東風解凍〈とうふうこおりをとく〉

 もしかしたら……

そんな不安が頭をもたげたのは、中1の冬だった。


 この頃になると、クラスの男子はみんな、馬鹿みたいに女の話をした。

アイツが巨乳だの。

スカート短い女子のパンツが見えそうだったの。

体操着の下、ブラが透けてて興奮しただの。

中には、グラビアアイドルの際どい写真集を見ながら、誰が一番長く持ち堪えられるか競う、なんて大会を開く奴らまでいた。

でも、どちらかと言えば、それが普通だった。


 まあ俺は、幾度となく、親父とどっかの女のそういう場面を眼にしてたから、耐性がついてたってのはあるとは思う。

それにしてもだ。

普通はそんなの見たら、自然に身体が反応しちゃうみたいだぜ。

みんなの話を聞くとさ。


でも俺は反応しないんだ。


もしかして普通じゃない?


いやいや、俺ちゃんと……


そう思いかけて、凍りつく。

あの時からじゃん。


中1の夏。

学校から帰ると、案の定、奥の仏間で知らない女と親父がヤッてる最中だった。

夏だからって、こんな窓全開でヤんなよって思いつつ、部屋にカバンだけ置いて、冷蔵庫のある土間に戻った。

窓全開にしたところで、一番近い隣の家だって、徒歩5分くらいはかかるから、誰にも迷惑はかかってないのか。

いやいや、思春期の息子がいるんだぜ。

少しは自重しようよ、親父。


でも、親父はよくやってるよ。

母ちゃんがよく言ってた。


 親父は、高校の頃バンドをやってて、それがすこぶるカッコいいバンドだったらしいんだ。

人気もあって、招待されて東京のライブハウスで演奏したこともあったんだって。

親父は進学せずに、家の仕事をしながらバンド続けて、ある時東京の事務所から『事務所に入ってデビューを目指さないか?』って言われたんだって。

親父は勿論、そうしたかった。

でもジッチャンが許さなかった。

『お前が家を出たら、誰がこの田んぼを継ぐのか』

って。

親父の部屋には今も、その頃の名残として、使い古されたギターと、ボブ・ディランのレコードアルバムが投げ出してある。

デビュー出来たかなんて誰にも分からないし、デビュー出来てもバンドとして生き残るなんて厳しいに決まってる。

でも、その挑戦さえ出来ずに、諦めた気持ちはどんなだろう。

「お父さんは不器用だけど、悪い人じゃないのよ。あなたのことだって大好き。泣きながら、俺の自慢の息子だ! って、穂高って名付けたんだもの。でも、どうやって可愛がっていいか分からないのよ。分かってあげてね」

あんな理解してくれてた母ちゃんを、どうでもいい浮気で泣かせてわ、ついに離婚になっちまったけど、どんなに好き勝手されても、俺は親父を嫌いになれなかった。

親父が背負ってる物は、やがて俺が背負うものだ。

親父の気持ちがわかる時もある。

ここから逃げ出せない、息の詰まる人生。

俺たちは、家という見えない牢屋に繋がれてる。


 コップに麦茶をついで、飲もうとすると、やけに大きい女の喘ぎ声が、土間まで響いてきた。

さすがの思春期。

俺の身体も少し反応してた。

身体の一部分が熱い。

そこまで無知ではないけど、まだそれにどう対処したらいいのかも、イマイチ分かってなかった。

身体の火照りを冷まそうと麦茶を飲み干す。

ひときわ大きな声がして、仏間が静かになった。


良かった。

終わった。

俺はもう1杯飲もうと、麦茶をもう一度手に取った。

「あーら、私にも麦茶ちょうだい。」

仏間から出てきたキャミソール姿の女が、俺に言う。

俺はぎこちなく歩いてコップを取りに行こうとすると、女は言った。

「そのコップでいいわよ。君が飲んでたやつ」

無駄に厭らしく女は笑った。

俺は仕方なく、眼の前のコップに麦茶をつぎ、女に差し出した。

「ありがと」

コップを受け取った女は、ゴクゴクと喉を鳴らして麦茶を飲み干した。

汗で張り付いた髪の毛の横を、また汗が流れて、キャミソールの中へ消えていく。

身体の一部分だけ、脈が早くなるのがわかる。

そして少しずつ起き上がる。

「あれ〜? 反応しちゃった?」

女の目線に気がついて、俺はとっさに背を向ける。

それを追いかけるようにして、女は後ろから俺を包みこんだ。

「中学生だっけ?」

耳に息がかかる。

逃げようとするけど、まだ小学生の頃と身長があまり変わらない俺は、がっちりホールドされて動けない。

「自分でしたことある?」

俺は首を振って、伸びてくる右手を阻止しようとしたけど、駄目だった。

あっという間に外に出され、その指先で弄ばれた。

嫌なのに、気持ち悪いのに、心は拒絶してるのに、身体はそうじゃない。

吐き気がしてるのに、どんどん硬くなってく。

「おめぇ、何してんだ!」

親父の声がして、俺は小さく震えて果てた。

女が自慢気に手のひらを親父に見せる。

どこまでゲスいんだ。

「帰れ!」

「何よ、怒ったの?」

俺は肩で息をしたまま、身体を丸めた。

全てを隠してしまいたかった。

「穂高……部屋戻れ」

親父に言われると、俺は身体を丸めたまま、足早に自分の部屋に戻った。

まだ身体が痙攣してる。

襲ってくる凄まじい嫌悪感。


遠くで、親父と女が言い争う声が聞こえる。

サイテーだ。

ほんとサイテーだ。

あの女も、親父も、そしてあんなやつに反応しちまう俺の身体も。


 それでもまだ、あの日までは、俺は普通だった気がするんだ。

授業参観で、あの時の女が、同級生の佐藤の母親だと知るまでは。

俺に気が付いたあいつは、ヤラシイ眼で会釈した。

同じくらいの子供がいて、なんであんな事が出来るんだ。


 俺が、女という性に嫌悪感を持ち始めたのは、きっとあの時だ。

男所帯で育って、母親との少しの思い出しかない俺にとって、あの出来事はおぞましいトラウマでしかなかった。


それから、なんてことはなく毎日が過ぎていったから、気にも止めていなかったけど……

最近、オレいつ反応したっけ?


背筋が凍りついた。

もしかして? もしかする?

こんな事、誰にも相談出来ない。

友達にだって……

無邪気に猥談で盛り上がる佐藤を横目で見て、誰にも話せる訳がないと思った。

ジッチャンにだって……


 俺は農家の跡取りだよ。

当たり前に、ジッチャンから親父へ、親父から俺へ、田んぼは受け継がれる。

普通に結婚して、普通に子供つくって、また次の世代にバトンを渡して行くんだろ。

親父が好き勝手やってるから、ジッチャンは俺に期待してる。

俺はジッチャンが大好きだ。

嫌われたくない、絶対に。

失望されたくない、絶対に。


きっと今は、まだショック強すぎて、何だっけ? そうPTSD! きっとそれになってるだけなんだよ。


大丈夫。

きっと、大丈夫。


俺は普通だ。


足元に広がる闇に怯えながら、俺は自分に言い聞かせた。

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