眼を閉じたけど、涙は勢い良く、止めどなく溢れ出た。
「コ……」
名前を呼ぼうとした次の瞬間、俺の身体をコータの右手が抱きしめた。
「全部1人で背負うなよ」
抱きしめたその手に縋り付く。
自分の身体が小刻みに震えてるのがわかる。
コータの温もりが痛い。
そんなに優しくするなよ。
じゃないと俺は……
「ここで待ってて」
離れていく右手を身体が無意識に追った。
本当はこのぬくもりを離したくなんかない。
俺の手は届かず、空を切った。
無言のまま、コータが戻って来たのは、ほんの数分後のことだった。
俺は入れ替わりに病室に戻り、
「また明日来るね」
と告げた。
ジッチャンが小さく
「おしょうしな」
と言うのを聞いて、俺は病室を出た。
大丈夫だから、とそのまま家に帰ることも出来たと思う。なのに俺は、促されるままコータの家について来てしまった。
正直、家に帰りたくなかった。
このまま、家に帰って一人になったら、暗闇に食われてしまいそうで怖かった。
今日、一人になるのは嫌だった。
コータの家に来るのは初めてだ。
少し緊張するけど、お母さんが明るくて素敵な人だから、きっと大丈夫だと思う。
「ここ。穂高の家と比べたら狭いけど……」
そう言ってコータは呼び鈴を鳴らした。
「いらっしゃい!」
コータのお母さんが満面の笑みで、俺たちを迎えた。
「高校の入学式以来かしら? 穂高くん、背伸びたわね」
入学の時からあんま変わってないんだけどな、なんて思いながらコータを見る。
「コイツに身長ネタは地雷だから」
多少気にはしてるけど、地雷じゃねぇよ! と言いたいところだけど、ここはぐっと堪えつつ、コータに余計なこと言わないように、目線で釘を刺す。
「そうなの? これからどんどん伸びるわよ。成長期なんだから。紘太なんか逆に中学で伸びたけど、もう止まったのよねぇ」
「母さんは話が長いんだ。早く中に入ってもらいなさいよ」
お父さんとは転校してきた中2以来だ。
あの時は気づかなかったけど、スラッとした感じとか、眼鏡をした時の感じがコータに良く似ている。
鼻筋とか、優しいところとかは、お母さん似かな?
突然のことにも関わらず、こうして優しく迎え入れてくれる、こんな素敵な両親だから、コータも最高に良い奴に育ったんだな。
コータの両親のやり取りを見ていて、自然に笑顔になっていた。
「入れよ」
笑えている自分に驚きながら、
「おう」
そう答えた。
「お腹空いたでしょ。もうちょっと早ければ、もっとマシなもの作れたんだけど」
そう言えば、電車の中からメールしてたっけ。本当に急だったのに、食事まで用意してもらって、何だか申し訳ない。
「好き嫌い分からないから、カレーにしちゃった。カレーで大丈夫?」
「カレー大好きです」
今日あったいろんな事が霞んでくほど、和やかで明るい空気に包まれている家庭。暖かい家庭ってこういうのを言うんだな。
俺はそのペースに戸惑いながらも、心地よさを感じていた。
甘いのに後から辛さがやってくる、洋食屋とかで出てきそうなカレーをお腹いっぱい食べたら、緊張の糸が解れたのか、眠くなってきた。
それを察したコータが、部屋に案内してくれた。
「狭いけどどうぞ」
初めてのコータの部屋。
何だかまた緊張してくる。
ベッドと机とチェスト。
世の中の高2の部屋は、もっとガチャガチャしてそうなのに、コータらしい落ち着いた感じの部屋だった。
俺が部屋を見回しているうちに、コータがチェストからTシャツを取り出し、差し出した。
「パジャマ代わり」
手に取ると、それは野球のユニホーム風のTシャツだった。
「フェニックスだ! そうか、地元にいたんだもんな」
俺も小さい頃は、ジッチャンや親父とキャッチボールくらいはやったことあるし、テレビで観ることもある。
ただ球場へ行って観戦するとなると、この片田舎からではなかなか難しい。
「たまに父さんに試合連れてってもらってたから。ファンってほどじゃないけどな」
スタジアム観戦とか、どんな感じなのか想像できない。
「スポーツ観戦とかしたことないからさ。俺も野球スゲー好きって訳じゃないけど、スタジアムの感じとか体験してみてぇんだよな」
野球観戦どころか、県外なんて中学の修学旅行以来行ってない。実のところ、俺は狭い世界しか見てないのかもしれないな。
「じゃ、いつか一緒行こうぜ。デーゲームなら、終わってからでも帰ってこれるし」
「おう! 」
いつか……
それが叶うかなんて分からない。
でも、コータと一緒なら、全然違う世界にも行ってしまえる気がした。
Tシャツを広げる。
同じTシャツを着て、観戦する二人を思い浮かべる。
今だけは、全て忘れて……
「あんま寝れてないんだろ? オレのベッド使って。オレリビングで寝るから……」
何でこんなに優しいんだよ。
コータも、お母さんも、お父さんも。
「聞こえてた? オレのベッドじゃ嫌?」
「嫌じゃねぇよ」
「ただ……」
「ただ……?」
振り向いてコータの眼を見た。
「コータ……」
「ん?」
今の気持ちを正直に伝えたいけど、ちょっと恥ずかしい。一旦、目を逸らして、気持ちを落ち着かせて、俺は言った。
「おしょうしなし」
ありがとうじゃ足りないと思ったんだ。
だけど、俺等の世代じゃほとんど使わない方言で言うのは照れくさい。
精一杯の気持ちを込めて言ったのに、コータは吹き出しそうになってる。
「何だよ!」
嫌でも眉間にシワが寄る。
堪えきれず、コータが吹き出した。
「おい!」
「悪い悪い!」
謝りながら笑い続けるコータを見て、俺も笑顔になっていた。
母ちゃんが言った。
「私が全部許してしまうのは、お父さんの為にはならないの。大好きだから、離れるのよ」
ダイスキダカラ、ハナレル?
俺は子供だから、良くわからないよ。
大好きなら、ずっと傍に居ようよ。
「あなたを残しては行けないわ。一緒に行きましょう」
俺は母ちゃんの手を取ろうとしたけど、振り向いた先でジッチャンが泣いてた。
何でだよ。
母ちゃんも、親父も、ジッチャンも、大好きだよ。
何で一緒に居られないの?
何で選ばなきゃならないの?
「さぁ」
でも俺は、この家を、田んぼを継ぐんだよ。
俺が居なくなったら、ジッチャンが泣くよ。
「オウチニノコルヨ」
小さな俺が言った。
母ちゃんが寂しそうに笑った。
振り向いた母ちゃんが離れて行く。
俺は手を伸ばした。
「行かないで、母ちゃん」
母ちゃんが俺を抱きしめた。
俺も母ちゃんを抱きしめる。
そっと髪を撫でる指先から伝わる愛情。
このまま、ずっとこうしていて。
「穂高……」
それはコータの声だった。
急速に意識がはっきりしてくる。
夢じゃない。誰かが俺を抱きしめて眠っている。
耳元で寝息をたてているのがコータだと気が付いた時、身体が反応した。
今、コータのベッドで、コータに抱きしめられながら、髪を撫でられながら寝ている。
それに気がついてしまったから、自分の鼓動の音がドクドクと響いて、身体が熱くなっていく。
色々試してみても駄目だったのに、大好きな奴に抱きしめられると、こんなにも簡単に反応しちまうんだな。
俺は普通に寝返りする振りをして、コータの方に向き直った。
ぐっすり眠ってる。
まつ毛がびっくりするほど長い。
ずっと一緒に居たって、こんな距離で顔を眺めることなんてない。
時折、眠ったまま髪を撫でるから、愛しさがこみ上げる。
ああ、神様。
この夢のような瞬間で、時が止まればいいのに。
気づかれないように、目を覚まさないように、そっとそっと口づける。
幸せなのに、涙が伝う。
頭のテッペンから脊髄を流れるように、ピリピリと甘い痺れが伝う。
その頬に触れる。
今度は瞼に、頬に口づける。
想いの全てを込めて。
結局、その後は眠れなかった。
でも、一晩中でもコータの寝顔を見ていられた。
明るくなってきて、ちょっとウトウトし始めたところで、寝ぼけたコータにエルボーされたので、俺は可笑しくて、起き上がってその寝相を見ていた。
「何処までも一緒に行こう、カムパネルラ」
起きないことをいいことに、俺はもう一度その唇に口づけた。
「大好きだよ、コータ」
神様は、最後に、思い出に残る奇跡みたいな時間をくれたんだね。
家に帰ろうと、駅に向かう途中で電話が鳴った。
ジッチャンの様態が急変したと。
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